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悟りと真理について

全ては自分が創造した世界なのか?

「全ては自分が創造した世界」と言われることがあります。確かに、その通りだと言うこともできます。でも、その〝自分〟とは一体何を指すんでしょうか? ひとそれぞれに〝自分〟というイメージがあり、その解釈次第によって、「全ては自分が創造した世界」という言葉は、まったく違う意味になったりもします。

この世界は、自分の思い通りに動いているか?

多くの人にとって、〝自分〟とは、自我のことを指すのではないかと思います。他の言葉を使うなら〝心〟〝自由意志〟〝精神〟〝意識的な自分〟といったものです。この意識的な自分は、この身体を思い通りに動かせているように感じられます。例えば、右手を挙げようと思えば、思い通りに挙げることができるのではないかと思います(右手があるなら)。

でも、その対象がこの世界となると、とたんにそうは思えなくなるんじゃないでしょうか? それは思い通りにはならないからです。例えば、突如としてハワイに行きたくなって、ハワイにテレポーテーションしたいと思ったとしても、そうはならないでしょう。この世界は〝自分〟が創造しているわけじゃないからです。この世界には物理法則があり、この〝自分〟はその法則に縛られています。

なので人は、「全ては自分が創造した世界」と言われると、「なぜ、そんなことが言えるんだ?」と疑問に思ったりします。

意識的な自分と、無意識的な自分

〝意識的な自分〟は、この身体をコントロールすることができます。歩こうと思えば歩けますし、走ろうと思えば走れるはずです。なので、人は、「自分はこの身体をコントロールすることが出来る主体だ」と感じています。「この自分がいなければ、この身体は機能することができないだろう」とも感じているかもしれません。

でも、実際のところ、この身体は〝無意識的な自分〟によってもコントロールされているんじゃないでしょうか? 例えば、寝ている間、呼吸をしたり、心臓を動かしているのは一体誰なんでしょうか? この〝自分〟でしょうか? おそらく、そうじゃないはずです。寝ている間は、この〝自分〟は消えています。その間、この身体の面倒を見ているのは〝無意識的な自分〟です。

〝無意識的な自分〟は起きている時にも機能しています。呼吸や心臓の動きをコントロールしているのは、起きている時でさえ〝無意識的な自分〟なんじゃないでしょうか? 突然ボールが飛んできて、身体が反射的に避けるときにも、その動きをコントロールしているのは〝無意識的な自分〟でしょう。そう考えると、この身体を実質的に動かしているのは、〝意識的な自分〟なんでしょうか? それとも、〝無意識的な自分〟なんでしょうか?

例えば、大型飛行機は、離陸と着陸の時は手動だけれども、空を飛んでいる間は、基本的にはオートパイロットだと言われています。自動で飛んでるってことですね。でも、飛んでいる間であっても、手動に切り替えようと思えば切り替えられるわけです。実は、〝無意識的な自分〟と〝意識的な自分〟も、自動と手動のような関係性だとしたらどうでしょうか? もしかすると、この身体は、基本的には自動で機能しているのであり、必ずしも、手動で動かそうとする必要はないのかもしれません。

例えば、人は、物心つく3歳以前の頃は、全自動で機能していたのではないでしょうか? その頃には、まだ〝意識的な自分〟がいないからです。それが、物心がつくと、段々と〝意識的な自分〟が機能しはじめ、「この身体は自分がコントロールしている」という感覚が強くなっていきます。

無意識をコントロールできれば世界を創造できる?

人は、自分自身に無意識的な働きが備わっているということには気がついています。でも、普段はあまり気にしてはいないんじゃないかと思います。だからこその〝無意識的な自分〟です。でも、実際の体感としては、無意識的な働きというのは、自分のようであって、自分ではないようにも感じられているんじゃないかと思います。〝自分〟ではコントロールできないからです。

「全ては自分が創造した世界」という言葉で使われる〝自分〟というのは、〝意識的な自分〟のことではなく、〝無意識〟のことを指していることが多いのではないかと思います。無意識的な働きは、自分でありながら、自分ではないように感じられるように、それは個人的なものではないと考えられることもあります。すべての存在の無意識は、ひとつに繋がっていると考えられることもあると思います。場合によっては、この世界そのものが、無意識によって創造されていると考えられることもあると思います。だからこその、「全ては自分が創造した世界」です。

なので、「全ては自分が創造した世界」という言葉は、「いかにして、〝無意識〟をコントロールするのか?」という考え方とセットで語られることが多いのではないかと思います。

でも、それは、俳優が映画監督をコントロールしようとするようなものかもしれません。映画監督は、その映画のあらゆるものをコントロールします。ストーリーは脚本家が書くかもしれませんが、それを、映画の中にどう落とし込むのかは映画監督が決めます。撮影の現場で、俳優があれこれアイデアを出すかもしれませんが、そのアイデアを採用するのかどうかは映画監督が決めます。その映画において、映画監督があらゆるものの決定権者です。

もし、〝無意識〟がこの世界を創造しているのであれば、〝無意識〟はこの世界の監督です。そして、この〝自分〟は、その中のひとりの俳優でしょう。であるなら、この〝自分〟は世界を創造するなんてことはできず、むしろ、〝無意識〟によって創造されている側の可能性が高いんじゃないでしょうか? この〝自分〟には自由意志の感覚が備わっているので、努力すれば、自分自身が監督になれるように感じられます。その考え方は、人が神を超えることができるというような矛盾を含むのですが、この〝自分〟には、それが可能であるかのように感じられたりします。でも、その感覚自体が、監督たる〝無意識〟によって創造されたものだとしたらどうなるでしょうか?

実際のところ、世界を創造することに成功したことがある人はいないでしょう。誰も天気をコントロールできませんし、死者を蘇らせることもできません。この世界はそういったルールにはなっていないからです。この〝自分〟に、この世界のルールを変えることはできません。可能なのは、この世界のルールに則って、現実を変えようとすることだけです。そのことに成功する人はいます。でも、そのことを「全ては自分が創造した世界」と表現することは、少し大げさかもしれません。

〝映画を観る人〟が映画を創造している

映画を創造するのは映画監督です。でも、その映画は、観る人がいて始めて存在することができるとも言えるんじゃないでしょうか? 誰にも観られたことがない映画がもし存在するなら、それは存在していないに等しいでしょう。であるなら、別の視点から見れば、映画を創造しているのは、〝映画を観る人〟と言うこともできるんじゃないでしょうか? 映画監督はフィルムを創造しているのであり、〝映画を観る人〟が、そのフィルムを疑似体験として創造します。

「全ては自分が創造した世界」という言葉は、〝無意識〟をコントロールすることを前提に語られることが多いですが、実のところは、この世界に〝気がついていること〟そのものを、「全ては自分が創造した世界」と言うこともできます。例えば、目の前に山があるとして、この〝自分〟が〝無意識〟をコントロールして山を物理的に創造しているとは、なかなか言い難いのではないかと思います。でも、目の前の山に〝気がついていること〟そのものが創造なのであれば、それは可能です。というよりも、あまりにも当たり前の現象ですよね。「そんな当たり前のことに、何か意味があるのか?」と思うかもしれません。

でも、この〝気がついている〟ということは、当たり前のようでいて、当たり前ではなかったりもします。例えば、ロボットは、人が感じているように、この世界に〝気づく〟ことはできるんでしょうか? ロボットに、人が認識しているような意識は芽生えるんでしょうか? 人工知能(AI)が人並みに進化すれば、意識が芽生えるのではないかと思われていたりもしますが、知能と意識は別のものです。知能の低い動物にだって、意識はあるのかもしれません。

「全ては自分が創造した世界」の〝自分〟とは、実のところは〝無意識〟のことではなく、〝意識〟のことです。言葉にすると簡単なのですが、〝意識〟とは何かということは、理解することが難しいです。〝全ては自分が創造した世界〟なので、意識自身はその中には存在していません。〝映画を観る人〟が映画の中には登場しないようにです。それでは〝意識〟とは何なのか? そのことを理解するなら、〝無意識〟をコントロールして、この世界を創造しようとする必要は無いということに気がつくかもしれません。

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