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ゴータマ・ブッダ ラマナ・マハルシ

仏教の悟りと、ラマナ・マハルシの悟りは同じなのか?

近年で、悟った人と言えば、インドのラマナ・マハルシが有名です。なので、仏教徒の中には、「仏教の悟りと、ラマナ・マハルシの悟りは同じなのだろうか?」と気になる人もいるかもしれません。僕も、気になっていた時期がありました。

結論から言えば、それは同じだとも言えるし、違うとも言えます。別に、「それは〝空〟である」と言いたいわけじゃありません。そもそもの、〝仏教の悟り〟という定義が、かなりあやふやだなと思っているわけです。

仏教には様々な宗派がありますよね。ともすれば、真逆な思想を持っていることもあるんじゃないでしょうか。部派仏教と大乗仏教でも大きく違うし、大乗仏教の中でも、禅宗と浄土宗では大きく違うわけです。

ゴータマ・ブッダの悟りと、ラマナ・マハルシの悟りは同じかも

仏教の悟りと、ラマナ・マハルシの悟りが同じなのだとすれば、それはおそらく、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの悟りです。

ラマナ・マハルシは〝ハート〟という言葉をよく使います。「ハートが唯一の実在です」とも言います。仏教において、ハートに該当する言葉は〝ニルヴァーナ〟〝仏性〟〝アートマン〟〝真我〟〝涅槃〟などかもしれません。でも、仏教では、これらの言葉の実在性は否定されることが多いと思います。

「ニルヴァーナは〝空〟である」「仏性は〝空〟である」「アートマンは〝空〟である」「真我は〝空〟である」「涅槃は〝空〟である」。

仏教らしいといえば仏教らしいです。でも、最古の仏典と呼ばれる『スッタニパータ』の中には、こういった言葉があります。

安らぎ(ニルヴァーナ)は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快を貪ることなく平安に帰しているのである。(758)

ここにでてくる〝ニルヴァーナ〟は、ラマナ・マハルシの言う〝ハート〟に近くはないでしょうか? ゴータマ・ブッダは、それは虚妄ならざるものであると言い、また、諸々の聖者はそれを真理であると知るとも言います。

仏教の悟りとは何を指すのか?

日本には、仏教は西暦600年ぐらいに中国から伝来したようで、それは大乗仏教です。なので、日本の仏教は、『法華経』、『般若心経』(〝空〟の思想)といった大乗仏教の経典の影響が強いのではないかと思います。

スッタニパータは最古の仏典でありながらも、日本に伝来したのは近代に入ってからのようです。そんなこともあり、スッタニパータを重要視している仏教の宗派は存在しないのではないかと思います。ともすれば、法華経、般若心経に書かれていることと、スッタニパータに書かれていることは矛盾してしまうのでなおさらです。般若心経によれば、ニルヴァーナは〝空〟です。でも、スッタニパータには、「ニルヴァーナは虚妄ならざるものである」と書かれています。

仏教では〝嘘も方便〟とよく言いますが、スッタニパータに書かれていることは方便なんでしょうか? ブッダが「ニルヴァーナは虚妄ならざるものである」と言ったのは一般大衆のための方便なのであって、本当に言いたかったのは「ニルヴァーナは〝空〟である」ということなんでしょうか? そうであるなら、日本の仏教の悟りというのは〝空〟を悟ることです。そして、仏教の悟りと、ラマナ・マハルシの悟りというのは違うということになります。

龍樹の〝空〟の思想は、ラマナ・マハルシの悟りとは違う

〝空〟の思想というのは、西暦100年ぐらいに活動した龍樹(ナーガールジュナ)という人物によって体系化されたと言われています。龍樹は『中論』という著書を残しています。

(関連記事:龍樹(ナーガールジュナ)の中論をわかりやすく解説【「空」の思想】

〝空〟の思想というのは非常に難解です。「〝空〟というのは有ったり無かったりするんでしょ?」と思っている人もいるかもしれません。ラマナ・マハルシの言う〝ハート〟と、仏教の〝空〟は同じなのではないかと思う人もいるかもしれません。〝空〟という唯一の実在があると思うかもしれません。般若心経の〝色即是空 空即是色〟という言葉を見るなら、そう思ってしまうのも無理はありません。

でも、違うんです。〝色即是空 空即是色〟という言葉は、龍樹の中論の内容を、比較的分かりやすいように簡素化したものです。説明が足りないんです。実際の龍樹の中論の本質はこうです。

〝空〟は有るとは言えない。〝空〟は無いとも言えない。〝空〟は有ったり無かったりするとも言えない。

〝色即是空 空即是色〟という言葉だけでは、「〝空〟は有ったり無かったりするとも言えない」ということを説明できないんです。中論では〝色即是空 空即是色〟ということを否定しているのですが、般若心経ではその否定がありません。それゆえに、〝空〟という実体があるのではないかと勘違いします。

でも、龍樹は、〝空〟すら実在するものではないと言います。実在するものなんて何ひとつとして無いというのが龍樹の考え方です。そしてまた、〝無〟も実在しないため、〝空〟と言わざるを得ないということなんです。龍樹に言わせれば〝ハート〟も〝空〟でしょう。これは、ラマナ・マハルシの悟りとは別のものです。

なぜ、ブッダはヴェーダとは違う独自の教えを説き始めたのか?

大乗仏教のベースには、龍樹の〝空〟の思想があります。あらゆるものに実体はないという考え方です。でも、般若心経では、〝空〟という実体があるかのように感じられるように、〝色即是空 空即是色〟という表現が使われています。〝空〟の意味が変化しているんです。それは、法華経もそうかもしれません。法華経には、如来や仏や菩薩、神や悪魔といった登場人物がでてきます。龍樹の〝空〟の思想によれば、それらの登場人物すべてに実体はありません。にも関わらず、法華経の〝如来寿量品〟にはこう書かれています。

如来は、無限の寿命の長さをもち、常に存在するのだ。

この言葉は、龍樹の〝空〟の思想とは矛盾することになります。まるで、如来という実体があるかのように感じさせます。実際のところ、法華経は、如来の素晴らしさ、法華経の素晴らしさをアピールすることを目的に作られたようなところがあり、〝空〟の思想は脇役程度に登場しているだけだったりします。

実際のところ、法華経というのは〝空〟についての経典ではなく、その世界観といい、インドの『ヴェーダ』を意識しているところがあります。龍樹の中論のように論理的なものではなく、インドのヴェーダのように物語的なんです。そして、法華経にでてくる帝釈天は、ヴェーダにでてくるインドラと同一の存在であると言われたりします。

でも、それは、ブッダがやりたかったことなんでしょうか? ブッダが生きた紀元前500年頃というのは、ヴェーダの教えが主流だったんじゃないかと思います。当然、ブッダもヴェーダの教えを学んだはずです。でも、ブッダはヴェーダとは違う独自の教えを説き始めたようです。〝縁起〟や〝五蘊(ごうん)〟といった、関係性についての教えです。

もし、ブッダが、ヴェーダの教えや世界観に満足していたなら、〝縁起〟や〝五蘊〟を説くということはしなかったんじゃないでしょうか。龍樹の〝空〟の思想も、〝縁起〟や〝五蘊〟の考え方から発展したものです。でも、現代の日本仏教では、ヴェーダの世界観に近い法華経が重要視されています。

法華経の悟りは、ラマナ・マハルシの悟りとは違う

法華経によれば、悟るということは仏に成ることです。法華経では、仏に成ることは、神通力(超能力)を身に着けたり、超越的な寿命を得ることと関連づけられたりもします。でも、それは本質的なものではないでしょう。

法華経と般若心経の教えが組み合わさった時、仏というのは、〝実体のある空〟であると解釈されることも少なくないと思います。その〝空〟は、この世界を内包する空間みたいなものであるとイメージされることもあるかもしれません。その空間と一体であると感じることが、法華経の悟りだと思う人もいるかもしれません。

でも、ラマナ・マハルシの言う〝ハート〟は心臓の位置を連想させ、ゴータマ・ブッダの言う〝ニルヴァーナ〟は〝安らぎ〟という感情的な位置を連想させます。そこを感じるのに、必ずしも空間と一体であると感じる必要はありません。

そう考えると、法華経の悟りというのは、ラマナ・マハルシの悟りとも、ゴータマ・ブッダの悟りとも違うようにも思えます。むしろ、法華経の悟りというのは、どちらかといえば、ヴェーダの教えや世界観から発展した、サーンキヤ哲学の悟りに似ているのかもしれません。

サーンキヤ哲学では、あらゆる世界を舞台に、魂が輪廻転生を繰り返し、奉仕を続けることで、神(ブラフマン)と一体化していくと考えます。法華経では、悟りを求める菩薩が、輪廻転生を繰り返し、人類を救済していくことで、仏と成り、最終的には如来に成ると考えます。

法華経の中ではブラフマンというのは如来に従属する神々のうちのひとりとして描写されます。それは、法華経の方がヴェーダより上であるということのアピールでもあるかもしれません。そういった点からも、法華経はヴェーダの世界観を意識しているとも言えます。

でも、ブッダは、そのヴェーダの教えや世界観に満足できなかったからこそ、独自の教えを説き始めたんじゃないでしょうか? そのブッダが、ヴェーダと似たような世界観の経典を作ろうと思うでしょうか? 実際のところ、現代においては、法華経というのは、ブッダの直接の教えではなく、西暦100年頃の仏教徒たちによって創作された仏典であるということが通説になっているようです。

そう考えると、ゴータマ・ブッダの悟りというのは、現代の仏教の中にはほとんど継承されておらず、皮肉にも、宗教以外の場所で、その悟りは継承されることが多いのかもしれません。ラマナ・マハルシは、表面的にはヒンドゥー教に思えるかもしれませんが、無宗教なのではないかと思います。そして、もっと言えば、ゴータマ・ブッダも、悟りを得た当時、無宗教だったのではないかと思います。

最後に、スッタニパータからこの言葉を引用して終わりにしたいと思います。

ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝も信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ。(1146)

(関連記事:なぜ、ブッダは縁起を説いたのか?【信じることへのアンチテーゼ】