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意志として黙るとはどういうことか?【Q&A】

今回は、YRさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。YRさん、ありがとうございます。

※今回は、10000文字ほどの長文です。

YRさんからの質問

こんにちは。いつも拝読しています。大変参考になります。ありがとうございます。意志として黙ることについての質問です。

(関連記事:意志として、思考のように振る舞う

意志は他人であり、自分はハートであるのは解るのですが、であれば、意志として沈黙することは、他人に干渉することにはならないのでしょうか?

たとえば、頭の中に思考がうるさい時に、何も考えずに、今、あるがままの状態を受け入れる(感じる)とします。すると頭の中の思考は消え、ハートにとどまる感覚が訪れるかと思います。とはいえ、頭の中の思考を消そうと思い、頭の中で沈黙するのは、他人である意志への干渉になるので、頭の中に表れる思考はそのままにさせておいて(他人は他人のままにさせて)、意識をハート、体で言うと胸にとどめておくほうが理想的なのでしょうか。

(関連記事:悟った人の行動を真似するべきか?【自分を他人だと悟る】

この場合、頭の思考は依然表れては流れ続けますが、意識はハートにあるから、外部的には「頭の思考を無視し続けている」感覚になります。そうすると、意志はハートにとどまりながら、頭だけを思考が川のように流れ、突っ切っている感じになります。感覚的には、考えるのをやめて思考を消してから、つまり意志として沈黙してからハートにとどまるほうが、「あぁ、ハートだなぁ」(と言語で思うわけではないですが)という感じは強いです。

真我に意識を向け続けようという意志は他人なので、真我に意識を向ける努力をしないほうがいいのでしょうか?  ということもできます。こういう質問も意志がしているのですが(笑)

YRさんからの追伸

お世話さまです。YRです。追伸です。

「思考を放ったらかしにしておく(気づきはハートに置いておく)瞑想」と、「意志として沈黙する瞑想」は、二つを比べてみると、自分の感覚では、どちらも同じところに行き着いたようです。つまり、どちらでも、頭の思考がよぎるときもあれば、沈黙が占めてより解放感が大きくなる(感じる)ときもある、という感じでした。

自分の場合、いままでは前者で瞑想というか観想のようなものをやっていた一方、「意志として黙る瞑想」は最近初めてやったので、同じことになるとは知りませんでした。どうやら質問以前の問題だったようです。失礼しました。

ちなみに、気づきがハートにあるのを前提として、頭の思考がよぎるときは思考をそのままにさせておく(思考で思考を解決しようと思考しない)、沈黙が占めてハートが雄弁に感じられるときはそのままで居る、ようにしています。

個人的な感覚では、個性の影響は少しあると思います。思うに、自分は、山家さんに比べて、生まれつき頭の思考が多いタイプの個性であるという感じがします。といっても誤差の範囲で、基本は思考をそのままにしておく(思考で思考を解決しない)ということで、誰にも真理への道は開いていると思います。

YRさんからさらに追伸

何度もすみません。最初の疑問の答えについて考えてみたのですが、「意志として黙る」とは、意志の働きではなく、気づきの働きによって自然と意志が黙ったり、思考がやむ、という解釈でよろしいでしょうか。自分はそのように思います。もしお考えをお聴かせ頂けたら幸いです。

回答

YRさん、こんにちは。ご質問ありがとうございます。

意志は他人のようなものでありながらも、やっぱり自分でもあるんです。この二面性の理解がなかなか難しいかもしれません。「意志として黙る」というのは、意志は自分であるという視点からの言葉ですね。意志は他人という視点ならば、「沈黙が起こる」とか「私は在る」というような言葉になるかもしれません。真我実現したとしても、意志は自分であるという感覚が消えるわけじゃないんです。

意志は他人であり、自分はハートであるのは解るのですが、であれば、意志として沈黙することは、他人に干渉することにはならないのでしょうか?

理屈的には確かにそうなりますよね。でも、意志自身が自分自身を他人であるように感じることはできないんです。例えば、頭の中で、「意志は他人だ」と想像することはできます。そして、「その意志を黙らせようとすることは、他人に干渉することなんじゃないか?」と考えることができると思います。

でも、そう考えるのはハートではなく、意志としてのこの自分ですよね。この自分というのは、この世界においてはある意味では最高の権力者です。この自分に干渉できる存在は存在しないんじゃないかと思います。

外部的な要因で意志が変わることもあるかもしれません。でも、外部的な要因というのは間接的なものなのであって、意志を変えるのはこの自分ですよね? 外部的な要因が、この意志そのものをコントロールすることはできないわけです。なので、意志として黙ろうとする時、他人に干渉されているとか干渉しているという感覚はないんじゃないかと思います。

イメージ上では、「意志は他人だ」と想像することができると思います。でも、実際問題としては、意志というのは自分以外のなにものでもないのではないかと思います。「意志は他人みたいなものだ」というのは結果として気づくことなのであって、最初から前提にする必要はないと思います。

「思考を放ったらかしにしておく(気づきはハートに置いておく)瞑想」と、「意志として沈黙する瞑想」は、二つを比べてみると、自分の感覚では、どちらも同じところに行き着いたようです。

そうなんです。結局、同じところに行き着くと思います。ラマナ・マハルシも「ハート」という言葉と「沈黙」という言葉を使っていたりしますよね。ハートにとどまるという感覚が分からない人に対しては「沈黙」という言葉が使われることが多いのではないかと思います。意志として黙るということが、ハートにとどまるという感覚に導いていく感じですね。

頭の思考は依然表れては流れ続けますが、意識はハートにあるから、外部的には「頭の思考を無視し続けている」感覚になります。そうすると、意志はハートにとどまりながら、頭だけを思考が川のように流れ、突っ切っている感じになります。

ちなみに、頭の思考の量は多い感じでしょうか? 思考があったっていいんですが、思考の量が少ないほうが「意志は他人みたいなものである」ということに気がつきやすいのは確かだと思います。

例えば、頭の思考に巻き込まれている時、自分自身がその思考ですよね。そのことに気がつくこともできないし、「頭の思考は他人みたいなものだ」と思うこともできません。ハッと気がつくことで、意志としての自分に戻ります。

「意志は他人みたいなものだ」ということに気がつく時は、この逆のパターンになります。何の思考もない中、〝頭〟の思考が現れるなら、「頭の思考は他人みたいなものだ」ということに気がつけますよね。それと同じような感じで、何の思考もない中、〝意志〟としての思考が現れた時に、「意志は他人みたいなものだ」と感じる瞬間がやってくるんです。

意志自身は、「自分は気がつく主体だ」と思っているのですが、唐突に、「自分が気がつかれてしまった」という感覚が生じます。にも関わらず、そのことに気がついたのはやっぱりこの自分なんです。こういった経験をしないことには、意志と意識の違い、「意志は他人みたいなものである」ということは分からないかもしれません。

(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?

そのベースになるのが、何の思考もない状態なんです。何の思考もない状態から、意志としての思考が現れる時に、そのことに気がつく(気がつかれる)可能性がでてきます。なので、日常生活の中でも、思考の空白があったほうが、単純にそのことに気がつく(気がつかれる)可能性が上がるんです。

頭の思考が切れ目なく川のように継続してしまうなら、意識は頭の思考に向いてしまいます。そして、意志自身は「自分は意識の側にいる」と思っているんです。その状態だと、「意志は他人みたいなものだ」ということに気づく(気づかれる)ことは難しいかもしれません。とはいえ、ハートにとどまることを続けていれば、自然と思考の量は減っていくのではないかとも思います。

「意志として黙る」とは、意志の働きではなく、気づきの働きによって自然と意志が黙ったり、思考がやむ、という解釈でよろしいでしょうか。

これはシンプルに、「自由意志を持った自分自身として黙る」という解釈でOKだと思います。つまりは、意志の働きです。

気づきそのものには動的な働きは備わっていないんです。テレビのディスプレイそのものは、テレビの中に映像として登場することができないことと似ています。気づきはこの世界を超えていて、この世界に干渉することも干渉されることもないんです。

ただ、この意志が「自分は気づきだ」と勘違いしているので、気づきにも動的な働きがあるように感じられているだけなんです。「意志として黙る」というのは、その勘違いに気づきやすくなるためとも言えるかもしれません。

YRさんからの返信

YRです。お世話になっております。丁寧なお返事ありがとうございます。山家さんの素朴さや真剣さや丁寧さに感謝します。あらかじめ、長文です。よろしくお願い致します。

真我実現したとしても、意志は自分であるという感覚が消えるわけじゃないんです。

それは、真我実現しても、自我といいますか、「個体としての私の機能」は消えず、機能を果たし続けるということでよろしいのでしょうか。真我実現においては、意志は「自分(意志)は自分だ」と思い続けているけれども、自分(真我)はそれを気付き続けている、ということですよね。

でも、そう考えるのはハートではなく、意志としてのこの自分ですよね。

はい、その通りです。一連の質問をさせて頂いたのも、意志が意志として納得したいという動機です。

意志として黙ろうとする時、他人に干渉されているとか干渉しているという感覚はないはずです。

自分の場合、観照者に気付かれる事はしばしばあるのですが、そのためか、意志として黙る時、他人に干渉する不自由感を覚えることがあります。黙っているとき、黙っている処に、ポッと頭の思考が起きて、流れていきますが、「それに干渉しようか? いやでもそれって他人だしな。というか、こう考え始めた時点で、他人に入ってるよな」とか思いました。

そこで、気付き続けたまま思考を流す(無視する)ほうが自然な瞑想なのか、他人である意志に入って行って意志として黙ってから瞑想に復帰したほうが自然な瞑想なのか、といった疑問が出まして、質問したしだいでした。

ちなみに、頭の思考の量は多い感じでしょうか?

自分は思考の量は多い方だと自認しています。思考(意志)が有る時は、ハートが隠されて重苦しくなるので、その重さをどけようとして、「思考で思考と戦う」という、「意志のドツボに嵌る」ような時間を長く過ごしていました。ただ、趣味に没頭している時など、思考が鎮(しず)まるときもあったので、瞑想というか、観想というか、そうしたものには恵まれていたと思います。

自分は生活上、朝起きると思考が稼働して、ハートが覆い隠されるという時間を、長い間、送って来ました(このニュアンスでは、脳の稼働と言った方が、感覚的には解り易いかもしれません。たとえば夢を見ている時はハートが感じられます)。何とかしないといけないと、思考・意志で、訓練や悪戦苦闘をして、時間がたちました。

真我を知ったこと自体は、何年も前でした。ですが、その時、「これを24時間継続しなければならない」と思ってから、苦闘が始まってしまいました。まったく、其処にとどまればよかったんです。でも、ここでの表現でいえば、意志を意識だと無自覚に信じ込んでいたので、とどまることができませんでした。

自分は、去年、ある本で読んだ「ニルヴィカルパ・サマーディ」という語を検索していた時、空白JPを見付け、ご縁をいただくことができました。それまでは、趣味や、我流の観想法を通して、真理に到達しようとしてきました。誰でも真理のもとにあるのだから、誰でも単独で真理に到達できるという直感がありました。

しかし、上に書いたように、24時間持続することができず、ずっと、毎日、朝起きると歯痒さがありました。具体的には、趣味の時間には真我の感覚に在るのですが、生活では全然できなかったんです。自分はこの問題を「統覚の問題」と呼んでいました。統覚は「私」という意味で、真我のときも、自我の時も、一人称上は同じ「私」であり、せっかく真我の感覚を掴んでも、真我(意識)から自我(意志)へとシームレスに移行してしまう問題です。

気持ちよい解放感に浸っているのに、「この解放感を持続しよう」などと意志することを契機として、頭の思考が渦巻く重さに落ちてしまいます。一般に、「あっ、一秒前まで真我だったけど、今自我に下りてきた」みたいなことは自覚しづらいですし、何より、自我の「私」によっては真我の「私」に移行する事ができません。この問題を抱える探求者は多いのではないかと思います。自分もそうでした。

もちろん、いつでも真我であり、真我が消えることはないのですが、自我(意志)にとっては消えたように感じられるということです。

ですが、空白JPでは、探求者の必ず陥る罠として、自我(観察者)が真我(観照者)のフリをする問題を明確に述べていました。自分は、意志が沈黙を邪魔している張本人であることは、長い間気付けないでおり、そのため毎日の生活で重さを感じる時間が続いてしまいました。

ハートや、真我探求という語、瞑想の方法も、空白JPで初めて学びました。ここでの学びによって、自分の問題の解消が一気に加速できました。もし空白JPを読んでいなかったら、意志がハートにとどまる事を好むようになるまでには、確実にもっと時間が掛かっていたでしょう。自我と自分を同一化した重さに悩まされる時間も、続いていたでしょう。

意志自身は、「自分は気がつく主体だ」と思っているのですが、唐突に、「自分が気がつかれてしまった」という感覚が生じます。にも関わらず、そのことに気がついたのはやっぱりこの自分なんです。

これが観照者ですよね? 自我・意志に蓋をされている時の感覚と比して、観照者のもとにあるときは、とても気持ちいい感覚ですよね。

気づきそのものには動的な働きは備わっていないんです。テレビのディスプレイそのものは、テレビの中に映像として登場することができないことと似ています。気づきはこの世界を超えていて、この世界に干渉することも干渉されることもないんです。

気づきがが起こったとき、気づき(ハート)は元々あって動かないものですから、意志にとっては、あるべきところ(ハート)に自分が収まるように感じられるのかもしれませんね。走っている列車に座っている子供が、「周りの景色が動いている」と感じるようなものかもしれないですね。

ところで、これは自分の真我実現の道に関するお話ではなく、余談ですが、真我について一度で理解して、弟子に言葉でも完全に説明できるような人は、もともとそういう素地があるんだろうなあ、といった驚きを覚えます。これは、もちろん山家さんもですし、特にラマナ・マハルシを念頭に言っています。

気づきそのものへの観察(観察は意志=観察者がするものだとすると、これはおかしい言い回しですが)は、観察者にとっては、本当に際どいものに思われる事ですよね。当然、観察者によってはできないわけですから、自分の後頭部を振り返って観るようなきわどさを観察者は感じます。いっぽうで、後頭部は観照者によって、最初から観られている、ということでもあるんですね。

観察者の担当範囲外への観察(概念的把握)という事については、やはり、一定以上の体質なり素質があったほうが、言語での表現を外しすぎることが少なくなって便利かな、と思ったりはします。体質や素質がなくても、もちろん、できますが。また、ほんらいは、する必要もないんですが……。意志に奉仕する知性のわがままを叶える、みたいな事ですね。

こうした事は、意志のお喋りであって、沈黙とは交わらない物事かと思います。余談失礼いたしました。

回答

YRさん、こんにちは。

それは、真我実現しても、自我といいますか、「個体としての私の機能」は消えず、機能を果たし続けるということでよろしいのでしょうか。真我実現においては、意志は「自分(意志)は自分だ」と思い続けているけれども、自分(真我)はそれを気付き続けている、ということですよね。

言葉にするとそうなんですが、同時に2つの視点を認識できるわけではないんです。例えば、老婆にも若い女性にも見える隠し絵ってありますよね。老婆に見えているうちは、若い女性に気がつくことはできないと思います。その逆もまたしかりですね。

ただ、「今は老婆に見えてるけど、若い女性にも見えるんだよね〜」ということを知っていれば、老婆として見ることを止めて、若い女性として見ようとすることはできます。そして、「ほら、この絵は老婆にも若い女性にも見えるんだよ」と言うことができます。でも、それを同時に認識することはできないわけです。

実は、意志と真我にも同じようなことが言えるんです。例えば、今僕はこうやって文章を書いているのであり、思考を使っているのであり、意志の感覚が強いです。ただ、この意志の感覚は一時的なものであって、まさしく思考みたいなものだということも知っています。なので、この文章を書き終われば、思考が現れては消えていくように、意志として消えていくことになります。

意志として消える(黙る)ということは、意志の力で選択できるように感じられるのであり、そのことを指して明け渡しと言われることもあるかもしれません。それでも私は消えるわけではなく、「私は在る」わけです。意志は「私は在る」と思いたがりますが、意志が消えている時に「私は在る」のであり、同時に現れていることはないわけですね。極端なことを言えば、熟睡中、私は在りますが意志は存在していません。

気づきそのものへの観察(観察は意志=観察者がするものだとすると、これはおかしい言い回しですが)は、観察者にとっては、本当に際どいものに思われる事ですよね。当然、観察者によってはできないわけですから、自分の後頭部を振り返って観るようなきわどさを観察者は感じます。いっぽうで、後頭部は観照者によって、最初から観られている、ということでもあるんですね。

YRさんはこう思うかもしれませんが、実はこれが「自我(観察者)が真我(観照者)のフリをする」ということなんです。真我としての視点から言えば、「自我も意志も存在しない、けど、私は在る」で終わりなんです。起きながらに寝ているようなものです。

でも意志は、意志として存在しながらも、真我に観照されているとイメージしてしまいます。そして、そのイメージ(後頭部を観られてるなどの)を真我であるかのように感じてしまうんです。でも、それはまさしくイメージでしかなく、そのイメージは意志の力に依存しているんです。それは蜃気楼の上に蜃気楼が現れているようなものであって、儚いものなんです。意志という蜃気楼が消えてしまえば、真我という蜃気楼も消えてしまいます。その後に残るものが本当の真我なんです。

とはいえ、意志は徹底的に自身が消えてしまうことに抵抗しようとします。それが探求の難しさでもあるんですね。なにしろ、意志は退屈を恐れます。

もちろん、ハートにとどまるということの重要性には変わりはないんです。ただ、ここに意志があるかぎり、それは思考やイメージや感情に覆われがちなのではないかと思います。意志は一時的な存在なのであり、目の前の世界に影響を受けるし、それは永続しません。あくまでも永続しているのは真我なんです。

もし、ハートにとどまることが困難に感じることがあれば、意志として何かをしようとするのではなく、意志として黙るということを試してみてもいいかもしれません。おそらく、それが、ハートにとどまる最も簡単な方法なのではないかと思います。

YRさんからの返信

YRです。お世話になっております。お返事ありがとうございます。別の質問よろしいでしょうか(当初の質問と、すっかり内容が違ってしまって、申し訳ございません)。

例えば、今僕はこうやって文章を書いているのであり、思考を使っているのであり、意志の感覚が強いです。ただ、この意志の感覚は一時的なものであって、まさしく思考みたいなものだということも知っています。

意志の感覚が強く、文章を書いていられる時の山家さんは、ハートの至福の感覚は変わらずあるのでしょうか? あるいは、たとえば入眠時にくらべて、ハートの感覚の増減を感じたりしていますか? 一つの参考になるかもしれないので、感覚を知りたいです(よし、その感覚を目指そう、ということはしません)。

「自我も意志も存在しない、けど、私は在る」で終わりなんです。

簡潔に言っていただきありがとうございます。(意志としてでなく)存じているつもりです。ただ、もちろん、意志を握りしめてしまうことも、まだあります。「よし、悟ろう、自分は悟る」と言って意志が発生することもいまだにあります。特に自分の場合はやはり思考の形が多いです。「でも、ここを知りたいんだ」「でも、ここが納得できないんだ」「でも、」「でも、」と意志は出て来ます。以前は「でも…」が一度出ると何日も重苦しさが続いてしまったものでした。

今は、以前に比べると、沈黙が増えて、「でも…」が減りましたし、「でも…」が出ても「ま、いいか」と感じられたり、そのまま感じ続けられるようになりました。今後も、今回おすすめもされました、意志として黙ることをメインに、やっていこうと思います!

回答

YRさん、こんにちは。

意志の感覚が強く、文章を書いていられる時の山家さんは、ハートの至福の感覚は変わらずあるのでしょうか? あるいは、たとえば入眠時にくらべて、ハートの感覚の増減を感じたりしていますか?

文章を書いているときもハートの至福の感覚は変わらずな感じでしょうか。今この瞬間もあります。むしろ、このハートの至福の感覚を意図的に感じなくするということのほうが難しいと思います。全速力で走ったりすれば、心臓の鼓動とか高揚感で覆い隠せるかもしれませんが、それも持続はしませんし。

ハートの至福の感覚は一定です。空っぽゆえの解放感みたいなものなので、さらに空っぽになるということもないんです。なので、寝ている時から継続しているように感じられます。なにか増減したように感じる場合は、感情が働いている感じでしょうか。

僕もよく考えるタイプなので色々と考えてきましたが、探求が終わるまでは結局よく分かりませんでした。探求が終わる前にでも理解していたことは、

・苦しみと退屈には飽きることができること
・ハートの至福の感覚
・意志は意識ではなく思考みたいなもので、沈黙を邪魔している張本人

ぐらいでしょうか。

それ以外の、「もしかしたらこうなのではないか?」という想像はことごとくはずれてしまった感じです。形而上学的なこととか、それ以外の概念的なことは、探求が終わってから理解できるようになったんです。

なので、もちろん、あれこれと考えたがる衝動は湧き上がるかと思いますが、沈黙することに慣れてしまうというのがいいかもしれません。

作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」「空白JPアーカイブ2021+」紙書籍&電子書籍(Kindle)も出版しています。

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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