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Q&A ラマナ・マハルシ

ラマナ・マハルシの「心をハートに溶かしなさい」の意味は?【Q&A】

今回はKWさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。

KWさん、いつもありがとうございます。

KWさんからの質問

こんばんわ。KWです。また疑問が湧いたので質問させてください。確かマハルシがいった言葉だと思うのですが「心をハートに溶かしなさい」というのは、このブログでいう私-私のことですか? それとも別で実際に心が溶けているのでしょうか? もしそうだとしたらどうやったら溶けるのでしょうか? お答えいただけると幸いです。

回答

KWさん
こんにちは。

お久しぶりです。

> 「心をハートに溶かしなさい」というのは、このブログでいう私-私のことですか?

そうですそうです。
「心をハートに溶かしなさい」というのは「私ー私」のことです。

(関連記事:「私−私」と「私は在る」は違う意味なのか?【ラマナ・マハルシ】

溶かしなさいと言われると、色々と想像力を働かせてしまいがちですよね。
溶かしなさいというのは、単純に言えば、ハートから抜け出そうとする衝動が弱まるまで待ちなさいという感じかもしれません。

ハートというのは、特別な何かと思われがちですが、実際のところは当たり前すぎる存在の感覚です。
なので、心としては、刺激的な何かを求める傾向は続くんですよね。

例えば、KWさんの場合には絵を描くことや観ることが続くかもしれません。
僕の場合には、空白JPを書くことや映画を観ることは続いています。
ラマナ・マハルシは、アシュラムがある程度の規模になってからは、新聞を読んでいたりもしたようです。

覚者自身、なにかをするということは続きます。
もちろん、ラマナ・マハルシの場合には「私は行為していない」と言ったりもします。
でも、それはハートとしての私は行為していないのであって、体、心としての私は行為をすることになります。
そのこと自体は問題ないのであって、むしろ、当然のことなんです。

ただ、優先順位としては、「私ー私」としてハートにとどまることが1位になる必要はあると思います。

最初のうちは、「私ー私」という状態は、退屈と紙一重なところがあるんじゃないかと思います。
「私ー私」という状態に長くとどまることができず、退屈に感じられることもあると思います。

もちろん、そうなるのは当然です。
だからこそ、ラマナ・マハルシは「心をハートに溶かしなさい」と言うのではないかと思います。

例えば、昔は苦しんでいたけど、今はなんとも思わない記憶ってありますよね。
「そんなこともあったな〜」と思えるような記憶です。

大抵の場合には、苦しみ飽きてしまった記憶です。

その飽きてしまった感覚が、溶けるという表現に近いと思います。

「以前は退屈にも感じていたけど、今は退屈だと感じないな〜」って感じられるまで「私ー私」という状態にとどまろうとしてみなさいというのが、ラマナ・マハルシの言う「心をハートに溶かしなさい」という言葉の意味するところかもしれません。

KWさんからの返信

お答えありがとうございます! スッキリしました。すみません。ちょっとまた疑問がでて、しまいました。ハートにとどまることと、気づき自体に気づいていることは、同じですか?
最近こちらのブログで書かれていた自我が子供ににているとありましたが、感情を観ていると自我の考えてることに笑ってしまう感覚になるときがあるんです。見守っているような。

回答

> お答えありがとうございます!スッキリしました。すみません。ちょっとまた疑問がでて、しまいました。ハートにとどまることと、気づき自体に気づいていることは、同じですか?

これは微妙に結構違うんです。
ハートにとどまるというのは、何かに気づこうという気すらない状態なんです。

例えば、僕はハートのことを解放感と言ったりもします。
なにかの束縛から解放された時って、別に解放感に意識を向けようとか気づこうとかしませんよね?
特にどこにも意識が向いていない状態なんです。
何かに気づこうともしていません。
にも関わらず、解放感が起こって、そこに意識が集中するように感じられます。

ハートにとどまるというのは、この状態に近いです。
特にどこにも意識を向けようとすることなく、自然発生的に、ハートへの集中が起こっている状態です。

一方、気づき自体に気づこうとすることは、「気づこう!」とする意志の力に依存すると思います。

この意志の力というのは、瞑想中に自分の思考に気づこうとしたりすることには適しています。
というより、意志の力がなければ、自分自身を観察するということはできないと思います。

でも、意志を使ってハートにとどまるということはできないんです。
むしろ、ハートにとどまりたいと思うなら、意志として何かをコントロールしようとすることを手放す必要があるんです。

それは、意志にとっては退屈なことでもあります。
なので、ハートと退屈は紙一重だったりするんですね。

(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと

> 最近こちらのブログで書かれていた自我が子供ににているとありましたが、感情を観ていると自我の考えてることに笑ってしまう感覚になるときがあるんです。見守っているような。

そうですね。
自我は勝手に色々と考えますもんね(笑)

作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

2021年からTwitterも始めました。

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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