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観照者の目覚めと、その再現性について【Q&A】

今回は、KAYUさんからいただいた質問メールを公開したいと思います。前回のKAYUさんからのQ&A記事「ハートの感覚にも、飽きることがあるのではないか?【Q&A】」の続編のようなものです。KAYUさん、ありがとうございます。

※今回は約10000文字ほどの長文です。

KAYUさんからの質問

山家さん、お久しぶりです。今年の初めごろに、瞑想的な日常生活について質問をしました、KAYUです。お元気にされておりますでしょうか。

私のほうは、その後も瞑想的な日常生活を続けております。ただ、再び山家さんにお聞きしたいことが出てきましたので、質問をさせてください。なお、今回も長文になってしまいましたので、お時間のある時にお読みいただければと思います。

今回質問したいことというのは、「観照者の目覚め」についてです。

以前、私はメールのやり取りの中で「観察者(意志)と自分が同一化しなくなってきた」と報告したことがありました。すると山家さんは「観察者(意志)を自分でないと思う必要はなく、むしろその意志を持つことが真我探求のためには必要なのだ」とお答えされたかと思います。

それで、メールでお答えいただいた直後は「なるほど、そういうものなのか」と思ったわけなのですが、その後、「本当にそうなのだろうか?」という考えが湧いてきて、ずっと引っ掛かり続けています。と言いますのも、瞑想的な日常生活を続けているうちに、観察者(意志)を観照している「何者か」の存在に気づくことが多くなっていったからです。

山家さんは空白JPの中で「観照者の目覚め」という言い方をされていましたが、私もそれに近い体験をしました。観察者(意志)があまり活発に動いていない時、観察者(意志)そのものに気づいている感覚が起こったのです。

その時は、観察者(意志)が感じたり考えたりしていることを、客観的な対象として眺めているような感覚がありました。それによって、「観察者(意志)こそが自分だ」と思っていたところから、観察者(意志)との一体化が揺さぶられたかのように思います。

観察者(意志)、あるいは自我と言ってもいいかと思いますが、この自我は確かに自分自身のように感じられます。ですが、前述の「自我そのものに気づいている感覚」が生活の中で起こるようになってから、考え方が変わってきました。「自我は社会生活を送るうえで必要なものに過ぎず、別にそんなに大事なものでもないんじゃないか」と思うようになったのです(もちろん、そう考えているのも自我なのですが)。

ともあれ、そのように考えるようになって以来、自我というのはあくまでもこの世を生きる上での「かりそめの衣装」のようなものであって、「本来の自分」は自我にさえ気づいている「何者か」のほうではないのかと思うようになりました。それまでは、自我が一番偉くて大事な存在だったのですが、「実はそうでもないんじゃないか」ということに自我自身が気づいた感じと言ったらいいのでしょうか。要は、「自我が一番大事なわけじゃないよね」ということを自我自身が認めたわけです。

それ以来、だいぶ気持ちが楽になりました。と言いますのも、もしも自我が一番大事でないのなら、もう自我を守るために四苦八苦する必要はないし、自我を喜ばせるために走り回る必要もなくなるからです。

たとえば、かつての私は「嫌われたくない」という欲求が非常に強い人間でした。この欲求に振り回されることも多く、「どうにかならないものか…」と長く悩んでいたくらいです。

ですが、最近は「嫌われること」への恐れが徐々に弱まっていっています。それは、自我自身が自我を守ることに重要性をあまり感じなくなってきたからです。

このところは、「嫌われたって別にいいんじゃないか。それで失われるのは結局自我の一部だけだし、どんな感情も味わっていればそのうち消えていくのだ」と割り切って考えられるようになりました。以前はどうしてもコントロールできなかった「嫌われる恐怖」に対して、今は余裕を保って向き合うことができています。

そんなわけで、最近は失うことに対する恐れが弱まり、得ることに対する執着も弱まりつつあります。かつて自我を自分だと思い込んでいた時は、そういった恐れや執着を自我によってコントロールしようとしていました。でも、今は自我自身が「まあ、別にいいか」と考えるようになったことで、頑張って努力するまでもなく、恐れと執着が自然と落ちていきます。私自身はそういう状態を求めていたわけではなかったのですが、結果的には非常に楽に生きられるようになったように感じています。

以上が、私の最近の主な変化です。

  • まず、自我への気づき(観照者の目覚め?)が起こったこと。
  • そして、自我が自我自身を重視しなくなったこと。
  • その結果、失うことへの恐怖や得ることへの執着が弱まりつつあること。

まとめると、そんなところかと思います。そのうえで、山家さんにお聞きしたいです。私はまた変な勘違いにハマっていないでしょうか?

以前のメールで「観察者(意志)を自分でないと思う必要はない」と言われたものの、「でも、やっぱり『本当の自分』は自我じゃないよな」という感覚が否定できません。もちろん、自我との一体化の感覚はありますし、こうして「自我がどうのこうの」と考えているのも自我自身です。そういう意味で、自我を自分だと感じる「錯覚」自体はなくなっていません。

ですが、「自我を自分だと思うのは錯覚だよね」という理解が確固として内にあります。その理解が起こっても「錯覚」そのものがなくなるわけではないですが、「これは錯覚だ」という自覚を保持しながら生活するのが、ひとまず今の実践課題です。

ただ、やはり以前のやり取りで山家さんが言われていたことが引っ掛かっています。

私がこれまでにした体験は、山家さんが言われている「観照者の目覚め」と類似するものなのでしょうか? それとも、全く別のもので、私は横道に逸れてしまっているのでしょうか?

以前のメールからだいぶ間隔があいていますので、もし横道に逸れてしまっているとしたら、かなり変なところに迷い込んでいるかもしれません。お手数をお掛けしますが、またお時間のある時に道を示していただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。

今回も長文になってしまい、失礼しました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

回答

KAYUさん、こんにちは。お久しぶりです。

そのうえで、山家さんにお聞きしたいです。私はまた変な勘違いにハマっていないでしょうか?

大丈夫です。ハマってないです。

以前のメールで「観察者(意志)を自分でないと思う必要はない」と言われたものの、「でも、やっぱり『本当の自分』は自我じゃないよな」という感覚が否定できません。もちろん、自我との一体化の感覚はありますし、こうして「自我がどうのこうの」と考えているのも自我自身です。そういう意味で、自我を自分だと感じる「錯覚」自体はなくなっていません。

ですが、「自我を自分だと思うのは錯覚だよね」という理解が確固として内にあります。その理解が起こっても「錯覚」そのものがなくなるわけではないですが、「これは錯覚だ」という自覚を保持しながら生活するのが、ひとまず今の実践課題です。

むしろ、そういった感覚と認識の変化が起こったことを喜ばしく思います。特に重要なのが感覚の変化なのであって、自我というのは、その感覚に合わせて、いとも簡単に意見を変える、変わり身の早い存在だったりもします。

自我というのは、自身が主導することで、特定の感情を起こさせるというやり方に慣れていると思います。

なので、「観察者(意志)は自分ではない」と観察者(意志)自身が思い込もうとする場合、その状態に相当する特定の感情を無自覚に引き起こそうとすることがあるんです。「私は存在しない」と言いながら、ある意味ではハイになってしまう人は結構いると思います。そこには感覚もともなうので、妙な確信があって、説得力があるようにも感じられるのですが、その状態は長続きしないと思います。

そして何よりも、その場合には知的な因果関係の理解という認識が起こらないんです。思い込みというやり方で押し通しているようなところがあるので、そのハイな状態が終わった時に、その再現性を失ってしまいます。人は飽きる生き物なので、同じような思い込むというやり方をしようとしても、通じなくなっているはずです。

僕から見ると、そのようなパターンにハマってしまう人が多いように感じるため、「観察者(意志)を自分でないと思う必要はない」と言いました。

僕にとって、観照者に目覚めるための再現性のある方法は、観察者(意志)として「自身」に気がついていることです。対象(と主体)を「自身」の外においてはいけないという意味でも、「観察者(意志)を自分でないと思う必要はない」とも言えます。

というのも、観照者と観察者は別物ではなく、観照者に人格が混ざったものが観察者だとも言えるからです。

例えるなら、水と油が乳化して一体となった(ように見える)ものが観察者(意志)なのであって、探求というのは、その人が「水はどこにあるのか?」と言っているようなものなんです。「あなたはすでにそれだ」とも言えるけど、それだと少し言葉が足りないですよね。「あなたは今は乳化した状態だけれども、静かに待ってれば、そのうち水と油に分離するよ」と言うほうが親切かもしれません。

「観照者の目覚め」というのは、そのことに気がついてしまうようなもので、KAYUさんもそのことに気がついたと思います。

この例え話なら、「観察者(意志)を自分でないと思う必要はない」ということの真意が分かりやすいかと思います。

「観察者(意志)は自分ではない」というのは微妙に巧妙に間違っているんです。そう思うなら、観照者すら自分ではないとして見落としてしまう可能性があります。

「私は観察者(意志)なんだけど、もっと正確に言うなら、そこから人格を取り除いた観照者なんだ」という方が正確だと思います。でも、乳化している状態でそう思おうとしても、ピンとこないし混乱するだけかもしれません。それこそ、違う何かだとイメージしてしまうかもしれません。なので、実践的な意味では、シンプルに「私は観察者である」という意志を持つことにとどめることが、もっとも誤解が少ないのではないかと僕は思っています。

なので、「観察者(意志)を自分でないと思う必要はない」という言葉はその役目を終えたのであり、もう忘れてしまっても大丈夫です(笑)

百聞は一見にしかず。言葉での理解よりも、その瞬間を自身で目撃したほうが確かですよね。

もちろん、その経験を言語化するのは自我なのですが、意図せずとも勝手に観照者に戻って来ることが多くなると、「錯覚」が起こること自体を問題だとも思わなくなってくるかもしれません。

私がこれまでにした体験は、山家さんが言われている「観照者の目覚め」と類似するものなのでしょうか? それとも、全く別のもので、私は横道に逸れてしまっているのでしょうか?

類似していると思います。横道に逸れてもいないと思います。

横道に逸れていないどころか、どうしても誤解の余地が残る言葉という手段が、KAYUさんに適切に伝わり、そこに再現性があったように思えることを喜ばしく思います。

観照者が目覚めたということは、瞑想から真我探求に移行しつつあるということでもあります。探求の折り返し地点ですね。僕の場合にはハートの感覚が先行する探求でしたが、KAYUさんの場合には瞑想(自由意志)が先行する探求のようです。でも、最終的には同じところに行き着くのであり、KAYUさんの場合には、これからハートの感覚が明確になっていくのではないかと思います。

ですが、最近は「嫌われること」への恐れが徐々に弱まっていっています。それは、自我自身が自我を守ることに重要性をあまり感じなくなってきたからです。

このこと自体がその予兆かと思います。ハートの感覚を消極的に表現するなら「不満の無さ」とかになるのですが、KAYUさんの場合には、不満の無さからハートの感覚に気づいていくのかもしれません。

ちなみに、ハートの感覚(真我)の唯一絶対的な条件は「不変」ということなのですが、自我にとってそれは理解し難いと思います。もし、そんなものがあるなら、すべての人が、すでにそのことに気がついているはずですよね。なので、自我からすればハートの感覚だって〝空〟であるとか、そもそも、そんなものは無いという考え方の方が受け入れやすいのですが、その矛盾を押し切って「ハートは不変である」という直感的な感覚と理解が起きるのが真我実現です。

ラマナ・マハルシは「ハートにとどまることが真我実現でしょうか?」という問いに対して、「それは真我実現の前兆である」と答えています。

ハートにとどまるということ自体は、真我実現が起こる前から起こります。その過程で重要なのは、「ハートは不変である」と思い込む必要はないということです(どこかで聞いたようなセリフですね笑)。「不変的なものなんてないよね?」と疑ってかかって大丈夫です。

不変とは完璧とか永遠とか、数字にすれば100%とか無限を意味するのですが、変化するこの世界の中から、不変の完璧な存在をトータルに認識するなんてことは不可能です。それは例えるなら、映画の中の登場人物が、映画フィルム全体を認識しようとするようなもので、そこには認知が届かないし、そもそも、次元が違います。

なので、完璧を探す必要はなく、目の前の感覚を確認していくという感じでいいと思います。

このところは、「嫌われたって別にいいんじゃないか。それで失われるのは結局自我の一部だけだし、どんな感情も味わっていればそのうち消えていくのだ」と割り切って考えられるようになりました。

この認識自体、その確認の結果なので、このように続けていくのがいいと思います。あらゆる感情が現れては消えていくと思います。

でも、探求の折り返し地点を迎えた人には、そこには続きがあるということを伝えてもいいかもしれません。あらゆる感情が現れては消えていくのですが、消えた後に残るのは「無」なんでしょうか?

探求の世界では「無」という言葉が良く使われるのですが、実際のところ、「無」を確認した人はいないと思います。「無」とは実際のところは形而上学的な実在しない概念なのであって、多くの人が「無」という言葉を使う時、実際のところは何かしらの「有」に「無」というラベルを貼り付けているんです。例えば、虚しさに「無」というラベルを貼り付けるなら、それは虚無という「有」です。

多くの人は喜怒哀楽の感情に着目するので、それ以外の感覚に対しては無関心というか、気がつかないというか、無いものであるように感じていることがほとんどです。でも、実際のところ「無」は実在しないのであり、感情が無いと思えるときにも、そこには何かしらの感覚があります。

ハートの感覚というと、ともすれば喜怒哀楽に続く第三の感覚であるようにイメージする人もいるかもしれませんが(そうイメージするとハイになりがちです)、実際のところはそうではなく、喜怒哀楽という感情の背景となる感覚です。

例えば、映画の中の登場人物は、映画フィルム全体を認識することはできませんが、自分がいる背景(フィルム)には気がつくことはできると思います。その背景(フィルム)はいつ始まったのであって、いつ終わるのか? 映画の中の登場人物の視点からは、そのことを確認することはできません。

それと同じように、僕は、ハートの感覚がいつ始まったのであって、いつ終わるのかということを確認できてはいません。自我(それは観照者でさえ)からの視点という制約の中では、そのことを確認することはできないんです。

なので、「ハートは不変である」という前提のもと、そのことを確認しようとすることは失敗します。そのことは確認できないんです。でも、ハートは不変であるという絶対性ではなく、ハートの感覚が相対的にどれだけ持続しているのかということなら確認することができます。

僕にとって、ハートの感覚は、日常生活の中で90%以上の持続性を持つものです。この数字は僕の経験から導き出されているものであり、それは90%とか95%とかです(それは真我実現の前でさえ)。100%にならないのは、喜怒哀楽の感情を感じなくなるというわけじゃないからです(それは真我実現の後でさえ)。

「100%にならないなら、ハートの感覚が現れては消えているとも言えるのでは?」とも思えるのですが、90%以上の持続性があると、それは現れては消えているというよりも、感情に覆い隠されていると思えるものになります。これは、真我実現が起こる前からそういう認識になると思います。

100%を確認できない以上は「ハートは不変である」とは言えないのですが、真我実現という現象が、残りの10%とか5%の疑惑を吹き飛ばします。「それも一種のハイでは?」とも思えるのですが、ブレることなくその認識が持続するということが、消極的な意味での「ハートは不変である」という可能性になるかもしれません。

ハートは不変であるという前提に立つと、なぜだか形而上学的な矛盾や謎が解消されるようになったりもします。その知的な帰結と、真我実現に至る再現性が、不二一元論の大衆化や宗教化を押しとどめ、哲学的にも一目おかれる要因となっているのではないかとも思います。

KAYUさんは、30分間思考なしで瞑想できることを目標にされていたので、具体的な数字をだしてみました。ハートの感覚が日常生活の中で90%以上持続するようになり、その感覚にとどまることを好むようになっているなら、それが真我実現の前兆かもしれません。

KAYUさんからの返信

山家さん。こんにちは、KAYUです。今回も丁寧なメールをいただき、ありがとうございます。

変な勘違いにはハマっていないということで、安心しました。ずっと気にかかっていたことだったので、喉に刺さった魚の小骨が取れた心地です。

「観察者(意志)を自分でないと思う必要はない」という言葉の真意も、今ならわかるように思います。観察者(意志)と観照者は混ざり合っているから、それを最初からまるごと「自分ではない」としてしまうと、観照者まで見落としてしまうことになる。そうならないように、あえて「観察者(意志)として探求するように」と伝えてくださっていたんですね。

油と水(観察者と観照者)の分離は結果として起こるものであるのに、それを最初から「両者は別なんだ」と思い込むところからスタートすると、違う認識に導かれてしまう。そうして、主観的には観照者について悟ったように思いながら、油と水の混同が続くことになる。そのような事態をどうやって回避するか、伝えるのが難しいポイントだと思います。

観照者が目覚めたということは、瞑想から真我探求に移行しつつあるということでもあります。探求の折り返し地点ですね。僕の場合にはハートの感覚が先行する探求でしたが、KAYUさんの場合には瞑想(自由意志)が先行する探求のようです。でも、最終的には同じところに行き着くのであり、KAYUさんの場合には、これからハートの感覚が明確になっていくのではないかと思います。

確かに、観照者の目覚めを体験して以降、ハートの感覚に戻ることが自然になってきたように思います。前までは、自我が活発に反応してハートを覆い隠していても、あまりそれを気にしませんでした。たとえば、自我が「嫌われたくない」と言えば大騒ぎし、自我が「もっと人から認められたい」と言えば駆けずり回り、あたかも自我が「人生の主人」のようなものだったのです。

ですが、「自我が自分の本体ではない」という理解が起こってからは、そういった傾向が弱まってきました。「嫌われるかどうか」ということも、「認められるかどうか」ということも、等しく「それほど大事なことではない」と思うように変わっていったのです。

もちろん、今までの人生ずっと自我の言いなりだったので、「嫌われたくない」という願望も「認められたい」という欲求もあいかわらず起こります。でも、それらの反応も、徐々に小さくなっていっています。

たぶんそれらは「自我の残り火」みたいなものなのだろうと思います。今までの人生をかけてずっと燃え続けてきた大きな炎が、徐々に小さくなって消えていく。そのプロセスの途上にいるのではないかと思うのです。

そして、「自我の残り火」が消えていくにしたがって、ハートの感覚が際立ってきます。自我がその働きを弱めることで、結果的にハートの感覚にとどまる時間が増えるようです。

ハートの感覚が日常生活の中で90%以上持続するようになり、その感覚にとどまることを好むようになっているなら、それが真我実現の前兆かもしれません。

ハートの感覚にとどまる時間が増えてきたと言っても、今のところ、まだ生活の中の50%~60%くらいだと思います。自我の炎が燃え盛って、ハートが欲望によって覆い隠されることも多いです。

ですが、ハートの感覚に惹きつけられるような感覚はあります。ハートの感覚を見失っていると、なんとなく気持ちが悪いというか、何かが間違っているかのような感覚をおぼえるのです。

「自我の残り火」が燃えている時には、「嫌われたくない」「認められたい」という一心で、私は自我に動かされています。以前はそういう時に何の疑問も持たなかったのですが、今は違和感を抱くようになりました。なんだかバカバカしいことのために駆けずり回っているような気がして、ハートの感覚にとどまっているほうがずっと良いように感じるのです。

確かに、必死に駆けずり回るなら、ひょっとしたら嫌われることを避けられるかもしれないし、もっと人から認めてもらえるかもしれない。「でも、そのことにそんなに価値があるんだろうか?」と疑問に思うようになりました。ハートの感覚を捨ててまで、自我の安心と満足を追い求める意味はないように感じ始めたのです。

結局のところ、今の私の実践課題は、「自我の残り火」が消えるのを見届けることなのではないかと思います。自我がこれまでの人生をかけて蓄えてきたエネルギーが消失するまで、ただ待つこと。そうして自我が沈黙することで、ハートの感覚にとどまることも、より自然になっていくはずです。

ハートを得ようと求めれば、かえってハートは遠ざかります。また、「ハートが在る」と思い込もうとすると、全く違う感覚をでっちあげることになってしまう。だとしたら、「自我の残り火」が消えることの結果として起こるハートの感覚を大事にするのが、妥当な道筋なのではないかと、現時点では感じています。

今回も丁寧なご指導をいただき、ありがとうございました。「90%」という具体的な数字もいただけたので、今後はそれを目安に実践を続けていこうと思います。

また何かわからないことが出てきたらメールをすることがあるかもしれませんし、実践の成果が出たら報告のメールを差し上げるかもしれません。

その時は、なにとぞよろしくお願いします。

回答

KAYUさん、こんにちは。

ハートを得ようと求めれば、かえってハートは遠ざかります。また、「ハートが在る」と思い込もうとすると、全く違う感覚をでっちあげることになってしまう。だとしたら、「自我の残り火」が消えることの結果として起こるハートの感覚を大事にするのが、妥当な道筋なのではないかと、現時点では感じています。

まったくその通りだと思います。自我自身がその逆説を受け入れているのであれば、探求は適切に進んでいくのではないかと思います。

(KAYUさんのQ&A記事:瞑想的な日常生活というのは、本当にこれでいいのだろうか?【Q&A】

(KAYUさんのQ&A記事:ハートの感覚にも、飽きることがあるのではないか?【Q&A】