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悟りと真理について

意志として、思考のように振る舞う

以前、「「意志」と「意識」の違いとは?」という記事を書いたことがあります。

僕は、その中で、「自由意志を持ちながらも、思考として立ち振る舞う必要がある」というようなことを書きました。

これ、イメージできるでしょうか?

なかなか、イメージすることが難しいという方もいるかもしれません。

そこで、今回は、そのことについて、もっと具体的にお話してみようと思います。

体と心は勝手に動くもの?

真理の探求をしていると、「私は体ではない」「私は心ではない」「私は存在しない」「行為者という感覚なく、行為しなさい」とか、様々な言葉に触れることになります。

なので、当然、探求者としては、それらの言葉を意識するようになるんじゃないかと思います。

そこで、僕は、試してみたことがあります。

僕は、1日30分から1時間ほどの散歩を習慣にしているのですが、その散歩の途中、「体が勝手に動くのであれば、これから、この道をまっすぐ歩くのか、それとも、そこの曲がり角を曲がるのかという判断も、勝手に起こるに違いない」と思い、どうなるのかを意志として観察したことがあります。

で、どうなったのかというと、なんの判断も起こりませんでした。

「結局のところ、意志としての自分が、それを判断しているんじゃん!」という観察結果になりました。

これは是非、この記事を読んでいるあなたにも確認してみてもらいたいなと思います。

瞑想をしていると、思考が勝手に湧き上がったり、呼吸は勝手に起こっているということを確認することができます。

確かに、体や心は、勝手に動いているようです。

でも、日常生活の中では、そうは思えないことも多くあります。

意志として判断しなければ、体は勝手に動かないし、しゃべることもないというシチュエーションも、数多くあるんじゃないでしょうか?

人によっては、そのことを、「体や心が勝手に動かないということは、まだまだ修行が足りないということなんじゃないか」とか思うかもしれません。

僕も、そう思ったことがあります。

でも、そうじゃないんです。

すべての問題点は、意志とは何かを勘違いしていることにあるんです。

意志が無ければ、日常生活を送れない?

多くの人は、「意志が無ければ、日常生活を送れなくなる」と思っているんじゃないでしょうか?

それは正しいです。

意志が無ければ、日常生活は送れません。

僕は、「意志として黙る」という言葉を良く使うのですが、それは、意志として黙っていれば、いずれ、意志が消滅するというわけじゃないんです。

意志は消滅しません。

意志は、有ったり、無かったりします。

ただ、「私は意志である」という思い込みが消えるだけなんです。

そして、その思い込みが消えるなら、意志とは、単なる思考であるということが、明白になるはずです。

自分のことを意志だと思っているうちは、「意志としての自分が判断しないと、動いたり考えたりできなくなる」と思うんじゃないでしょうか?

もちろん、それでいいんです。

「体や心が、勝手に動いているとは思えない」と思うかもしれません。

それでいいんです。

分離感を感じるかもしれませんが、それでいいんです。

ただ、意志として活動する必要がない時には、意志として黙っていればいいんです。

そうすることで、「私とは何か?」というアイデンティティが、意志から沈黙(意識)へとシフトしていき、ハートへとシフトしていきます。

意志として、何かしらの希望や理想を握りしめるかぎりは、そういったシフトは起こらないのではないかと思います。

黙っている時間が確保できませんから。

真理の探求においても、シンプルに、人は、その状態であるものに成るのだと思います。

思考していることが多いなら、思考。

意志として活動していることが多いなら、意志。

黙っていることが多いなら、沈黙。

ハートに在ることが多いなら、ハートです。

僕は、今も、1日30分から1時間ほどの散歩を習慣にしています。

もちろん、散歩道には、様々な分岐点があって、日によって通るルートが違うこともあります。

どういう風にルートを決めているのかといえば、もちろん、「自分の意志で決めてるよ」ということになります。

その点において、多くの人と変わりはありません。

でも、意志は、現れては消えていくものであり、機能性です。

僕は、それを観照するものであり、存在の根源です。

なので、それを、「私は行為していない」と表現することもできます。