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サーンキヤ哲学

ヨーガ・ヴァーシシュタをわかりやすく解説【岩の物語】

今回は、MNさんからリクエスト頂きまして、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の解説をしてみようと思います(去年からリクエスト頂いていたのですが遅くなってしまいました)。ヨーガ・ヴァーシシュタは、ラマナ・マハルシがおすすめする古典の一つと言われています。実際のところ、『ラマナ・マハルシとの対話』の中でも、ヨーガ・ヴァーシシュタはたびたび引用されています。

ヨーガ・ヴァーシシュタでは、いくつかの物語を通して、真理についての教えが説かれていきます。今回は、そのいくつかの物語の中から〝岩の物語〟をピックアップして解説してみたいと思います。

※今回は7800文字ほどの長文です。

ヨーガ・ヴァーシシュタは、不二一元論ではなく、サーンキヤ哲学的な一元論

その前に注意点です。ヨーガ・ヴァーシシュタは、不二一元論ではなく、基本的にはサーンキヤ哲学についての経典です。『バガヴァッド・ギーター』に近いです。実際のところ、ヴァシシュタという人物は、バガヴァッド・ギーターの作者と言われるヴィヤーサの曽祖父と言われているようです。なので、アルジュナなどの共通の人物もヨーガ・ヴァーシシュタには登場します。

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ラマナ・マハルシの教えは、基本的には不二一元論であり、ヨーガ・ヴァーシシュタはサーンキヤ哲学的な一元論です。なので、いくつかの矛盾もでてきます。特徴的なのは、ヨーガ・ヴァーシシュタには〝アートマン〟という言葉がでてきません。アートマンは個人的な意識であり、ブラフマンは宇宙的な意識であると説明されることが多いと思います。不二一元論は、アートマンとブラフマンはまったく同一のものだという教えです。質もサイズもまったく同一ということです。

ラマナ・マハルシは、アートマンとブラフマンの構図について、クモの巣を例に説明することが多いです。クモとクモの巣は別々のものに見えるけど、実際のところは、クモの糸は、クモの体内から現れるのであり、そしてまた、クモの体内に取り込まれていくという説明です。クモがアートマンであり、クモの巣がブラフマンです。アートマンが存在するがゆえに、ブラフマンという巣(概念)が現れます。つまりは、唯一の実在はアートマンということです。

一方、サーンキヤ哲学的な一元論では、海と海水の一滴の例が使われることが多いと思います。アートマンは海水の一滴であり、ブラフマンは海だという説明ですね。サイズは違うけど、質が同じなので同一のものということになります。この場合、ブラフマンだけが唯一の実在です。そして、海水の一滴は、アートマンではなく〝ジーヴァ(魂)〟と表現されることが多いです。

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は意訳されている?

ラマナ・マハルシの教えと、ヨーガ・ヴァーシシュタの教えには違いがあります。不二一元論とサーンキヤ哲学的な一元論の違いです。それは、バガヴァッド・ギーターにも同じことが言えます。でも、ラマナ・マハルシは、よくバガヴァッド・ギーターを引用します。当然、そのことに疑問を持った探求者もいたようです。「ラマナ・マハルシは不二一元論を教えているのに、なぜ、サーンキヤ哲学の経典であるバガヴァッド・ギーターを引用するのか?」ということですね。そのことに対して、確か、ラマナ・マハルシはこう答えています。

バガヴァッド・ギーターの第15章ではこう書かれています。

「世界には、この二種のプルシャがある。可滅のものと不滅のものである。可滅のものは一切の被造物である。不滅のものは『揺るぎなき者』と言われる。しかし、それと別の至高のプルシャがあり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する」

唯一実在するのは、この至高のプルシャであり、最高のアートマンなのです。

可滅のプルシャとは、この世界(プラクリティ)のことであり、不滅のプルシャとは、宇宙意識たるブラフマンのことです。これが、サーンキヤ哲学の基本的な世界観です。サーンキヤ哲学的な一元論では、ブラフマンのみが実在ということになります。でも、バガヴァッド・ギーターでは、それとは別に至高のプルシャがあると書かれています。それが、アートマンです。アートマンがクモであり、可滅のプルシャと不滅のプルシャが、クモの巣ということですね。それは、不二一元論です。バガヴァッド・ギーターは、表面的にはサーンキヤ哲学の経典なんだけれども、その根底には、不二一元論の思想があるということですね。

なので、僕はヨーガ・ヴァーシシュタにも、そういった記述があるのだろうと思っていましたが、そういった記述は見つけることができませんでした。でも、それはもしかすると、この『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は抄訳されたものだからかもしれません。日本語訳されたヨーガ・ヴァーシシュタは、サンスクリット語の原典を、4分の1ほどのボリュームに抄訳したもののようです。

また、その内容も、英訳者であるスワミ・ヴェンカテーシャーナンダ氏によって意訳されているのではないかと感じています。というのも、〝原子〟〝波動〟〝北極、南極〟〝太陽系〟〝地球〟〝ミサイル〟といった、当時の人々は理解しないであろう言葉が登場してくるからです。であるなら、他の部分も、意訳されている可能性もあります。ヨーガ・ヴァーシシュタには、クモの例えも出てきます。

生きたクモから生命のない糸が出されるように、この生命のない世界の現れも、無限の意識から現れ出るのだ。

クモの例えというのは、アートマンとブラフマンの違いを明確にしたいときに使われることが多いです。アートマンから、ブラフマンという巣が作り出される、ということの例えには最適だからです。でも、ここでは、まるで無限の意識(ブラフマン)がクモであるかのように訳されているように感じられます。訳者は〝意識〟という言葉に対して〝無限の〟という形容詞をつけたがる傾向があります。それはもしかすると、訳者の中に「すべてはブラフマンである(アートマンは存在しない)」という前提があるからかもしれません。『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を読む時は、そのことを考慮にいれて読むのがいいかもしれません。

というわけで〝岩の物語〟の解説を始めたいと思います。

愛情と優しさに満ちた巨大な岩がある

〝岩の物語〟は、こう始まります。

愛情と優しさに満ちた巨大な岩がある。それははっきりと目で見ることができる。そして柔らかく、永遠に、あまねく存在している。

その中には数えきれないほどの蓮の花が咲き乱れている。その花びらは、ときには互いに触れ合い、ときには触れ合わず離れている。ときには目に見え、ときには目に見えず隠れている。ある花は上向きで、ある花は下向きだ。中には根が互いに絡み合っているものもある。中には根がない花もある。

その岩の中にはすべてが存在し、しかも何も存在していない。ラーマよ。実はこの岩とは普遍の意識(ブラフマン)のことだ。

岩を意識に例えるって面白いですよね。現代では、意識はスクリーンやディスプレイに例えられることが多いです。でも、ヴァシシュタが生きた紀元前の時代には、そんなものは当然無いわけです。その結果として登場するのが〝岩〟なのでしょう。岩を割ると、均質でザラッと(場合によってはツルッと?)した断面が現れます。ヴァシシュタにとっては、それはスクリーンのように感じられたのかもしれません。

蓮の花とは、人のことであり、根とは、カルマのことでしょう。カルマによって人は行為に突き動かされます。その結果、さまざまな人と関わることになります。でも、中には、カルマが消えてしまっている人もいるのでしょう。でも、そういった、この世界の中の現象は、岩の中に想像される物語のようなものであって、実際のところは実在していないということです。実在しているのは、あくまでも不変の岩(ブラフマン)だということですね。

自我であれ空間であれ、すべてのものは実在の本質を持っている。だが真実は、それらが創造されたことなどなかったのだ。何も創造されなかったにもかかわらず、すべてが存在するように見える。

まさにそのように、賢者や、聖者や、神々は、彼らの超越意識の中にとどまりながら、自己の本性の至福を味わっている。彼らは「観察者」と「観察されるもの」という二元性と、それにともなう想念の動きを放棄した。彼らの眼は真理に固定され、瞬くことさえないのだ。

岩の中に想像される蓮の花は、岩そのものです。でも、岩の中に、蓮の花を見るならば、それは存在しているように見えます。人が、想像に対して感情的反応を示すのは、それが現実に存在しているかのように感じるからでしょう。でも、そこには岩が在るだけです。ただ単に、それが岩であることに気がついていることが超越意識であり、「観察者」と「観察されるもの」という二元性が放棄されるということです。

観察者が放棄されれば、その状態は至福に満ちたものになります。〝岩の物語〟の冒頭が「愛情と優しさに満ちた巨大な岩がある」から始まっているのはそれが理由でしょう。そして、そのことに気がついてしまえば、二元性の中に満たされることを求めることはなくなってしまいます。

「あなた」も「私」もすべては純粋なブラフマンでしかない

〝岩の物語〟は、ヴァシシュタとラーマの対話形式になっています。ラーマは、ヴァシシュタにこう問います。

もしブラフマンがまったく変化しないのなら、どうしてこの実在であり非実在でもある世界はその中に現れたのでしょうか?

その問いに対して、ヴァシシュタはこう答えます。

ラーマよ。牛乳がヨーグルトになるように、真の変化とは、一つの物質が別の物質に変容することだ。この場合、ヨーグルトが牛乳の状態に戻ることはあり得ない。

ブラフマンにおいては状況が異なる。それは世界が現れたあとも変化せず、世界が消え去ったあとも変化しない。始まりにおいても、終わりにおいても、それは変化のない均質な意識としてとどまるのだ。一見、一時的な変化のように見えても、意識の中のかすかな揺らぎを変化と呼ぶことはできない。

スクリーンやディスプレイという概念が無い場合、こういった例えになるんですね。でも、この例えは、いまいち説得力に欠けるんじゃないでしょうか? 牛乳とヨーグルトの関係性が、ブラフマンの不変性と関連していません。ただ、「ブラフマンは不変である」と言っているだけです。ラーマもいまいち納得がいかないのか、さらにこう問います。

純粋意識であるブラフマンの中に、どうしてかすかな揺らぎが起こったのでしょうか?

ヴァシシュタはこう答えます。

ラーマよ。無限の意識だけが実在であり、その本性の中にはいかなる揺らぎもないと私は確信している。私たちは会話や教えの中で「一」や「二」という観念を起こさないようにするために、「ブラフマン」という言葉を用いている。「あなた」も「私」も、すべては純粋なブラフマンでしかない。

答えになっていません。この問いは、サーンキヤ哲学では上手く説明できないと思います。例えば、クモの巣が破れたとしても、それは、クモが破れたわけじゃないですよね? クモたるアートマンは不変です。不二一元論では、このように説明できます。でも、海水の一滴が蒸発したなら、それは海に変化があったということになりはしないでしょうか? なので、スクリーンやディスプレイといった概念が登場するまで、このことは上手く説明できなかったはずです。ただ、「すべては純粋なブラフマンでしかない」ということを確信する(させる)しかありません。

どうして死者は感覚を体験しないのでしょうか?

ラーマは、さらにこう続けます。

私たちはみな至高の真理に満たされています。あなたから授かったブラフマンの知識に感謝を捧げます。(中略)

それでも、覚醒をさらに広げるために、私はもう一度尋ねます。どうかお聞きください。感覚器官はすべての生き物の中に存在しています。生きている間は感覚器官を通して対象物を体験していたのに、どうして死者は感覚を体験しないのでしょうか?

その問いに、ヴァシシュタはこう答えます。

純粋意識を離れては、感覚も、心も、その対象物も存在しない。自然の中に対象物として現れるのも、また人の感覚として現れるのも純粋意識なのだ。その意識が精妙な身体となったとき、それは外側に対象物を映し出す。

夢の中では、そこに身体は無いですが、精妙な身体があり、外側に対象物を映し出します。

永遠なる無限の意識には何の変化も起こらない。だが、その中に「私は在る」という観念が現れると、その観念はジーヴァ(個我)となる。この身体の中で生き、動いているのは、そのジーヴァなのだ。

「私」という観念が起こると、それは自我と呼ばれ、想念が現れると、それは心と呼ばれる。そこに気づきがあるとき、それは知性と呼ばれる。個人によって見られるとき、それは感覚と呼ばれる。

人が寝ている時、そこには何の変化も起こりません。その状態を描写することはできません。でも、起きると、そこには「私は在る」という感覚が現れます。「私は、今ここにいる」って感じますよね? それは、夢の中であってさえそうでしょう。ヴァシシュタは、この身体(精妙なものも含め)を機能させているのはその「私は在る」という感覚なのであって、それがジーヴァ(個我)だと言います。

この意識は何であれ想い描くことを「存在するもの」と見なす

ヴァシシュタは、ジーヴァという存在を前提とする物語を、現実であるかのように語ります。でも、その一方で、「ジーヴァは非実在である」とも言います。それは、一見、矛盾していますよね。そのことについて、 ヴァシシュタはこう説明しています。

この意識は何であれ想い描くことを「存在するもの」と見なす。その観念や概念が実を結ばないことはない。金の腕輪の中には、金と腕輪という二つが存在している。一つは実在(金)、もう一つは現れ(腕輪)だ。

そのように、ブラフマンの中には意識と物質的実体という観念が存在する。意識はすべてに偏在しているため、それは常に心の中に存在する。そして、観念はその心の中に起こる。

ブラフマンは、金に例えられることがあります。金というのは素材なのであって、その性質を定義するものです。一方、腕輪というのはカタチを定義するものです。もし、腕輪を首飾りに作り変えれば、腕輪というカタチは消えてしまいます。でも、金という素材は変わらないわけです。ブラフマンという性質は不変です。

ヴァシシュタは、「ブラフマンだけが実在である」としながらも、ジーヴァを「存在するもの」として話を展開していくことが多いです。それは、ブラフマンとジーヴァも、金と腕輪のような関係性を持っているからです。ジーヴァという概念は、ブラフマンという意識の中に現れます。それは、ブラフマンそのものでもあります。なので、ヴァシシュタは、意識の中に現れるジーヴァという概念を、「存在するもの」と見なして話を展開していくんですね。

ヴァシシュタは、こう続けます。

夢見る人が、ある村でしばらく暮らした夢を見て、心はその夢でいっぱいになった。しばらくたってから、別の場所の夢を見て、今、自分はそこに暮らしていると思いはじめる。ちょうどそのように、ジーヴァは一つの身体から別の身体へと移り変わる。身体とは、ジーヴァが心に抱いた観念の反映にすぎない。

死ぬのは非実在である身体だけだ。そして、再誕生するのもやはり非実在である別の身体だ。人は夢の中で見たことのあるものや見たことのないものを体験する。夢の中でジーヴァは世界を体験し、未来に起こるであろうことさえ見ることもあるのだ。

ヴァシシュタは、「身体とは、ジーヴァが心に抱いた観念の反映にすぎない」と言います。これが、ラーマの「どうして死者は感覚を体験しないのでしょうか?」という問いに対する、ヴァシシュタの答えです。身体というのは非実在なのであり、死ぬように見えて、死ぬわけではないということですね。客観的な視点から見れば、人の身体は死ぬように見えます。感覚を体験しなくなるように見えます。でも、身体が死んだからといって、ジーヴァが死ぬわけではなく、ジーヴァは別の身体を得て、感覚を体験し続けるということです。

そのことを確認する術はありませんが、ヴァシシュタはそう想像しているのであり、その想像は、このブラフマンの中に現れます。それゆえに、ヴァシシュタは、その想像を「存在するもの」として話を展開していきます。金と腕輪の関係性のように、その想像はブラフマンそのものでもあるからです。

このサンサーラ(世界の現れ)と呼ばれるものは、ジーヴァの原初の夢でしかない

ヴァシシュタは、こう続けます。

このサンサーラ(世界の現れ)と呼ばれるものは、ジーヴァの原初の夢でしかない。ジーヴァの夢は一個人の夢とは異なったものだ。前者の夢は目覚めの状態として体験される。それゆえ、目覚めの状態は一つの夢と見なされるのだ。

〝一個人〟であるこの身体が見る夢(白昼夢)は、頭の周辺にイメージされます。それは、この世界の中に現れる、ほんの一部分でしかありません。一方、ジーヴァが見る夢は、この目覚めの状態そのものだと言います。つまりは、この世界そのものが、ジーヴァが見ている夢だということですね。

ジーヴァの長い夢は非実在であり、実体のないものでありながら、瞬時にして現れる。その夢の中で、ジーヴァは一つの夢から別の夢へと移りゆく。そして、この夢を実在だとする誤った思い込みが深まると、真の実在は無視されてしまうのだ。それゆえ、賢くありなさい。そして、主の教えによってブラフマンを実現したアルジュナのように生きなさい。

この世界を、夢のようなものだと感じられる人はどれだけいるでしょうか? もし、この世界が実在するように感じられるのであれば、ブラフマンという実在は覆い隠され、好もうと好まざると輪廻転生は続くのでしょう。それゆえに、ヴァシシュタは、「ブラフマンを実現したアルジュナのように生きなさい」と言います。

でも、ブラフマンを実現するってどういうことでしょうか? 人は、あらゆることを想像し、その中にブラフマンの存在を見ます。想像力には限りがなく、それゆえにブラフマンも〝無限〟です。どのようにすれば、その〝無限〟を実現することができるんでしょうか?

実のところ、それは不可能です。実際のところは、ブラフマンという存在自体がジーヴァによって夢見られたものなんです。ブラフマンとジーヴァは、合わせ鏡のようであり、そこには〝無限〟が映し出されます。輪廻転生の概念も、そこから生まれます。でも、ブラフマンもジーヴァも実在はしていません。〝一個人〟として想像しなければ、ブラフマンを存在させることはできないのではないかと思います。実際のところ、そのことに気がついている、このアートマンだけが実在であり、このアートマンは、ブラフマンとジーヴァが作り出す〝無限〟を超えているんです。それが、サーンキヤ哲学的な一元論の行きつく先であり、不二一元論です。

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』にはそのことについての記述はありませんが、サンスクリット語の原典には、そのことも書かれているのかもしれません。

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