今回は、DKさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。DKさん、ありがとうございます。
DKさんからの質問
こんにちは。
先日、瞑想中にこれがハートかな?と感じる体験がありました。まるで、試験期間が終わったような開放感、また穏やかで懐かしく、何も求めることはないといったような感じでした。その感覚はしばらく続きました。しかし、その後、退屈を感じ、早く瞑想をやめてなにか他のことをしたいと思いはじめました。
山家さんはハートの至福には飽きることがないとおっしゃっていたと思いますが、この感覚はハートではないのでしょうか? それとも自我の働きによってハートが覆い隠されてしまったのでしょうか?
ラマナ・マハルシは「ハートに心を沈めなさい」と言っているようですが、このような場合どうやってその実践を続けて行けばよいのでしょうか?よろしくお願いします。
回答
DKさん、こんにちは。ご質問ありがとうございます。
先日、瞑想中にこれがハートかな?と感じる体験がありました。まるで、試験期間が終わったような開放感、また穏やかで懐かしく、何も求めることはないといったような感じでした。その感覚はしばらく続きました。
それは良かったです。それはサヴィカルパ・サマーディかもしれません。サヴィカルパというのは「対象の有る」という意味ですね。瞑想対象に集中することによって静かになり、一時的に現れるサマーディということでもあります。なので、しばらくすると自我が活性化してきて、ハートが失われるように感じるかもしれません。でも、それは普通のことなので気にしなくてもいいと思います。
ちなみに、自我というのはハートをハートとして認識できず、ハートを退屈なものとして認識します。なので、「自我がハートに飽きたのでは?」と思うかもしれませんが、そうなのではなく、そもそも、自我にとってはハートは退屈なものなんです。
単純に考えて、もし、ハートが自我にとって素晴らしいものなのであれば、人はハートを見失うことなんてなかったはずなんです。探求の必要性だってないと思います。そうなのではなく、ハートというのは自我にとっては退屈に感じるものなので、人はハートを見失ってしまうんです。
瞑想をすると、自我は集中力の中に紛れ込んで、ハートの中に入っていくことができます。でも、集中力というオブラートが溶けてしまうと、とたんにそれが退屈に感じられてしまうんですね。瞑想という、集中力に依存する方法をとる限り、この構図は避けられません。
ラマナ・マハルシは「ハートに心を沈めなさい」と言っているようですが、このような場合どうやってその実践を続けて行けばよいのでしょうか?
ラマナ・マハルシは「ハートに心を沈めなさい」と言いますが、それは、すでにハートにとどまることができる人向けです。心にとってハートは退屈でもあります。なので、実際のところは、「退屈に心を沈めなさい」と言っているようなものでもあるんです。
ハートを退屈に感じているのは自我なのであり、自我が退屈することに飽きてしまえば(消えてしまえば)、そこにはハートがあります。こういった経験を繰り返していると、「自我として消える(黙る)」というのがどういうことなのかが分かってきます。
自我として消える(黙る)ことでハートにとどまることを、ニルヴィカルパ・サマーディと言います。ニルヴィカルパというのは「対象の無い」という意味です。そして、それが日常生活の中で自然になってしまった状態を、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディと言います。
もちろん、瞑想には思考を抑えることができるという効果があります。もし、思考に振り回されることが多いのなら、瞑想を続けるのがいいかもしれません。でも、特に思考に振り回されることがないのであれば、退屈にとどまるということを試してみてもいいかもしれません。
(関連記事:ニルヴィカルパとサヴィカルパ【サマーディ】)