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真我探求

空間が意識であるかのように感じられるメカニズム

「意識(神)とは空間のことである」と言われることがあります。

個人はこの体に限定されているけれども、意識はこの体に限定されているわけではなく、それはこの空間全体に広がっているということですね。

宇宙そのものが意識であり、神であり、空間であるということでもあります。

こういった考え方は、イメージしやすいということもあり、わりと支持されていたりもすると思います。

〝空〟の思想と関連づけられて語られることもあるかもしれません。

意識は〝空〟なのであって、それは〝空間〟として現れたり〝物質〟として現れたりするということですね。

僕自身、「そうなのかな?」と思っていた時期もありました。

でも、それは自我によって作られた、巧妙な錯覚なんです。

空間が意識であったほうが、自我にとって都合が良い

「意識は空間みたいなものである」という言葉が支持されがちなのは、その方が自我にとって都合がいいからです。

意識とは何かという問題は、科学的には解決されていません。

解決の糸口さえ見つからない状態と言ってもいいのかもしれません。

「脳が意識を作り出しているのではないか?」という憶測があるだけで、それ以上は研究しようがないようです。

どんな科学的な観測機器を使おうが、意識そのものを観測することができないからです。

「どうやって意識という存在を研究すればいいのか?」というところで止まってしまうんですね。

科学者の研究対象が、宇宙や素粒子に向きがちなのはそんな理由もあるようです。

でも、探求の世界では「意識は空間みたいなものである」と言われたりします。

科学者からすれば、「どうやってそれを証明するの?」と思うところでしょうが、探求の世界では科学的な証明はほとんど重要視されないと思います(そのわりに量子力学は引用されがちですが)。

探求の世界で重要視されるのは、その言葉を信じられるかどうか、というところなのではないかと思います。

その点、「意識は空間みたいなものである」という言葉はなかなか良い線を突いているんです。

なんとなく「そんなものかなあ」と思うことができるし、信じようとすることもできると思います。

自我は空間を〝対象物〟として認識することができる

すべての人は空間とは何かを知っていると思います。

「目の前に空間は広がっているよね」と思うのではないかと思います。

だからこそ、「空間=意識」という考え方はスッと頭の中に入ってくるんですね。

もし、意識とは何かということを、意味不明な言葉で語られるなら、なかなか理解することはできないと思います。

例えば、「意識とは虚無から湧き上がる光の輝きなのであって、誰にも気がつかれることなく、ここに在る」とか言われたなら、ちょっと考えるんじゃないかと思います。

直感的ではないし、言葉の定義がどうなっているのか気になってしまうかもしれません。

言葉の定義というのは人によって微妙に結構違ったりします。

また、言葉の定義の違いというのは、ある程度の言葉の量がなければ、なかなか気がつけなかったりします。

その点、「空間」という言葉は物質的な感覚と紐付いているので、人による認識の差は少ないのではないかと思います。

だからこそ、「意識は空間みたいなものである」という言葉は、なんとなくスッと頭の中に入ってくるんですね。

理解しやすいし、イメージしやすいんです。

でも、その理解のしやすさは気をつけるべきものかもしれません。

なぜ、「意識は空間みたいなものである」という言葉が理解しやすいのかといえば、自我は空間とは何かということを〝対象物〟として認識することができるからです。

「空間=意識」なのであれば、意識とは、自我によって〝対象物〟として認識されうるものということになります。

観察される対象は、観察する主体にはなり得ません。

意識とはそういった存在なんでしょうか?

空間を意識だと思っているうちは、自我はイメージする主体として存在できる

自我が「意識は空間みたいなものである」という言葉を信じたがるのは、そうしているうちは、自我は〝意識〟をイメージする主体として存在し続けることができるからです。

この構図は非常に巧妙です。

自我は、「私はこの意識(空間)に気がつかれている」というフリをするのですが、その意識(空間)というのは、この自我がそうイメージしているものなんです。

意識そのものには存在の証明はいりません。

「私は在る」

(関連記事:「私は在る」という感覚をインスタントに悟る方法

それで終わりです。

気づきであり、存在そのものです。

でも、空間を意識として認識するためには、自我の存在が必要です。

空間そのものが「私は在る」と言うでしょうか?

空間そのものは常に対象物なのであり、それは自我によって認識されます。

そして、その自我が、「空間とは意識なのであって、私はその意識によって気がつかれている」と主張するんです。

それは、意識という存在を証明するのは私(自我)だと言っているようなものなんじゃないでしょうか?

その事自体が、空間は意識ではないということの証明にもなります。

でも、自我はそのことに気がつくことができません。

むしろ、空間が意識であるなら起こりうる、形而上学的な矛盾点を解消しようとします。

「なぜ、空間が『私は在る』とは言わないのか?」というのもその矛盾のひとつです。

自我は、その矛盾に対して〝大いなる意識〟と〝個人的な意識〟という2つの概念を持ち出したりします。

宇宙という空間が〝大いなる意識〟なんだけれども、悟らないことには、意識はこの体に限定されるのであって〝個人的な意識〟としてしか在ることができないと考えたりするんです。

自我というのは、こういったことを考え続けたいと思っています。

そして、空間を意識だとイメージし続ける限り、それは可能なんです。

自我が存在しなければ、「空間=意識」と錯覚することもありません

自我が存在しなければ、空間を意識であると認識することはできません。

でも、逆説的に、自我が存在していない時に、「私は在る」ということが理解されます。

それは意識であって、存在です。

それは空間ではありません。

〝大いなる意識〟と〝個人的な意識〟という考え方は、2500年以上前からあります。

インドでは〝大いなる意識〟をブラフマン、〝個人的な意識〟をアートマンと呼んだりします。

ブラフマンとアートマンの関係性というのは、2500年以上前から議論の的なんです。

自我にとって、その関係性はとても気になるものです。

そこには様々な解釈があります。

輪廻という概念も、ブラフマンとアートマンの関係性から生まれたものでしょう。

ブラフマンの中で、アートマンが輪廻すると考えるんですね。

でも、そういった概念自体が自我による空想でしかないんです。

自我自身が、ブラフマンとアートマンという概念を作り出しておいて、その中に真実を探そうとしているんです。

例えるなら、自分で作ったテレビゲームの中で、真実を探そうとしているようなものなんです。

もし、テレビゲームの中に真実があるのなら、それを作り出した自我は、真実を超えていることになります。

であるなら、自我は自我自身を調べてみるべきなんじゃないでしょうか?

自我は、「自我自身を調べてみてはどうか?」と言われると戸惑います。

どうすればいいのか分からなくなるからです。

自我は、空間を対象物として認識することができます。

でも、自我は、自分自身を対象物として認識することができません。

自我とは何でしょうか?

体でしょうか?

感情でしょうか?

意志でしょうか?

心でしょうか?

自我とは何かと言えば、「私は〇〇だ」という錯覚です。

その対象はなんだって良いわけです。

例えば、「私は体だ」と錯覚している限り、自我はその錯覚として存在することができます。

自我は、意識が向く対象に成ります。

「私は意志だ」とも錯覚するし、「私は感情だ」とも錯覚するし、「私は意識(空間)だ」とも錯覚するんです。

自我とは、対象物を隠れミノにしなければ存在できない錯覚です。

自我自身を調べていくなら、次第にそのことが明確になっていくかもしれません。

どこにも意識が向いていない時、自我は錯覚として存在することができません。

それでもここに在るもの、そのことに気がついている存在が〝意識〟です。

「私は在る」です。

自我が「意識は空間みたいなものである」と錯覚することができるのは、ここに〝意識〟が在るがゆえです。

(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?

作成者: 山家直生

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