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「世界の実在性」に対する確信の消失についてのご報告【Q&A】

今回はKAYUさんから頂いたメールを公開したいと思います。KAYUさん、ありがとうございます。今回は実質的にはQ&Aというわけではなく、真我実現に至ったという報告です。

KAYUさんからは度々質問を頂いていたのですが、真我実現に至るのは時間の問題だろうとは思っていました。とはいえ、真我実現は他者が承認するものではなく、あくまでも主観的な自覚です。感覚的に真我実現に至ろうとも、知的には「本当に真我実現したのだろうか?」という検証期間はしばらく続きます。

ちなみに、KAYUさんはこれを機にブログを始められたようです。今は空白JPの影響を強く受けているのですが、検証が進めば、独自の切り口になっていくかもしれません。気になる人はチェックしてみてください。

※今回は7000文字ほどの長文です。

KAYUさんからの報告

山家さん

お久しぶりです。以前、何度かお便りをさせていただいた、KAYUです。

前回お便りをさせていただいたのは、ちょうど1年近く前になりますが、その後も「瞑想的な日常生活」と「ハートに留まること」を実践しておりました。それで、最近、かなり大きな変化を経験したので、ご報告しようと思い筆を執りました。

前回のメールの時点では、私は「観照者の目覚め」を経験した直後で、まだ「私は在る」という感覚が十分馴染んでいませんでした。また、ハートの感覚を時々見失うことも多く、当時、生活の中でハートに留まっていられる時間は全体の50%~60%くらいだったと思います。

ですが、それから淡々と生活を続けていく中で、「私は在る」と「ハートに留まる」ということが、徐々に自然なことになっていきました。

ただ、主体的には特に何かを努力していたわけではなく、当たり前のように生活していただけでした。たとえば、「私は在る」という感覚を無理やり維持しようとしたりですとか、「ハートの感覚」を長く持続させようとしたりといったことをせず、「別に何も変えようとしなくていいか」というくらいに考えて、淡々と日々を過ごしていたのです。

おそらく、約1年前に「観照者の目覚め」を経験したことで、「自我」と「意識(本当の自分)」を混同することがなくなっていたことが大きかったのだと思います。以前は「自我」と「意識」を混同していたので、私は「自我」が傷つくことを恐れ、コントロール欲求を手放せませんでした。「自我」こそが「自分自身」だと誤解していたため、「自我の死」を「自分自身の死」であるかのように考えてしまっていたのです。

ですが、「観照者の目覚め」を経験してこの誤解が自分の中で解けたことで、恐れが徐々になくなっていきました。他者からの評価を得ようとすることも、他者からの攻撃を避けようとすることも、どちらもあまり意味のないことのように感じ始めたのです。と言いますのも、他者からの評価を得て喜んだり、他者からの攻撃で傷ついたりするのは、あくまでも「自我」の側であって、「意識」はそういったことに関係がないからです。

「今まであんなに必死になって評価を求め、攻撃を避けて生きていたのは、『自我』のことを『本当の自分』だと勘違いしていたからなんだな」私はそのように思いました。

そうして、「在る」という感覚の源が「自我」から「意識」に徐々に移っていくにしたがって、コントロール欲求は消えていき、結果的に「ハートに留まること」も容易になっていきました。別に何らかの仕方で「ハート」を縛り付ける必要を感じることもなく、普通に生活しているだけで、「ハート」を感じられるようになっていったのです。

そして同時に、探求に対する欲求もまた、徐々に消えていってしまいました。かつてはあんなに熱烈に求めていたにもかかわらず、私はもう「絶対に真理を理解したい」とは思わなくなっていました。と言いますのも、そもそも「真理を理解したい」という欲求そのものが、「自我」に由来するものだったからです。

もちろん、「自我」と「意識」が別物であるということを理解しても、「自我」そのものはなくなりませんから、あいかわらず「自我」は働き続けておりました。しかし、かつては「自我」が主人として威張っていて、「意識」はあたかも間借り人のように隅っこに住まわせてもらっていたような状態だったところが、「観照者の目覚め」以降、この関係性が徐々に逆転していきました。今では「意識」こそが主人であるように感じていて、「自我」はあくまでも私がこの日本社会で生きていくために働く使用人のようなものになりました。

「自我」は「とても有能な使用人」ですが、もはや「支配者」ではありません。そして、だからこそ、「自我」に由来していた「探求への欲求」もまた、消失していったように思います。

そうして私は、「私は在る」と「ハートの感覚」にひたすら留まりながら、「真理を理解できてもできなくてもどっちでもいいか」と思うようになりました。そもそも、最終的な「サット(存在)」についての理解は、意図的に目指すことができないと、山家さんもはっきり書いておられましたし、そうであるならば、私にできることは、「ただ静かであること」だけだと思ったのです。

そして実際、それはもう難しいことではありませんでした。と言いますのも、「私は在る」も「ハートに留まること」も、月日が経つにつれて、自然なものになっていったからです。

そして、それは決して私にとって不満足な日々ではありませんでした。と言いますのも、「ハートの感覚」に留まることで私は穏やかで安心した心地になりましたし、「私は在る」に留まることで「自我」に振り回されることもなくなっていたからです。ですから、このところは「もうこのまま一生真理を理解できなくてもいいかな」とさえ、思い始めていました。

ですが、つい最近、あることに気づきました。「世界の実在性」が感覚的に納得できなくなったのです。

いったいいつからそうなっていたのかは私にもわかりません。ただ、ある時に気づいてみたら、「世界の実在性」よりも「意識=ハートの実在性」のほうに対して、私は強い確信を持つようになっていたのです。

たとえば、私が自分の家の中にいる時、私はいつも買い物に行っているスーパーの存在にリアリティを感じることができませんでした。歩いて15分もすればそのスーパーに着けるということは、頭ではわかっていたのですが、「意識=ハート」の存在に対して感じるリアリティ(という表現が適切かはわかりませんが)があまりにも強くて、頭の言うことを受け付けなかったのです。

その時私は、「世界の中に私がいる」のではなく、「意識=ハートが映し出すものだけが全てである」と感じました。言い換えると、「『世界』という何か巨大なものが自分の外側に存在していて、その中に『私』という個人がいて動き回っている」という風には、どうしても感じることができなかったのです。なぜなら、「世界」よりもむしろ「私」のほうが確固として存在しているように感じられたからです。おそらく、「私は在る」と「ハートの感覚」に長く留まっている間に、「世界」から「私」のほうに軸足が完全に移ってしまったのではないかと思います。

私自身の理解では、これは山家さんが言っておられる「サット(存在)」についての悟りなのではないかと思っています。そして、もしそうであるならば、私の探求は終わったということになるのかもしれませんが、なにぶんまだこの変化に気づいたのは最近のため、これからしばらくの間は、「本当に探求は終わったのか?」ということについて検証をしようと思っています。

いずれにせよ、山家さんのブログが無かったら、私は絶対にここまで辿り着けませんでした。本当に感謝しています。

ありがとうございました。

KAYUさんから追伸

山家さん

重ねてのご連絡、失礼いたします。以前に瞑想の実践についてご指導いただいたKAYUです。

この度ご報告したいことがあり、ご連絡差し上げました。実は、山家さんから学んだことについて、私自身の体験や考えをブログで発信することといたしました。下記のリンク先が、私の開設したブログです。

「存在する喜び」への道
https://purejoypath.net/

なお、私のブログの中では、プロフィールのページにて山家さんの教えについて言及し、空白JPへのリンクも貼らせていただいております。事前にご確認を取らず、申し訳ありません。もしも不都合などありましたら、速やかに対応いたしますので、いつでもお伝えください。

私自身は、山家さんの教えに出会えたことで、多くの学びを得られました。本当に感謝しております。

そして、私もまた、自分なりの仕方で、山家さんからいただいたものを他の誰かに受け渡したいと考えました。まだまだ至らない点もあるかと思いますが、どうか温かい目で見守ってくださりますと、幸いです。

今後とも、どうかよろしくお願いいたします。

回答

KAYUさん
こんにちは。

お久しぶりです。

私自身の理解では、これは山家さんが言っておられる「サット(存在)」についての悟りなのではないかと思っています。

そうなのではないかと思います。時間の問題だとは思っていました。

そして、もしそうであるならば、私の探求は終わったということになるのかもしれませんが、なにぶんまだこの変化に気づいたのは最近のため、これからしばらくの間は、「本当に探求は終わったのか?」ということについて検証をしようと思っています。

探求の終わりには、感覚的なものと知的なものの両方があって、まずは感覚的に終わります(とKAYUさんのブログにも書かれていましたね)。僕はとりあえずは、そこを探求の終わりとしていて、覚者の中には探求の終わりを知的に分析しようとしない人もいるのではないかと思います。それでも、感覚的にはそれ以上探求しようはなく(世界は実在せず、ただ、自分だけが実在するということ)、探求の終わりと言えるのではないかと思います。

僕の場合には知的に分析しようとするタイプでしたし、おそらくKAYUさんもそういったタイプかと思います。なので、知的な納得に至るまで検証してみるのもいいと思います。その結果、「ああ、やっぱりあの時に探求は終わっていたんだ」という結論に至るかもしれません。

僕は空白JPに書いてきたように分析してきたのですが、そこには哲学的な(確認できる)部分と思想的な(確認できない)部分が入り混じってます。哲学的な部分については、どんな覚者であろうと認識が一致すると思うのですが、思想的な部分については覚者によって違っていたりします。不二一元(私は在る)ということが共通認識ではあるけれども、確認しようのない部分(思想)については議論の余地があるということですね。まあ、そこには答えはないので、探求が終わった後の覚者の娯楽のようなものになるのですが(笑)

なので、僕はKAYUさんがどのように分析するのかがちょっと楽しみであったりもします。なので、KAYUさんがブログを始められたということは喜ばしいことです(素晴らしい「証人」にもなりますね)。

いったいいつからそうなっていたのかは私にもわかりません。ただ、ある時に気づいてみたら、「世界の実在性」よりも「意識=ハートの実在性」のほうに対して、私は強い確信を持つようになっていたのです。

まさしく、この認識に至ってもらいたく僕は空白JPを書いているのですが、それはとても簡単でいて難しいことですよね。何もせずとも自然とそこに向かうはずなのに、「自我」が何かをすることでそこに向かわなければいけないという難しさ。「私」が唯一の実在なのですが、その「私」の巧妙さに、「自我」の視点から関心してしまいます。

いずれにせよ、山家さんのブログが無かったら、私は絶対にここまで辿り着けませんでした。本当に感謝しています。

むしろ、感謝するのはこちらです。僕は、空白JPが読まれることでたったの一人でも覚者が誕生したら上出来だと思っていました。早くも、その目的は達成されたようです。

歴史的にみても、覚者の元にいるからといって、その人が覚者になる確率というのは極めて低いのではないかと思います。僕の推測では、ブッダやラマナ・マハルシの元では少なからずの覚者が誕生したのではないかと思っているのですが、それも持続はしていないのではないかと思います。その要因として、ブッダの場合には言葉にしなさすぎたというのがあり、ラマナ・マハルシの場合には宗教的になりすぎたというのがあると思ってます(ここらへんが僕の思想的な部分ですね)。

後発組のメリットは、先人達の失敗に学ぶことができることです。なので、空白JPではできるだけ必要なことは詳しく言語化して、できるだけ宗教的にはせず、できるだけ必要な人以外にはその存在を知られないように活動するということをしてきました。

特に探求の世界では、覚者に実際に会うということが重要視される傾向にあり、そのことも探求が脇道にそれてしまう原因になっているのではないかと思っています。なので今回、KAYUさんが空白JPを読むだけで(メールのやりとりはありますが)真我実現に至ったことは、そういった考え方にとらわれることを払拭するものにもなっているのではないかと思います。

もちろん今後、僕も人と会うようになるかもしれませんが、必ずしも会う必要があるわけではないと知っておくことは大事なのではないかと思っています。

ともあれ、今後はKAYUさんの元にも質問のメールが届くようになるのではないかと思います。ぜひ、真摯な探求者の助けになってもらえると嬉しいです。

KAYUさんからの返事

山家さん

こんにちは、KAYUです。お返事いただき、ありがとうございます。

ブログも見てくださったのですね。とても嬉しいです。

思えば、約3年前にたまたま空白JPを見つけたことが、私にとっては大きな転機になりました。当時の私は、「人生のパターン」に飽き飽きしていて、何をしても楽しいと感じられなくなっていました。「こんな退屈な毎日がずっと続くなら、死んでしまったほうがマシだ」とさえ感じていたのをよく覚えています。

それで、その「退屈」をどうにかしようと思ってネットで検索していたら、空白JPに行きつきました。その時の私はまだ「退屈」をどうにかしたかっただけで、真理の探求という表現も今一つピンと来ていませんでしたが、「人生そのものにうんざりしていた」という意味では、探求を始める準備は既にできていたのかもしれません。

まさしく、この認識に至ってもらいたく僕は空白JPを書いているのですが、それはとても簡単でいて難しいことですよね。何もせずとも自然とそこに向かうはずなのに、「自我」が何かをすることでそこに向かわなければいけないという難しさ。「私」が唯一の実在なのですが、その「私」の巧妙さに、「自我」の視点から関心してしまいます。

ブログを開設して自分で記事を書くようになってみて、このことをより強く感じるようになりました。探求を進めていくためには「自我」の助けが絶対に必要なのですが、同時に、その「自我」が探求の障害ともなるからです。

文章にして伝える時も、ジレンマを抱えながら書いているところがあります。たとえば、私は「なるべく後から来る探求者が道に迷わなくて済むように」と思って、わかりやすく体系立てて書くようにしています。しかし、そうしてあまり道を整備し過ぎると、読者が「自我」のレベルで「わかったつもり」になってしまい、歩みを止めはしないかとも危惧するのです。

私の記事が、「自我」を知的に満足させるための読み物として「消費」されてしまっては、意味がありません。ですが、やはり自分自身で「観照者の目覚め」を体験しないうちは、当人は「自我」によって欺かれてしまうのではないかと思います。それについては、たとえどれだけ言葉を尽くして説明しても、避けることができないようにも感じています。

それでもきっと、真摯な探求者は「観照者の目覚め」を体験するまで、自分の足で歩いていくだろうとも思っています。そして、私としては、ぜひともそういう人の手助けをしたいのです。

ともあれ、今後はKAYUさんの元にも質問のメールが届くようになるのではないかと思います。ぜひ、真摯な探求者の助けになってもらえると嬉しいです。

はい!山家さんから受け取ったものを、私もまた自分なりの仕方で次の人に受け渡していきたいと思います。

不思議なご縁から空白JPに出会い、私は本当に多くのものを受け取りました。重ねて感謝申し上げます。

本当にお世話になりました。

(関連記事:観照者の目覚めと、その再現性について【Q&A】