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世界を救うべきか? それとも世界は実在しないのか?

探求を始めると、探求の世界はどうやら、大きく2つのグループに分かれているようだと気がついたりします。「世界を救う」というグループと、「世界は実在しない」というグループです。大乗仏教やサーンキヤ哲学は、「世界を救う」というグループでしょう。一方、部派仏教やアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学は、「世界は実在しない」というグループでしょう。同じ宗教なのに2つに分かれているのは面白いというか、混乱する元だったりするのですが、どうやら、自然と分かれていくものなんだというのはなんとなく感じています(もちろん、双方入り混じっていたりはしますが)。

僕自身は、「世界を救うという行為を通して、真理を悟ることができるのかな?」と思っていた時期もありました。でも、ラマナ・マハルシは、「世界はこんなにも苦しみに満ちているのに、なぜ、あなたは何もしようとはしないのですか?」という質問に対して、「どこに苦しみに満ちた世界が存在しているのですか? まずはあなた自身を救いなさい」と答えていたりします。今では、僕もそう思います。

とはいえ、目の前に世界は存在しているように感じられます。なので、今回は、世界は存在しているということを前提に、「世界を救う」とはどういうことなのかを、少し考察してみたいと思います。

※今回は、1万文字ほどの長文です。

世界を救うとはどういうことなのか?

「世界を救う」という言葉は、耳触りの良い言葉です。なんとなく、自分が良いことをしようとしているように感じられるかもしれません。でも、世界を救うというのは、一体どういうことなんでしょうか? 例えば、分かりやすいところで言えば、「飢餓を無くす」とか「差別を無くす」とか「平和を実現する」とかあります。このことについては、同意する人も多いでしょうし、僕も同意します。

でも、例えば、僕は小学校の頃に、アマゾンの森林が伐採されることによって、地球の環境が破壊されようとしているということを学んだような気がします。そして、その時に感じたことは、「じゃあ、人類が滅べば、地球は救われるんじゃない?」ということです。卒業文集に同じようなことを書いた同級生もいたりしたので、こう思う小学生は僕だけじゃないんじゃないかと思います。

もし、こういった小学生が大人になって、ものすごい正義感を発揮して、「世界を救うために、人類を滅ぼすことにした」と言い出したらどう思うでしょうか? 「頭が狂ったか?」と思うかもしれませんが、その人が、世界を救おうとしていることには違いは無いんじゃないでしょうか? もちろん、ほとんどの人の同意は得られないと思います。〝人類を救う〟という問題は無視されています。でも、理屈としては、決して間違ってはいないんです。

「世界を救う」という言葉には、こういった危うさも内包されています。人それぞれ、世界を救うというイメージがあり、それが完全に一致するということはありません。場合によっては、ビックリするぐらいに違うということもあると思います。でも、一体誰が、その正しさを決めることができるでしょうか?

今まで現れた偉人は、世界を救うことはできなかったのか?

僕は今日本に住んでいて、わりと平和に暮らしています。飢餓も感じないですし、差別されているようにも感じません。それはきっと、先人たちの成果です。街には水道管と電線とガス管が張り巡らされているので、蛇口をひねれば水が出ますし、スイッチをパチっとするだけで、電灯が点きます。スイッチひとつでお風呂のお湯も沸くでしょう。おそらく、2000年前の日本人からすれば、理想的な世界です。「これ以上、一体何を望むんだ?」と思われるかもしれません。

でも、現代の日本人にとっては、この状況は当たり前のことなのであって、むしろ、不満点の方に意識が向くことの方が多いのではないかと思います。例えば、「近所に良いカフェができたら」とか「もっと、健康にならなければ」とか「もうちょっと広い家に住みたい」とか「退屈な毎日だ……」とか。はたまた、「街のインフラを維持するのには多大なコストがかかるし、環境にも良くないので、段々とオフグリッド(水道管や電線やガス管に繋がっていない)な生活にシフトしていくべきだ」と考える人もいるかもしれません。人は現状に慣れてしまうと、どんどんと不満点や改善点を見つけていきます。

例えば、食料が不足している時代には、食料を確保するための遺伝子組み換え技術や、農薬といったものは肯定されたのではないかと思います。でも、飽食の現代においてはどうでしょうか? 無農薬の有機の野菜にこだわる人も少なくないのではないかと思います。時代時代によって、何が優先されるのかということは変化していきます。

人類の歴史を見てみるならば、初期の頃は、いかにして食料を確保するのかということが命題だったのではないかと思います。食料を確保するためには、恵みの雨は欠かせず、その頃には、天気をコントロールできると思われる霊能者が重宝されたのではないかと思います。卑弥呼なんかはそういう人だったのかもしれません。でも、現代において、天気のコントロールを霊能者にお願いする人はいるでしょうか? 多くの人は科学的に分析された天気予報を当てにするでしょうし、天気をコントロールすることはできないと認識しているのではないかと思います。なので、天気をコントロールすることはできないという前提のもと、治水工事をしたりダムなどを作ることによって、水害や水不足を補おうという方向に進んだのではないかと思います。実際のところ、それは安定的に食料を確保することに貢献しているはずです。

現在とは、過去の偉人たちが世界を救おうとしてきた結果でもあります。それは、素晴らしい状態でしょうか? それとも、不満が残るものでしょうか? 過去の偉人たちが、世界を変えることができなかったとは思えません。世界は100年前と比べてもだいぶ違いますし、変化のスピードは早まっています。僕は20年前、今のようにスマホが登場して、どこででも高速インターネットにつながる世界(当時はそのことを〝ユビキタス〟と呼んでいました)が現実になるとは思っていませんでした。それは未来のSFの世界のように感じていました。でも、いざそれが実現されてしまえば、それはあまりにも当たり前です。むしろ、たまにインターネットの速度が遅くなったりすると、イライラしてしまう人も少なくないかもしれません。

なので、おそらく、現代の人が思い描く理想的な世界が、100年後に実現されたとしても、100年後の人々は、何かしらの不満を持つのではないかと思います。現代においては、戦争、核の問題、地球温暖化(していないという意見もありますが)、金融危機、再びの食料危機、などの問題があるのかもしれません。人によっては、科学偏重になってしまって、人々が霊性を忘れてしまったということを問題に感じるかもしれません。でも、例え、それらすべての問題が解決されたとしても、未来の人々は、何かしらの新たな不満点を見つけ出すでしょう。それは場合によっては、戦争の火種になるかもしれません。

際限の無さから、人は救われることはないのか?

どのくらいゲームを長く楽しめるのかというのは、人によって違います。中には、すぐに飽きてしまう人もいれば、なが〜く楽しめる人もいると思います。例えば、僕は〝どうぶつの森〟や〝モンスターハンター〟といったゲームが苦手です。これらがどんなゲームなのかと言えば、簡単に言えば、その〝世界観〟を楽しむゲームなんじゃないかと思います。明確なストーリーや目的といったものは決められておらず、これで終わりという〝ゴール〟がありません。なので、続けよう思えば、際限なく続けることができます。

「世界を救う」ということは、僕からすると〝どうぶつの森〟や〝モンスターハンター〟をプレイしようとすることに近いように感じます。実際のところは、「世界を救う」というゴールは実在しないのであり、その都度その都度、一時的なストーリーや目的を楽しんでいくことのように感じられるんです。もちろん、その過程を楽しめるのならいいのですが、「結局のところ、答えは何なの?」という疑問を持つ人にとっては、そういった際限の無い過程は虚しく感じるかもしれません。

現代の科学による推測によれば、根本的に、この世界を救うということは絶望的です。いずれは、この宇宙は消滅するという推測になっているからです。ビッグバンによって起こったこの宇宙は、しばらくの間は膨張を続け、どこかの時点で収縮に転じて、いずれ、消滅するという予測になっています。現実的な問題としては、宇宙が消滅する前に、太陽の膨張によって、地球が飲み込まれてしまうという推測もあります。なので、もし、「世界を救う」ということが、この地球を救うことなのであれば、それは絶望的です。せめて、〝人類を救う〟ために、地球から脱出するための宇宙船の開発ということはできるかもしれません。でも、消滅する宇宙から脱出するなんてことはできるんでしょうか?

「世界を救う」ということをゴールから考えようとすると、こういうことになるのではないかと思います。そこには際限が無くは無さそうですが(とはいえ、途方も無いスケール感ですが)、世界の消滅という終わりを迎える可能性は高いのかもしれません。

霊性は世界を救うことができるか?

もちろん、科学なんて当てに出来ないという意見もあると思います。でも、だからといって軽視することもできません。実際のところ、天気予報においては、その精度は霊能者以上でしょうし、ダムを作るという時にも、その構造計算は科学的に行われるのではないかと思います。でなければ、怖くてダムなんか作れないと思います。この世界の中で、実際に生活するにおいて、科学というのは結構信頼できるものです。

でも、だからといって万能なわけでもありません。科学は、いわゆる〝霊的〟なものを認識することはできません。霊的なものとは何かと言えば、〝意識の目〟によってのみ認識されるものです。それは、例えば、感情であったり、思考やイメージだったりします。感情というのは、明らかにここに在るものですが、肉眼では見えないと思います。人体を解剖してみたって、感情を肉眼で見ることはできないでしょう。イメージだって肉眼では見えないですよね? 人は、過去の記憶をイメージする時、斜め上に目が向いたりしますが、肉眼がそのイメージを見ているわけではないと思います。あくまでも、そのイメージを見ているのは、意識という目です。科学は、〝意識の目〟を再現することはできていません。「この世界はすべて素粒子でできている」と言われることもありますが、科学的に見れば、感情や、思考やイメージといった霊的なものは、この世界に存在していないように見えているんです。科学的に分かるのは、脳がどのように反応しているのかということだけのようです。

科学と霊性の関係性は、その逆も言えます。霊的なものは、物質的なこの世界に直接的な影響を与えることができません。例えば、霊的な手をイメージして、目の前のマグカップを持ち上げようとしてみても、持ち上がらないと思います。もちろん、世の中には不思議な出来事が起こることもあり、100%不可能だなんて言い切るつもりはありません。でも、実際問題として、自分の生身の手で持ち上げたほうが早いわけです。

霊性を使った能力のひとつに、〝意図的に夢を見る〟というのがあります。夢は、肉眼で見るものではなく、〝意識の目〟で見る霊的なものです。なので、夢の中には、他人は存在しないはずなんです。でも、実際のところ、人は、夢の中で、他人と会話したりすることだってありますよね。人には、自分自身の中に、他人のような人格を作り上げるという能力が備わっています。その能力を高めれば、起きている時にも、意図的に夢を見ることが出来るようになるかもしれません。分かりやすい例で言えば、〝神という夢〟を見ようとする人は多いのではないかと思います。霊的な訓練をすると、神の声を聞いたり、神のヴィジョンを見たりする(という夢を見る)ことができるようになるかもしれません。もしかすると、その神は色々なことを知っているかもしれません。でも、その神は、この世界には直接的な影響を与えることができないんです。

例えば、その神が全知全能であるならば、天気をコントロールすることができるはずです。でも、〝神という夢〟は夢でしかなく、この物質世界に対して直接的な影響を与えることができません。〝神という夢〟に出来ることは、その夢を見ている人に、何かしらを伝えることだけです。神という概念は、2500年以上前のヴェーダの時代から登場しています。神々と交信するという描写がされています。もしかすると、神の声を聞きたいと思うのは、人に備わった自然な本能とも言えるのかもしれません。でも、その神は、本質的には、夢の中に登場する〝他人〟と変わりはないんです。

科学が発達していなかった昔は、それでも良かったのかもしれません。博識なバラモン(カースト身分制度の頂点の人々)が語る神の声には影響力があったのかもしれません。博識なバラモンが語る神の声は、相対的に、博識だったのかもしれません。そしてまた、博識なバラモンは、人前で、相手の思考やイメージを読み取るというパフォーマンスを行うことにより、神の声の影響力を高めるということもしていたかもしれません。思考やイメージは〝意識の目〟によって認識される霊的なものなので、霊的な訓練をするとそういうことも可能だったりするようです(その精度はともかく)。

でも、科学が発達してくると、そこに科学的な検証の目が入っていったのではないかと思います。それこそ、昔は、霊能者は天気をコントロールできると思われていたのかもしれませんが、次第に、そんなことはできないということが明確になっていったのではないかと思います。霊能者自身には、相手の思考やイメージを読み取る能力があったとしても、神の声には、この物質的な世界に直接的な影響を与える能力は無いんです。もちろん、直接的な影響は与えられないにせよ、もし、神の声が、今だ未知の科学技術について語りだしたのなら、現代の科学者も、〝神という夢〟に興味を持つかもしれません。でも、そういったこともないようです。

霊性は、この身体には影響を与えられるのではないか?

霊性を使ったものには、〝意図的に夢を見る〟という方向性の他にも、〝霊性と身体を連動させる〟という方向性もあります。チャクラ瞑想、ヴィパッサナー瞑想、ヨガ、気功、といったものは、霊性と身体を連動させようとするものなんじゃないかと思います。例えば、ヴィパッサナー瞑想を実践するなら、身体の表面にエネルギーのさざ波のようなものを感じたり、身体の中をエネルギーが対流しているような感覚を感じるかもしれません。それは、霊性がこの世界に対して影響を与えているということのように感じるかもしれません。でも、そういうわけじゃないんです。あくまでも、霊的なエネルギー(イメージ)と、身体の感覚が重なっているので、一体であるかのように感じられているだけなんです。多くの人が、感情は、この身体に属していると感じているようにです。

もちろん、それでエネルギッシュに感じられるなら良いことですし、いい気分になれるなら、それは素晴らしいことです。でも、この身体は、この物理的な世界の影響下にあるので、どうしても老化していくし、病気になったり、いずれは死ぬことになります。霊性を極めれば、それを避けることができるんじゃないかと考える人もいるかもしれませんが、そのことに成功したことがある人はいないんじゃないかと思います。

霊性と身体を連動させることには、身体の感覚を拡張させるかのような効果があるかもしれません。第六感と呼ばれるような感覚が感じられるかもしれません。でも、それは同時に、霊性を、この身体に従属させてしまうことでもあります。それはどういうことなのかといえば、映画を観ている人が、自分自身を、映画の中の主人公なんだと錯覚するようなものです。本来は霊的な存在である自分自身を、物質的な世界の中の、ひとつの身体に限定しようとするようなものです。もちろん、多くの人は無自覚にそうしています。でも、人は、霊性とは何かということに気づき始めてもなお、その傾向を止めようとはしないということなんです。むしろ、その錯覚を加速させる傾向にあります。

多くの人は、まずはこの世界が在り、その中に宇宙があり、その中に地球があり、その中に、物質的な身体をともなった自分がいると感じているのではないかと思います。霊性を重視する人は、それにプラスして、この身体には、霊的な性質も備わっていると感じているかもしれません。そして、この霊的な性質は、自分だけに限るものではなく、他の人にも備わっているし、植物にだって備わっているし、場合によっては、鉱石や金属にだって備わっていると思うかもしれません。そして、この霊的な理解を広めることが、結果として、この世界を救うことに繋がるのではないかと思うかもしれません。

もちろん、そう思うことは素晴らしいことだと思います。でも、霊的なものは、この世界に直接的な影響を与えられないんです。霊性と身体を連動させることに慣れてくると、ある意味での万能感を感じるようになるかもしれません。なにしろ、霊性と身体、どちらもコントロールできているように感じられるからです。でも、霊性は、物理的な法則を超えることはできないんじゃないかと思います。例えば、将来的に、太陽が膨張して地球を飲み込んでしまうとして、霊性を使って何かできるでしょうか? 祈ってどうにかなるでしょうか? 地球から脱出するための宇宙船を開発するにしても、それは科学者の仕事なのであって、霊性を使っても何もできないのではないかと思います。言ってみれば、この世界を物理的に変えようとすることにおいて、霊性には明らかに限界があります。霊的なアプローチは、この物理的な世界を救おうとするのには向いていません。霊的なものは、この世界に直接的に影響を与えることはできないからです。もし、そうしたいと思うのなら、科学者や、政治家や、宗教家や、革命家や、イーロン・マスクのような経営者を目指す方がいいのかもしれません。

でも、だからといって、そのことは霊性の価値を落とすものでもありません。そもそも、霊性とは、この世界を救うために存在しているわけではないからです。

世界は実在していない

霊性を重視する人の中には、「感情も素粒子でできている」ということにしようとする人が結構いるように思います。感情は、物質でもあり、波動でもある、ということですね。でも、このことを肯定する科学者はいないと思います。多くの科学者は、「感情とは何かということについては、ほとんど分からない」と言っています。どんな観測機器を使っても、感情を、物質としても、波動としても、捉えることができないからです。科学的に見れば、感情はこの世界に存在していないように見えているんです。

でも、人は、科学的な観測機器を使っても捉えることができない、この感情を認識することができています。それは何故なのかといえば、〝意識の目〟がここに在るからです。多くの人は、ここに意識が在るということは理解しています。でも、「意識とは具体的に何を指すのか?」と言われると、なかなか答えられなかったりします。「つまりは、気がついている〝これ〟が意識でしょ?」という人もいると思います。確かに、意識は気づく働きを持っており、〝これ〟に気がついています。でも、〝これ〟とは何かと言えば、それは身体の5感覚のことであり、それはあくまでも意識の目によって気がつかれている〝対象〟でしかなかったりします。それは意識そのものでは無いんです。

人は、何かを考える時、無自覚に、この世界が存在しているということを前提にして、物事を考えます。あらゆるものが、この空間に属していると考えているんです。「意識とは何か?」ということを考える時にも、それを、この空間の中に探そうとします。当然、感情も、この空間の中に属していると考えるでしょう。感情は、この身体の中にあると考えます。思考やイメージだって、この空間の中(頭の周辺)に属しているように考えるんじゃないかと思います。なので、霊性だって、この空間の中に属しているように思えるわけです。

でも、それが勘違いだったのならどうでしょうか? 例えば、将来的に、ものすごくリアルなバーチャルリアリティを体感できる装置が開発されたとします。バーチャルリアリティはすべて作り物です。なので、その中に自分はいません。でも、人は、個人的な視点をとり、身体を所有しているかのように、バーチャルリアリティに気がついているわけです。その時、自分はどこにいると言えるんでしょうか? バーチャルな空間のどこを探したって、自分はどこにもいないのではないかと思います。自分は、ただ気がついているだけなんです。それは〝意識の目〟の働きです。そして、それは感情についても同じことが言えます。この世界でさえ感情を可視化することはできないので、バーチャルリアリティの中で感情を再現するなんてことはできません。でも、人は、バーチャルリアリティの中でさえ、感情を感じるはずです。もしかすると、それはバーチャルな身体の中にあるように感じられるかもしれません。でも、実際のところ、そこに感情を再現したバーチャルデータなんて存在しないわけです。じゃあ、感情はどこに在るんでしょうか?

どんな観測機器を使おうとも、感情を捉えることが出来ない理由は、この構図に似ています。つまりは、感情はこの世界に属しているわけではないということです。そしてまた、その感情を認識する〝意識の目〟も、この世界には属してはいません。もっと言うなら、思考やイメージだって、この世界には属していません。感情、思考やイメージは、〝意識の目〟によってのみ認識される霊的なもので、この世界に属しているわけではないんです。霊性が、この世界に直接的な影響を与えることができないのは、それが理由です。そもそも、世界が違うんです。

人は、空間が無いということをイメージすることが苦手です。それは、すべてのものはこの空間の中に含まれていると想像しているからです。もし、そこに例外が生じるのであれば、この世界の実在性が揺らいでしまいます。バーチャルリアリティの中に空間が無いと理解できるのは、その世界が実在するわけじゃないということが明らかだからです。

〝意識の目〟や〝霊性〟が、この世界に属しているわけじゃないと理解することは、同時に、この世界の実在性を失うことでもあります。もし、この世界が絶対的なものであれば、霊性がこの世界に属していないということはあり得ません。でも、もし、この世界が相対的なものなのであれば、それはあり得ることになります。〝霊性〟も〝この世界〟も、等しく〝意識の目〟によって気がつかれている対象ということです。相対的には、〝意識の目〟は、脳内に構築された〝この世界〟に気がついているように感じられます。〝脳内〟という言葉を使うと、脳自体が絶対的な世界に属するものだと感じられるかもしれませんが、脳自体も相対的なものだということです。なので、ここには、絶対的なひとつの世界が在るわけではなく、〝意識の目〟が在るがゆえに、相対的に、絶対的なひとつの世界(霊性と、物理的な世界が重なった)が在るように感じられているということなんです。にわかには信じがたいかもしれませんが、科学的な研究は、このことを後押しするかもしれません。

〝意識の目〟には実体が無いわけじゃありません。むしろ、それこそが唯一の実在と言えます。ただ、この世界の中からの視点から見れば、それは存在していないように見えるんです。それは〝無〟であるかのように感じられます。でも、〝意識の目〟は明らかにここに在ります。それは、〝自分はここに存在する〟という感覚をともないます。それを感じられないという人はいるでしょうか? それは、感情を感じる場所で感じられるかもしれませんが、それは感情じゃありません。感情は、この世界に対して反応する一時的なエネルギーみたいなものです。それは、〝意識の目〟を覆うようにして存在しています。その覆いが取り除かれるのならどうなるのか? それが、霊的な探求の本来の方向性です。

「世界を救う」ということと「世界は実在しない」ということは、ともすれば対立する考え方だと思うかもしれません。「世界はこんなにも苦しみに満ちているのに、なぜ、あなたは何もしようとはしないのですか?」という質問に対して、「どこに苦しみに満ちた世界が存在しているのですか? まずはあなた自身を救いなさい」と答えることは、頭ごなしに、その質問を否定していることのように感じるかもしれません。でも、そうではないんです。「世界は実在しない」ということは、「世界を救う」ということの一つの答えです。「世界を救う」とは一体どういうことなのか? 本気でそれを突き詰め、実行していくならば、それは簡単ではないということに気がつくのではないでしょうか? 八方塞がりであるかのように感じるかもしれません。「世界は実在しない」という言葉は、その答えになり得るものです。

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