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バガヴァッド・ギーターを、わかりやすく解説

バガヴァッド・ギーターという聖典は、とても稀有な存在です。

というのも、二元論的な思想を持つ人々に支持されるのは当然なのですが、非二元論的な思想を持つ人々にも支持されているからです。

例えば、不二一元論を提唱したシャンカラや、ラマナ・マハルシも、よく、バガヴァッド・ギーターの言葉を引用したりします。

バガヴァッド・ギーターには、「プルシャ(精神原理)」と「プラクリティ(物質原理)」という言葉がでてきます。

これらは、二元論的な思想でよく使われる言葉です。

なので、バガヴァッド・ギーターは、二元論についての経典のようにも思えます。

でも、実際のところは、非二元論的な思想を持つ人々にも、引用されることが多いです。

それは、一体なぜなんでしょうか?

実際に、バガヴァッド・ギーター(岩波文庫の)から引用しながら、お話しようと思います。

※今回は、1万文字以上の長文です。

クリシュナよ、私は勝利を望まない。

まず、「バガヴァッド・ギーターとはなんぞや?」というところからお話しようと思います。

簡単に言ってしまえば、クリシュナという覚者(神の化身と言われる)が、アルジュナという勇士(弓の達人)に対して、「戦え。」と、鼓舞するストーリーです。

舞台は戦場です。

権力争いのために、王族・士族である、親戚同士が、今、まさに戦おうとしているところです。

よくあるやつですね。

でも、アルジュナは、敵となった親族を目の前にして、戦意喪失してしまいます。

「ああ、我々は何という大罪を犯そうと決意したことか。王権の幸せを貪り求めて、親族を殺そうと企てるとは。」(1.45)

「もしドリタラーシトラの息子たち(敵側の親族)が、合戦において武器をとり、武器を持たず無抵抗の私を殺すなら、それは私にとってより幸せなことだ。」(1.46)

「アルジュナはこのように告げ、戦いのさなか、戦車の座席に座りこんだ。弓と矢を投げ捨て、悲しみに心乱れて・・・・。」(1.47)

あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。

ここから、バガヴァッド・ギーターのストーリーは進んでいきます。

クリシュナは、戦意喪失したアルジュナに対して、知識のヨーガと、行為のヨーガを通して、「戦え。」と、鼓舞していきます。

ちなみに、クリシュナとアルジュナは、親が兄弟同士という関係性です。

従兄弟ってことですね。

クリシュナは、まず、知識のヨーガから、語りはじめます。

「あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。しかも分別くさく語る。賢者は死者についても生者についても嘆かぬものだ。」(2.11)

「私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも・・・・。また、我々はすべて、これから先、存在しなくなることもない。」(2.12)

「彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。」(2.19)

「彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。」(2.20)

「また、彼が常に生まれ、常に死ぬとあなたが考えるとしても、彼について嘆くべきではない。」(2.26)

「生まれた者に死は必定であり、死んだ者に生は必定であるから。それ故、不可避のことがらについて、あなたは嘆くべきではない。」(2.27)

「あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして。」(2.37)

「苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。」(2.38)

これらの言葉は、二元論のように感じるでしょうか?

そうは感じられないはずです。

こういった言葉は、どちらかというと、非二元論のように感じられるんじゃないでしょうか?

そして、次に、クリシュナは、行為のヨーガについて語りはじめます。

「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。」(2.47)

「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」(2.48)

「実に、一般の行為(結果を動機とした行為)は、知性のヨーガよりも遥かに劣る。知性に拠り所を求めよ。結果を動機とする者は哀れである。」(2.49)

「知性をそなえた人は、この世で、善業と悪業をともに捨てる。それ故、ヨーガを修めよ。ヨーガは諸行為における巧妙さである。」(2.50)

ここで言う「巧妙さ」というのは、「分別の無さ」と置き換えてもいいかもしれません。

善と悪の分別が無いということですね。

「聞くことに惑わされたあなたの知性が、揺るぎなく確立し、三昧(サマーディ)において不動になる時、あなたはヨーガに達するであろう。」(2.53)

バガヴァッド・ギーターの奥深さは、行為することを推奨しているにも関わらず、結果に執着してはいけないと説くところにあります。

ただ、単に行為することを良しとはしません。

でも、結果に執着せずに行為することができる人が、どれだけいるでしょうか?

まさしく、このシチュエーションで言えば、「勝利することに執着することなく、戦え。」ということです。

「戦う」ということ、そのものが、アルジュナの職務であるということです。

そして、そのためには、知性を拠り所にせよと言います。

何故、あなたは、私を恐ろしい行為に駆り立てるのか?

アルジュナが、クリシュナのヨーガの教えを理解できたのであれば、バガヴァッド・ギーターのストーリーは、ここで終わっていたはずです。

戦争が始まっているはずです。

でも、アルジュナは、クリシュナの言葉を、理解することはできませんでした。

そもそも、アルジュナは、「戦いたくない!」と言っているんです。

なぜ、クリシュナが、戦うことを前提に、「執着なく戦え」と言っているのか、理解できないんです。

「クリシュナよ、もし行為より知性が優れていると考えられるなら、何故、あなたは、私を恐ろしい行為に駆り立てるのか。」(3.1)

「あなたは、錯綜した言葉で私の知性を惑わすかのようだ。それ故、はっきりと、ただ一つのことを言って下さい。それにより私が至福を得られるような・・・・。」(3.2)

人は行為を企てずして、行為の超越に達することはない。

それ故に、クリシュナは、アルジュナに理解できるように、もっと分かりやすい言葉で、さらに、ヨーガについて語りはじめます。

「人は行為を企てずして、行為の超越に達することはない。また単なる行為の放擲(ほうてき)のみによって、成就に達することもない。」(3.4)

「実に、一瞬でも行為をしないでいる人は誰もいない。というのは、すべての人は、プラクリティ(根本原質)から生ずる要素により、否応なく行為をさせられるから。」(3.5)

「あなたは定められた行為をなせ。行為は無為よりも優れているから。あなたが何も行わないなら、身体の維持すら成就しないであろう。」(3.8)

「アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。」(3.22)

三界というのは、仏教でもでてきますが、「神々の世界」「人間の世界」「悪魔の世界」のことです。

「何故なら、もし私が孜々(しし・熱心にという意味)として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。」(3.23)

「もし私が行為しなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう。」(3.24)

「諸行為はすべて、プラクリティ(根本原質)の要素によりなされる。我執(自我意識)に惑わされた者は、「私が行為者である」と考える。」(3.27)

「しかし勇士(アルジュナ)よ、要素と行為が自己と無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して働くと考えて、執着しない。」(3.28)

「プラクリティの要素に迷わされた人々は、要素のなす行為に執着する。すべてを知る者は、すべてを知らない愚者を動揺させてはならぬ。」(3.29)

「すべての行為を私のうちに放擲(ほうてき)し、自己(アートマン)に関することを考察して、願望なく、「私のもの」という思いなく、苦熱を離れて戦え。」(3.30)

クリシュナは、このように語ります。

もはや得るものがない私(クリシュナ)でさえ、プラクリティの要素に従って、行為に従事しているのだから、あなた(アルジュナ)も、プラクリティの要素に従って、するべき行為をせよということですね。

つまりは、目の前の敵である、親族と戦えと。

でも、その一方で、クリシュナはこうも語ります。

やっぱり、ただ単に行為することを良しとはしないんです。

行為することも重要なのですが、それ以上に、「私が行為者だ」という感覚を投げ捨てることを重要視します。

そして、ヨーガとは、一切を平等に見ることだと言います。

戦争に勝つこと、負けること、それらも平等だということです。

クリシュナは、こう続けます。

「何が行為か、何が無為かについては、聖仙たちですら迷う。そこで行為についてあなたに説こう。それを知れば、あなたが不幸から解脱できるような。」(4.16)

「行為の中に無為を見、無為の中に行為を見る人、彼は人間のうちの知者であり、専心してすべての行為をなす者である。」(4.18)

「行為の結果への執着を捨て、常に充足し、他に頼らぬ人は、たとい行為に従事していても、何も行為をしていない。」(4.20)

「放擲(ほうてき)と言われるもの、それをヨーガと知れ。アルジュナよ。というのは、意図(願望)を放擲しないヨーギンは誰もいないから。」(6.2)

「ヨーガに登ろうとする聖者にとって、行為が手段であると言われる。ヨーガに登った人にとって、寂滅が手段であると言われる。」(6.3)

「心が制御され、自己(アートマン)においてのみ安住する時、その人はすべての欲望を願うことなく、「専心した者」であると言われる。」(6.18)

「ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己(アートマン)を万物に存すると認め、また万物を自己のうちに見る。」(6.29)

「自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切の生類において等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。」(6.32)

ここで言う「自己」というのは、アートマンのことであって、ハートであり、常にここに在るサマーディのことです。

行為の結果として、幸福や不幸がやってこようとも、最高のヨーギンは、常にここにサマーディが在るということを理解して、一切を平等に見るということですね。

私はその不動の境地を見出だせない。心が動揺するから。

頭では、なんとなく理解できたとしても、心や感情が納得しないということは、真理の探求ではよくあることです。

アルジュナは、こう言います。

「あなたはヨーガが平等の境地であると説いたが、クリシュナよ、私はその不動の境地を見出だせない。心が動揺するから。」(6.33)

「実に心は動揺し、かき乱し、強固である。それは風のように制御され難いと私は考える。」(6.34)

「ヨーガを信じてはいるが、自己を制御せず、その心がヨーガから逸れた人は、ヨーガの成就には達せず、いかなる帰趨(きすう・行きつく所という意味)に行くか。クリシュナよ。」(6.37)

「彼は二つに分裂して、ちぎれ雲のように滅びてしまわないか。拠り所なく、ブラフマンの道において迷い・・・・。」(6.38)

「クリシュナよ、この私の疑惑を残らず断ち切ってくれ。この疑惑を断つ人は、あなた以外にあり得ないから。」(6.39)

私に帰依してヨーガを修めれば、あなたは疑いなく完全に私を知るであろう。

そして、クリシュナは、帰依(きえ)の道を説きはじめます。

帰依というのは、バクティ・ヨーガと呼ばれるものです。

崇拝、敬愛、そういった言葉で語られるものですね。

クリシュナは、こう語りはじめます。

「アルジュナよ、私に心を結びつけ、私に帰依してヨーガを修めれば、あなたは疑いなく完全に私を知るであろう。それにはどうすればよいか、聞きなさい。」(7.1)

「私よりも高いものは他に何もない。アルジュナよ。この全世界は私につながれている。宝玉の群が糸につながれるように。」(7.7)

「純質的(サットヴァ)、激質的(ラジャス)、暗質的(タマス)な状態は、まさに私から生ずると知れ。しかし私はそれらの中にはなく、それらが私の中にある。」(7.12)

「これら三種の要素からなる状態により、この全世界は迷わされ、これらよりも高く、不変である私を理解しない。」(7.13)

「実に、この要素からなる私の神的な幻力は超え難い。ただ私に帰依する人々は、この幻力を超える。」(7.14)

「幾多の生の最後に、知識ある人は、ヴァースデーヴァ(クリシュナ)はすべてであると考え、私に帰依する。そのような偉大な人は非常に得られ難い。」(7.19)

「種々の欲望によりその知識を奪われた人々は、各自の本性(プラクリティ)により定められた、他の神々に帰依する。各々の戒行に依拠して・・・・。」(7.20)

戎行というのは、神々のためのマントラ、礼拝、供養、儀式などのことだと思います。

「神々の群は私の本源を知らない。大仙(偉大な聖仙)たちもまた。何故なら、私はあらゆる点で、神々と大仙たちの本初であるから。」(10.2)

ここで言う大仙というのは、クリシュナのようにヨーガを修めた人ではないけれども、超能力が使えたり、とても長生きしている人のことかと思います。

もし、ヨーガを修めた人であれば、わざわざ区別する必要がありませんから。

「無知な人々は、非顕現である私を顕現したものと考える。不変であり至高である、私の最高の状態を知らないで・・・・。」(7.24)

「ヨーガの幻力に覆われた私は、すべての者に明瞭ではない。この迷える世界は、私が不生不滅であることを知らない。」(7.25)

「迷える人々は、人間の体をとる私を軽んずる。私の万物の偉大な主としての最高の状態を知らないで・・・・。」(9.11)

「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。」(9.27)

「私に心を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。このように私に専念し、私に専心すれば、あなたはまさに私に至るであろう。」(9.34)

ヨーギンよ、どのようにしたら、常に考察して、あなたのことを知ることができるか?

この話を聞いたアルジュナは、クリシュナが人間の体を超えた、超越的な存在であるということを理解しはじめます。

そして、こう問います。

「あなたは最高のブラフマンであり、最高の住処、最高の浄化具である。永遠にして神聖なプルシャである。本初の神であり、不生なる主であると、」(10.12)

「すべての聖仙たちはあなたをそのように呼ぶ。また、神仙ナーラダ、アシタ・デーヴァラ、ヴィヤーサたちも。そしてあなた自身も、私にそのように告げる。」(10.13)

ちなみに、ここで出てくるヴィヤーサという人物は、このバガヴァッド・ギーターの作者であると言われています。

実は、このヴィヤーサという人物は、クリシュナとアルジュナの親族です。

しかも、敵側のドリタラーシトラの、父親にあたる人物です。

「クリシュナよ、あなたが私に告げたことはすべて真実であると思う。実にバガヴァッド(クリシュナ)よ、神々や悪魔もあなたの顕現を知らない。」(10.14)

「あなただけが、自ら自己を知る。至高のプルシャよ。万物をあらしめる者、万物の主、神のうちの神、世界の主よ。」(10.15)

「どうか残らず告げていただきたい。あなた御自身の示現(奇跡)は神的(超越的)であるから。あなたはその示現(奇跡)によりこれらの世界をあまねく満たしているとされるが。」(10.16)

「ヨーギンよ、どのようにしたら、常に考察して、あなたのことを知ることができるか。バガヴァッドよ、どのような状態において、私はあなたのことを考えたらよいのか。」(10.17)

「クリシュナよ、自己のヨーガと示現(奇跡)とを、更に詳しく語ってほしい。私は甘露(不死)を聞いている時、飽きることがないから。」(10.18)

アルジュナよ、そのように多く知っても何になろう。

クリシュナは、そんなアルジュナの好奇心を満たすために、示現(奇跡)について、いくつか語りはじめます。

「おお、その主要なものをあなたに語ろう。私自身の示現(奇跡)は神的であり、私の示現(奇跡)の多様性は限りがないから。」(10.19)

「アルジュナよ、私は万物の中心に宿るアートマンである。私は万物の本初であり、中間であり、終末である。」(10.20)

「私は諸ヴェーダにおけるサーマ・ヴェーダである。神々におけるヴァーサヴァ(インドラ)である。私は諸感官における意(思考器官)である。万物(生類)における知力である。」(10.22)

「私は司祭のうちの最上者ブリハスパティであると知れ。アルジュナ。私は将軍のうちのスカンダ(韋駄天)である。湖水のうちの海である。」(10.24)

「私は一切を奪い去る死である。生まれるべきものの源泉である。女性のうちでは、名声、吉祥、言語、記憶、叡智、堅固(充足)、忍耐である。」(10.34)

「私はペテン師たちの賭博である。威光ある者たちの威光である。私は勝利である。決意である。勇気ある者の勇気である。」(10.36)

「また、万物の種子、それは私である。アルジュナよ。動不動のもので、私なしで存在するようなものはない。」(10.39)

「私の神的な示現(奇跡)には限りがない。だが、私は示現(奇跡)の多様性の若干の例を述べたのである。」(10.40)

「いかなるものでも権威があり、栄光あり、精力あるもの、それを私の威光(光輝)の一部から生じたものと理解せよ。」(10.41)

「だがアルジュナよ、そのように多く知っても何になろう。私はこの全世界を、ほんの一部分であまねく支えて存在しているのだ。」(10.42)

ここで言う「ほんの一部分」とは自己(アートマン・ブラフマン・ハート)のことです。

ヨーガの目的は、自己との合一です。

この世界の多様性に目を奪われているうちは、自己との合一はおぼつきません。

なので、クリシュナは、最後に、「そのように多く知っても何になろう」と言うんですね。

私に不滅なる御自身を見せて下さい。

それでも、アルジュナの好奇心は止まりません。

クリシュナは、自身を非顕現と言います。

「無知な人々は、非顕現である私を顕現したものと考える。」と言います。

でも、アルジュナは、顕現したクリシュナの姿を見たいと言い出します。

「実に私は万物の生成と帰滅とを、また、あなたの不滅の偉大性を、あなたから詳しく聞いた。蓮弁の眼をした方よ。」(11.2)

「あなたが御自身について語られた通りである。最高の主よ。だが、私は、主の姿を見たいと思う。至高のプルシャよ。」(11.3)

「主よ、もし私が見ることができると考えられるなら、ヨーガの主よ、私に不滅なる御自身を見せて下さい。」(11.4)

あなたに天眼を授けよう。私の神的なヨーガを見よ。

そして、クリシュナは、アルジュナに神的なヴィジョンを見せることになります。

ここらへんの描写は、バクティ・ヨーガ特有のものだと思います。

バクティ・ヨーガの場合、自分に帰依させるために、相手にヴィジョンを見せるということを、よくやるように思えます。

特定の体感覚を、相手に感じさせようとする人もいます。

それゆえに、バクティ・ヨーガと超能力は、切っても切れない関係性になるのでしょう。

「アルジュナよ、見よ。幾百、幾千と、神聖にして多様なる私の姿を。種々の色や形を持つ姿を。」(11.5)

「見よ。アーディティヤ神群、ヴァス神群、ルドラ神群、アシュヴィン双神、マルト神群を。いまだかつて見たことのない、多くの驚異を。」(11.6)

「見よ。今日ここに、私の身体の中に一堂に会している、動不動のものに満ちた全世界を。そして、その他あなたが見たいと望むものを。」(11.7)

「しかしあなたは、その肉眼によっては私を見ることができない。あなたに天眼を授けよう。私の神的なヨーガを見よ。」(11.8)

天眼を授けられたアルジュナは、神的なヴィジョンを見ます。

そして、このように語りはじめます。

「神(クリシュナ)よ、私はあなたの身体のうちに神々を見る。またあらゆる種類の生類の群を見る。蓮華に坐した主である梵天(ブラフマー)を見る。すべての聖仙や神的な蛇たちを見る。」(11.15)

「多くの腕と腹と口と眼を持ち、あらゆる方角に無限の姿を示すあなたを見る。あなたの終わりも中間も始めも認めることができない。全世界の主よ。あらゆる姿を持つ者よ。」(11.16)

「王冠をつけ、棍棒を持ち、円盤を持ち、一切の方角に輝きわたる光輝の塊であるあなたを見る。あまねく燃火や太陽のように輝き、凝視し難い、計り知れぬあなたを見る。」(11.17)

「あなたは不滅のもの、最高の知らるべき対象である。あなたは全世界の最高の拠り所である。あなたは不変であり、永遠の教法(ダルマ)の守護者である。あなたは永遠のプルシャであると私は考える。」(11.18)

「始まり、中間、終わりのない、無限の力を持ち、無限の腕を持ち、月と太陽を眼とし、燃火を口とし、自らの光輝によりこの全世界を熱しているあなたを私は見る。」(11.19)

「天地の間のこの空間は、ただあなた一人によってあまねく満たされている。そして一切の方角も・・・・。偉大な方よ、あなたのこの稀有で恐ろしい姿を見て、三界は戦慄(おのの)いている。」(11.20)

「多くの口と眼、多くの腕と腿(もも)と足、多くの腹を持ち、多くの牙で恐ろしい、あなたの巨大な姿を見て、勇者よ、諸世界は戦慄(おのの)く。そして私も・・・・。」(11.23)

「天空に接し、燃え上がり、多くの色をして、口を開き、燃え上がる大きな眼を持つあなたを見て、私は心から戦慄(おのの)き、堅固(冷静)さと平安を見出だせない。ヴィシュヌよ。」(11.24)

「牙が出て恐ろしいあなたの口、終末の火にも似たその口を見るや、私は方角もわからず、逃げ場も失う。どうか御慈悲を。神々の主よ。世界の住処よ。」(11.25)

「そして、これらドリタラーシトラの息子たち(敵側の親族)はすべて、王たちの群とともに、また、ビーシュマとドローナと御者の子カルナは、わが群の指導者たちとともに、」(11.26)

「急いであなたの口に入る。牙がでて恐ろしい、恐怖をもたらす口に。ある者たちが歯の間にくわえられ、頭を砕かれているのが見える。」(11.27)

「蛾が大急ぎで燃火に入って身を滅ぼすように、諸世界は大急ぎであなたの口に入って滅亡する。」(11.29)

「あなたは全世界をあまねく呑み込みつつ、燃え上がる口で舐めつくす。あなたの恐ろしい光は、その輝きで全世界を満たして熱する。ヴィシュヌよ。」(11.30)

「私に告げて下さい。恐ろしい姿をしたあなたは誰なのか。あなたに敬礼します。最高の神よ。お願いです。本初たるあなたを知りたいと思います。私はあなたの活動の目的を理解していないので。」(11.31)

意外な展開なんじゃないでしょうか?

そして、クリシュナはこう答えます。

「私は世界を滅亡させる強大なるカーラ(時間)である。諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。たといあなたがいないでも、敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう。」(11.32)

「それ故、立ち上がれ。名声を得よ。敵を征服して、繁栄する王国を享受せよ。彼らはまさに私によって、前もって殺されているのだ。あなたは単なる機会(道具)となれ。アルジュナ。」(11.33)

「ドローナ、ビーシュマ、ジャヤッドラタ、カルナ、及びその他の勇士たちは、私により殺されているのだが、あなたは彼らを殺せ。戦慄(おのの)いてはいけない。戦え。戦闘においてあなたは対抗者たちに勝利するであろう。」(11.34)

合掌し、震えながら、戦慄(おのの)きながら、アルジュナは、このクリシュナの言葉を聞きます。

そして、アルジュナは、畏敬の念をもって、語りはじめます。

「あなたは本初の神であり、太古のプルシャであり、全世界の最高の拠り所である。あなたは知るものであり、知らるべき対象であり、最高の住処である。全世界はあなたにより、あまねく満たされている。無限の姿を持つ方よ。」(11.38)

「あなたはヴァーユ(風神)である。ヤマ(閻魔(エンマ))である。アグニ(火天)である。ヴァルナ(水天)である。月である。造物主(プラジャーパティ)である。曾祖父(梵天)である。千回あなたに敬礼、敬礼。更に再び敬礼、敬礼。」(11.39)

「前方から、また後方から敬礼。すべての方角から敬礼。一切者よ。あなたは無限の力と無量の勇猛さを持ち、一切を満たしている。それ故、あなたは一切者である。」(11.40)

「私は友人だと思い、無礼にも言った。「おおクリシュナよ。おおヤーダヴァよ。おお友よ」と。私があなたの偉大さを知らないで、不注意から、また親愛の情から言ったことを、あなたにお詫びする。」(11.41)

「また、散策したり寝たり座ったり食事をしたりする間、あなた一人の時、または他人が見ている時、私がふざけてあなたに行なった非礼を、計り知れぬあなたにお詫びする。不滅の方よ。」(11.42)

一体、どんなふざけたことをしたんでしょうか。。

でも、従兄弟どうしであれば、そんなことがあって当然ですよね。

クリシュナといえど、肉眼によって見るのであれば、普通の、体を持った人間ということです。

クリシュナ自身、「迷える人々は、人間の体をとる私を軽んずる。」と言っています。

アルジュナは続けます。

「未曾有のものを見て、私は喜んでいる。しかし、私の心は恐怖に戦慄(おのの)く。そこで神よ、私に前と同じ姿を示して下さい。お願いです。神々の主よ。世界の住処よ。」(11.45)

そして、クリシュナは、元の人間としての姿にもどります。

というよりも、アルジュナが見た、神的なヴィジョンが消えたと言ったほうがいいかもしれません。

そして、クリシュナはこう語ります。

「あなたが見たこの私の姿は、非常に見られ難いものだ。神々ですら、この姿を常に見たいと望んでいる。」(11.52)

これは、ちょっと皮肉めいた言葉です。

というのも、神々は、見る側の存在ではなく、常に、見られる側の存在だからです。

「ヴェーダ、苦行、布施、祭祀によっても、あなたが見たような私を見ることはできない。」(11.53)

「しかし、ひたむきな信愛(バクティ)により、このような私を真に知り、見て、私に入ることができる。アルジュナよ。」(11.54)

「私に入る」という表現については、後ほど、説明します。

「私のための行為をし、私に専念し、私を信愛し、執着を離れ、すべてのものに対して敵意ない人は、まさに私に至る。アルジュナよ。」(11.55)

不滅で非顕現なものを念想する人々。

アルジュナの好奇心は、まだ続きます。

この、バガヴァッド・ギーターが制作されたのは、紀元前500年頃から200年頃と言われています。

結構、幅がありますね。

ブッダによって起こった、仏教の成立時期と近いです。

なので、もちろん、バガヴァッド・ギーターも、仏教の影響を受けています。

というよりも、このバガヴァッド・ギーターは、当時、勢いのあった、仏教に対抗するために制作されたという側面があるといわれています。

当然、アルジュナも、仏教の存在を知っているはずです。

なので、クリシュナに、こう問います。

「このように常にあなたに専心し、あなたを念想する信者(バクタ)たちと、不滅で非顕現なものを念想する人々とでは、どちらが最もヨーガを知る者であるか。」(12.1)

不滅で非顕現なものを念想する人々というのは、仏教徒のことです。

それに対して、クリシュナはこう答えます。

「私に心を注ぎ、私に常に専心して念想する、最高の信仰を抱いた人々は、「最高に専心した者」であると、私は考える。」(12.2)

「ただし、不滅で、説明され得ず、非顕現で、いたる所にあり、不可思議で、揺るぎなく、不動であり、堅固なものを念想する人々、」(12.3)

「感官の群を制御して、一切に対して平等に考え、万物の幸福を喜ぶ人々も、他ならぬ私に達する。」(12.4)

「だが、非顕現なものに専心した人々の労苦はより多大である。というのは、非顕現な帰結は、肉体を有する人々によっては到達され難いから。」(12.5)

確かに、クリシュナのような人物が、目の前にいたのだとすれば、クリシュナに帰依したほうが、労苦は少ないと言えると思います。

でも、実際のところは、クリシュナのような人物を探すことには、非常な労苦がともなうはずです。

クリシュナのような人物を見つけて、親しくなることができる人は、どれだけいるでしょうか?

その点、不滅で、非顕現なものは、常にここに在ります。

時代や、周りの人物に、左右されることのないものです。

なので、どちらのほうが労苦が大きいかどうかは、一概には言えないかもしれません。

アルジュナよ、あなたは一意専心してこれを聞いたか?

そして、ヴィジョンによって、帰依心が強固なものとなった、アルジュナに対し、クリシュナは、知識のヨーガの、最高の帰結を語ります。

「地上においても天の神々においても、プラクリティ(根本原質)より生じた三要素から解放された生類はいない。」(18.40)

「勇猛、威光、堅固(沈着)、敏腕、戦闘において退かぬこと、布施、君主の資質。以上は本性より生ずるクシャトリヤ(士族)の行為である。」(18.43)

「生まれつきの行為は、たとい欠陥があっても、捨てるべきでない。アルジュナよ。実に、すべての企ては欠陥に覆われているのだ。火が煙に覆われるように。」(18.48)

「何ものにも執着しない知性を持ち、自己を克服し、願望を離れた人は、放擲(ほうてき)により、行為の超越の、最高の成就に達する。」(18.49)

「成就に達した者が、どのようにしてブラフマンに達するか、私はそれをごく簡潔に説くから聞け。アルジュナ。これが知識の最高の帰結である。」(18.50)

「清浄な知性をそなえ、堅固さにより自己(アートマン)を制御し、音声などの感官の対象を捨て、また愛憎を捨て、」(18.51)

「人里離れた場所に住み、節食し、言葉と身体と心を制御し、常に瞑想のヨーガに専念し、離欲を拠り所にし、」(18.52)

「我執、暴力、尊大さ、欲望、怒り、所有を捨て、「私のもの」という思いなく、寂静に達した人は、ブラフマンと一体化することができる。」(18.53)

「ブラフマンと一体になり、その自己(アートマン)が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。彼は万物に対し平等であり、私への最高の信愛を得る。」(18.54)

「信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。」(18.55)

「彼は私に入る」という表現は、分別が無くなるということです。それまでは、クリシュナは崇拝対象というか、至高の特別な存在です。でも、ブラフマンと一体となると、その分別が無くなります。クリシュナや、アルジュナという個人は存在せず、ブラフマンだけが実在することを理解します。バクティ・ヨーガの行き着く先は、ジニャーナ・ヨーガ(不二一元論)と同じです。

「私に帰依する人は、常に一切の行為をなしつつも、私の恩寵により、永遠で不変の境地に達する。」(18.56)

「心によりすべての行為を私のうちに放擲(ほうてき)し、私に専念して、知性のヨーガに依存し、常に私に心を向ける者であれ。」(18.57)

「あなたが我執により、「私は戦わない」と考えても、あなたのその決意は空しい。武人の本性があなたを駆り立てるであろう。」(18.59)

「アルジュナよ、あなたは本性から生ずる自己の行為に縛られている。あなたが迷妄の故に、その行為を行おうと望まないでも、否応なくそれを行うであろう。」(18.60)

「主は万物の心の中にある。その幻力により万物を、からくりに乗せられたもののように回転させつつ。」(18.61)

「私に心を向け、私を信愛せよ。私を供養し、私を礼拝せよ。あなたはまさに私に至るであろう。私は必ずそうなると約束する。あなたは私にとって愛しいから。」(18.65)

「アルジュナよ、あなたは一意専心してこれを聞いたか。あなたの、無知から生じた迷いは消え失せたか。」(18.72)

アルジュナは、こう答えます。

「迷いはなくなった。不滅の方よ。あなたの恩寵により、私は自分を取りもどした。疑惑は去り、私は立ち上がった。あなたの言う通りにしよう。」(18.73)

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