「あるヨギの自叙伝」で有名なパラマハンサ・ヨガナンダは、ラマナアシュラムを訪れています。
確か、「あるヨギの自叙伝」の中でも、ほんの少し触れられていたんじゃないかと思います。
その時の対話が、「ラマナ・マハルシとの対話(第1巻)」に収録されていますので、今回はその対話の内容について解説してみたいと思います。
「ラマナ・マハルシとの対話(第1巻)」(対話107)から引用
短い対話ですので、対話の内容をすべて引用してみたいと思います。
後にスワミ・ヨーガーナンダが尋ねた。「どうすれば人々の精神性を向上させられるでしょうか? どのような指導を与えるべきでしょうか?」
マハルシ:それらは個人の資質と彼らの心の霊的成熟度にしたがって異なります。全般的な教えというものはありえないのです。
ヨガナンダ:なぜ神はこの世に苦しみをあらしめているのでしょうか? 神は全能の力でたちどころに苦しみを取り除き、宇宙全体に神の実現を命ずるべきではないでしょうか?
マハルシ:苦しみは神を実現するための手段なのです。
ヨガナンダ:別の方法を定めるべきではありませんか?
マハルシ:それが神のやり方なのです。
ヨガナンダ:ヨーガや宗教は苦しみに対する解毒剤なのでしょうか?
マハルシ:それらは苦しみを克服する助けとなります。
ヨガナンダ:なぜ苦しみがあるのでしょう?
マハルシ:誰が苦しむのですか? 苦しみとは何でしょうか?
答えはなかった。ヨーギーはついに立ち上がると、「私の仕事のために祝福をお与えください」とシュリー・バガヴァーンに祈り、「性急に去ることを遺憾に思います」と告げた。彼はとても誠実で、献身的であり、感情に訴える人だった。
なぜ、マハルシとヨガナンダの対話は噛み合っていないのか?
どう感じるでしょうか?
マハルシとヨガナンダの対話は、ある意味では噛み合っていないように感じるんじゃないでしょうか?
話は平行線のままです。
むしろ、2人は対立しているようにも感じられます。
それは当然なんです。
ヨガナンダは、サーンキヤ哲学を支持しています。
サーンキヤ哲学とは、魂として輪廻を繰り返し、霊的に成長することで神を実現することができると考える哲学です。
(関連記事:スリ・ユクテスワの「聖なる科学」をわかりやすく解説【サーンキヤ哲学】)
一方、マハルシは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学を支持しています。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学とは、魂もこの現象世界も実在するものではなく、ただ、神(真我)だけが実在すると考える哲学です。
神を実現するという目的はどちらとも同じなのですが、その手段が両者で大きく違います。
サーンキヤ哲学では、現象世界を理想的なものに近づけていくことで神を実現できると考えます。
一方、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学では、神に直接とどまることによって、神を実現できると考えます。
なぜ、あなたはこの世の苦しみを取り除かないのか?
サーンキヤ哲学とアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学のような対立というのは、あらゆる宗教の中にみられます。
まるで、それが運命づけられているかのようにです。
例えば、ブッダの教えが、部派仏教(小乗仏教)、大乗仏教と変化していったのは、当然の運命だったのかもしれません。
大乗仏教の目的は、人類の救済です。
世間には目を向けず、瞑想修行に明け暮れる部派仏教への批判から大乗仏教は起こっています。
「世間はこんなにも苦しみに満ちているのに、あんた方はなぜ何もしないんだ!?」ということですね。
ある意味では、ヨガナンダもマハルシに対して同じことを言っているんです。
「なぜ神はこの世に苦しみをあらしめているのでしょうか? 神は全能の力でたちどころに苦しみを取り除き、宇宙全体に神の実現を命ずるべきではないでしょうか?」というのは、「神を実現したというのなら、なぜ、あなたはこの世の苦しみを取り除こうとはしないのですか?」と言っているようなものかもしれません。
神を求めながら、神の能力の不十分さを疑うという矛盾
サーンキヤ哲学の矛盾点のひとつに、神の能力への疑いというものがあります。
ヨガナンダは、この世に苦しみがあり、苦しみが神を実現するための手段だということに対して、「別の方法を定めるべきではありませんか?」と言っています。
神を全能の存在と言っておきながら、こう発言することは辻褄が合わないんじゃないでしょうか?
それは、「神のやり方は間違っている」と言っているようなものです。
もし、本当に苦しみが存在するべきで無いのであれば、全能の神がそうできないわけがないんです。
マハルシは、苦しみが存在することに対して問題を感じていないのですが、ヨガナンダはそれを問題だと感じています。
どちらがより神を信頼しているでしょうか?
神とは、人の要望を叶えるべき存在なんでしょうか?
苦しみは、神によって一掃されるべきなんでしょうか?
そして、そもそも苦しみとは何なんでしょうか?
ヨガナンダの「なぜ苦しみがあるのでしょう?」という問いに対して、マハルシは「誰が苦しむのですか? 苦しみとは何でしょうか?」と反対に問い返しています。
まさしく、そこがポイントです。
ヨガナンダの認識によれば、苦しみとは、世界の中にあるもののようです。
なので、世界を変えることができるならば、苦しみは消えるという考えになります。
そして、それが自分の使命だとヨガナンダは認識しています。
でも、そうじゃないんです。
苦しみとは、明らかに自分の中にあるものです。
世界の中を探してみても、苦しみという実体を見つけることはできません。
「これが苦しみの原因だ!」と指を指せる実体は存在しないんです。
ただ、自分がそう感じるというだけです。
感じ方というのは人それぞれ違いますし、ある人にとっては、それはむしろ喜びだということだってあるんです。
苦しみという実体があるとすれば、それは明らかに苦しみの感情そのものです。
であるなら、世界を変えようとするのではなく、その苦しみの実体そのものを取り除けばいいんじゃないでしょうか?
取り除き方は、静かにその苦しみを観察することです。
現実が変わらずとも、やがて、その苦しみは消えてしまいます。
すべての苦しみの感情(退屈含む)が消えてしまった後に残るものが神(真我)です。
だからこそ、ラマナ・マハルシは「苦しみは神を実現するための手段なのです」と言うんですね。
(関連記事:「苦しみ」と「退屈」を避けないこと)
もちろん、世界を良くしようとする活動そのものは素晴らしいことです。
でも、その先に神の実現があると勘違いすると、苦しみは増すばかりかもしれません。