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ハート・真我 山家直生による特選記事 私は在る

ハートに意識を向けることと「私は在る」ことは違うのか?

今回は、ハートに意識を向けることと、「私は在る」ということの違いについてお話したいと思います。この2つ、同じようなものなんじゃないかと感じる人は意外と多いのではないかと思います。うちの妻からも、「それって同じことでしょ?」という答えが返ってきました。でも、この2つには明確な違いがあるんです。そしてまた、探求において、最も誤解が生じやすい部分のひとつでもあるかもしれません。

感情を感じるのに、感情に意識を向ける必要はあるか?

単純な話として、感情を感じるのに、感情に意識を向ける必要はないと思います。例えば、スポーツを楽しんでいる時には、楽しいという感情に意識が向いているわけではないはずです。スポーツをしているのであれば、自分の身体の動きや、相手の身体の動き、ボールの動きなどに意識が向いているのではないかと思います。その時に、楽しいという感情に意図的に意識を向けようとするなら、反対に、目の前のスポーツに集中できなくなってしまうかもしれません。そしてまた、わざわざ、そうしようとする人もいないでしょう。楽しいという感情は明らかに在るからです。意識の方向性は関係無いんです。楽しさが在ります。

「私は在る」というのは、〝楽しさが在る〟という在り方と同じようなものです。もちろん、その性質は違います。「私は在る」という感覚は、あらゆる感情から解放されたような感覚です。何かを求める衝動から解放されたような感覚です。でも、それは、ハートに意識を向けるから感じられるわけじゃないんです。そしてまた、楽しさを感じる時のように、そこに何かしらの原因があるわけでもありません。

だからこそ、「私は在る」ということは理解しがたいんです。人は、生まれてからこれまで、何かしらの原因があるから、何かしらの感情が得られるという関係性を学んできています。楽しいと感じることには原因があるし、悲しいと感じることにも原因があります。なので、「私は在る」ということにも原因があるであろうと、無自覚に感じているんです。そして、その原因として、〝ハートに意識を向ける〟ということに注目するというのは、ある意味では自然なことかもしれません。

もし、ハートがここに無いなら、ハートに意識を向けることはできない

もし、ハートがここに無いと感じるのであれば、どこを探してもハートは無いはずです。「ハートにとどまりなさい」とか「私は在る」とか言われると、その感覚を知りたくなりますよね。でも、もし、ハートがここに無いと感じるのであれば、それは不可能なんだと、一旦は理解することが重要かもしれません。

例えば、楽しいという感情を相手に感じてもらおうとする時、あなたならどうするでしょうか? 「感情を感じる場所に意識を向けて、『楽しさよ、起これ!』と念じるといいよ」とか言いませんよね。自分自身、そういうふうにして楽しさを感じているわけじゃないからです。例えば、旅行している時に楽しいと感じることが多いのであれば、相手に、旅行してみることを勧めるかもしれません。もちろん、どう感じるのかということには個人差があります。なので、自分が楽しいと感じることをザッとリスト化して、その中から、楽しそうだと思えることを実践してもらおうとするかもしれません。

僕も、相手にハートの感覚を感じてもらおうとする時、こういった思考パターンをします。でも、ハートを感じることには理由がありません。なので、それは難しいです。強いていうなら、僕はハートの感覚を、「小学生の頃の夏休み初日の解放感」とか「やらなければならない仕事を達成した解放感」とか表現することが多いです。でも、空白JPの読者のほとんどはすでに小学生ではないでしょうし、やらなければならない仕事を達成するためには、多大な労力が必要かもしれません。それにも関わらず、解放感を感じられるのはほんの数時間、数日だったりします。なので、それは理由もなく持続するハートの感覚とはやっぱり違うんです(質的な部分は似てますが)。

もし、僕も「ハートに意識を向けること」と言えたなら良いのですが、そもそも、ハートが無いと感じている人が、ハートに意識を向けるなんてことはできませんよね? なので、ハートに意識を向けるということは、感情を感じる場所に、ハートの感覚を想定する(でっちあげる)ことが前提になっていることが多いような気がしています。言ってみれば、「ハートの感覚よ、起これ!」ということです。でも、それは不自然なことなのであって、僕はそんなことは実践してきていません。その方向性であれば、「私は在る」という感覚よりも、「私は自由意志で在る」という感覚が強くなっていくのではないかと思います。

もちろん、そういった行為は、瞑想の一種として機能すると思います。場合によっては、感情を感じる場所で、何らかの反応を感じるかもしれません。サマーディが起こることもあるかもしれません。そのことに満足する人もいるかもしれません。でも、それは一時的なものでしょうし、本来は根拠もなく感じられるハートの感覚を、理由があるものに限定してしまうことでもあります。

無いものに意識を向ける(想像する)必要はなく、ここに在るものが一時的であることを確認するだけでいい

無いものは無いと認めたほうがいいんです。無いものを在ると想像する必要はありません。それよりも、在ると思っているものが、本当に在るのかを確認するほうが簡単です。

例えば、嫌なことがあると、人はその嫌な感情を、楽しい何かで上書きしてしまおうとしたりします。人は、生まれてからこれまで、そういった感情の上書きができるということを学んできています。もちろん、上書きしたからといって、嫌な感情が根本的に消えてしまうということはないと思います。なんとなく、無意識下に在るなという感覚は残ると思います。でも、表面的には忘れていられるわけです。

言ってみれば、感情というのは、地層のように積み重なっているようなところがあります。本来、あらゆる感情は一時的なもので、現れては消えていきます。でも、感情を上書きするかのように意図的な行為をすると、その感情は一時停止されたような状態で地層化してしまいます。多くの人の無意識下には、こういった地層が積み重なっているんじゃないでしょうか? それでいて、ハートとは何か、「私は在る」とは何かということを追い求めるわけです。でも、実際のところ、ハートは最下層にあります。何ひとつ地層が積み重なっていない状態が「私は在る」ということです。

世の中には、探求を始める前に、ハートを理解してしまう人がいます。何の予備知識もなく、ハートを理解してしまう人がいます。それは何故なのかといえば、ハートとは霊的に追い求めていくものではなく、あらゆる一時的な感情が消えた後に、自然と残るものだからです。ちなみに僕も、探求を始める前にハートを理解しています。僕はあまり、気を紛らわすということが好きじゃありません。嫌なことがあったとしても、別の何かをして、その感情を紛らわせたいとはあまり思わないタイプです。そんなことをしても、それは根本的な解決にはならないし、後になって余計に苦しむような気がしているからです。そんな性格もあり、僕の場合には、地層を積み重ねていくスピードよりも、地層が消えていくスピードが早くなり、結果としてハートとは何かに気づくことになりました。なので、本格的に探求を始めた頃には、すでに「私は在る」ということにとどまる準備は、ほぼほぼ完了していました。なので、探求もわりと早く終わったのではないかと思います。

〝ハートに意識を向ける〟という行為は、ハートを理解するための最短の道のように感じるかもしれません。反対に、嫌な感情に、ただ気づいているということは、無駄な回り道であるかのように感じるかもしれません。でも、実際のところは逆なんです。嫌な感情を含め、ここに在る感情に、ただ気づいているということは、ハートを理解するための最短の道です。それは、直感的な感覚とはズレているかもしれません。でも、真理には逆説が付きものです。反対に、〝ハートに意識を向ける〟ということが、まさしく、「ハートの感覚よ、起これ!」ということなのであれば、それは新たな地層を作り上げてしまうようなものでもあります。それは、例えばスポーツをして、感情を紛らわせるというような方向性と変わりはありません。ただ、それが外向的なものから、内向的なものに切り替わっただけです。結果として、ハートの感覚は近くなるようで、遠ざかるかもしれません。

「私は在る」ということと、行為は関係がありません。例えば、僕は今、この文字をタイピングしているのですが、タイピングをすることと、「私は在る」ということは関係がありません。僕の意識は今、MacBookのディスプレイに向いていますし、指先とキーボードが触れる感覚に向いています。でも、「私は在る」わけです。ハートの感覚がここに在ります。それは、〝楽しさが在る〟という在り方と同じです。意識がどこを向いているのかは関係がありません。それは例えば、僕がこれから車に乗ってドライブに行こうが、料理を始めようが同じです。もちろん、目の前で交通事故でも起これば、感情的な何かにハートの感覚は覆い隠されるかもしれません。でも、それは一時的なことなのであり、その感情が去れば、ハートの感覚がここに在るということを知っています。そしてまた、何もしてなければ、自然と意識はハートに向くようになります。そのことを〝ハートに意識を向ける〟と言ってもいいかもしれませんが、それは向けるというよりも、勝手に向くという感じなんです。瞑想中に、サマーディが起こっている感覚に近いです。なので、「私は在る」ために何かを意図的にする必要はなく、言ってみれば、僕は手ぶらな感覚を感じているんです。

もし、ハートの感覚を感じるために〝ハートに意識を向ける〟という意図的な行為が必要なのであれば、おそらく、危なくて車の運転なんてしていられません。手ぶらではいられないので、目の前のことに集中できないんです。「とはいえ、まずはハートに意識を向けるところから始めてもいいんじゃない?」と思う人もいるかもしれません。もちろん、それでもいいのですが、自分がどのようにして〝無いもの〟に意識を向けようとしているのかということには、自覚的であったほうがいいかもしれません。

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