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心理学 悟りと真理について

「愛」の反対は「無関心」か?

「愛」の反対は「無関心」と言われることがあります。

一般的には、マザー・テレサの言葉だと言われているんじゃないかと思います。(どうやら違うようですが)

この言葉、人の心を「ハッ」とさせる力を持っているんじゃないでしょうか。

情緒に訴えかける力を持っているというか、「確かにそうかもしれない。。」と思わせるものを持っています。

でも、本当にそうなんでしょうか?

というわけで、今回は、「愛」の反対は本当に「無関心」なのかというお話をしようと思います。

むしろ、すべてに関心を持つことは可能か?

例えば、難民キャンプを例に取り上げて「「愛」の反対は「無関心」です」と謳うことは、とても効果的だと思います。

実際のところ、この言葉は、そういったイメージとセットで使われることが多いんじゃないかと思います。

それは、人の情緒に訴えかけるし、「確かにそうかも。。」と思わせやすいのではないかと思います。

でも、それは、そういった特定のイメージの中でだけ、成り立つものなんじゃないでしょうか?

イメージの中の、難民に関心を持つことは簡単です。

関心を持つべき対象が限定されているからです。

例えば、難民キャンプの中の、小さな子どもの写真があれば、関心を持つべきイメージも明確です。

でも、日常生活の中で、すべてのものに関心を持つことは可能でしょうか?

そもそも、人は、知らないものには関心を持つことができません。

例えば、近所で、親に虐待を受けている子どもがいるとします。

でも、その事実を知らなければ、関心の持ちようがありませんよね。

世界中のすべての出来事が、テレビなどのメディアで報道されるわけじゃありません。

むしろ、メディアで報道されるのは、ごく一部分であり、報道される内容だってコントロールされています。

災害が起こった時などは、特定の一部地域だけが取り上げられて報道されることもあります。

そういった地域は、多くの人の関心を集めるかもしれません。

支援の手もあるかもしれません。

でも、その影で、報道されず、誰にも関心を持たれず、孤立する被災地だってあるかもしれません。

そういった被災地に、関心を向けることが出来ない人は、愛の無い人なんでしょうか?

人は、できるだけ多くの出来事に対して、関心を持つべく努力するべきなんでしょうか?

すべてのメディアに目を通し、実際に世界中を歩き回り、困っている人がいないか、探索し続けるべきなんでしょうか?

実際のところ、そんなことは不可能ですよね。

限定的にしか関心が持てないなら、その愛も限定的なのか?

人は、すべてのものに関心を持つことはできません。

どう頑張っても、限定的にしか、関心を持つことができません。

極端なことを言えば、宇宙の果てで、とても困っている宇宙人がいたとしても、そのことに関心を持つことは不可能です。

その事実を知ることができません。

そして、そこに救助に向かう技術も、現代には無いんじゃないでしょうか。

であるなら、もし、「愛」の反対が「無関心」なのだとすれば、すべての人の愛は、どこかしら限定的ということになるんじゃないでしょうか?

実際のところ、この認識は、多くの人の実感に合っているんじゃないかと思います。

愛とは限定的なものだと感じてはいないでしょうか?

どこかしら、足りていないと感じてはいないでしょうか?

愛を受け取るために、他者から関心を向けて欲しいと感じてはいないでしょうか?

この欲求がエスカレートすると、人と人の間で、争いが起こったりもします。

例えば、兄弟で、親の関心を奪い合ったりとか。

大人になると、もっと複雑な、関心の奪い合いが行われたりします。

それは、政治や、ビジネスの世界でも、同じなんじゃないかと思います。

他者から関心を集めるために、権力を求めたり、お金を求める人も、少なくないんじゃないかと思います。

場合によっては、それは、戦争の原因になることもあるかもしれません。

「愛」というのは、そんなものなんでしょうか?

「愛」というのは、奪い合うものなんでしょうか?

「愛」の反対が「無関心」なのであれば、「愛」とは「関心」ということになり、それは、限定されたものであり、奪い合うものになってしまうんじゃないでしょうか。

「愛」の反対は、愛の源への「無関心」です。

「愛」とはそういうものではないと思います。

実のところ、「愛」の反対は、愛の源への「無関心」なんじゃないかと、僕は思います。

愛というのは、どこで感じられるでしょうか?

感情を感じる部分で感じますよね。

であるなら、そこは、「愛の源」なんじゃないでしょうか?

でも、多くの人は、「他者から関心を向けてもらうことで、感情を感じる部分で、愛を感じるんだよ」って思うかもしれません。

他者を「愛の源」だと認識しているかもしれません。

確かに、そうだと言うこともできます。

でも、あなた自身は、「愛の源」に関心を向けないんでしょうか?

他者に、関心を向けてもらうのではなく、あなた自身が、「愛の源」に関心を向けることもできるはずです。

実のところ、あなたが、自身の「愛の源」に関心を向けることでも、愛を感じることができます。

そして、それは限定的じゃありません。

奪い合う必要がありません。

そして、それは持続します。

ただ、多くの人は、あまりにも、他者に関心を向けることに、他者に関心を向けてもらうことに慣れすぎてしまっているため、そのことを忘れているんです。

もし、「私は他者に愛を与えることができる」と思うのなら、「私は他者に愛してもらいたい」という人が集まってくるでしょう。

でも、そのすべての人に関心を向け続けることはできないと思います。

人が、関心を持てる対象は限定的です。

そういった関係性は、早かれ遅かれ破綻してしまいます。

そして、行き過ぎた関心は、愛どころか、執着や憎悪を生み出すことも多々あるんじゃないでしょうか。

愛そのものは、限定的なものじゃありません。

すべてに行き渡っています。

でも、他者と関わる中で、人は、それを限定的なものにしてしまいます。

「愛」の反対は、愛の源への「無関心」です。

あなたの愛の源は、どこにあるでしょうか?

ちなみに、マザー・テレサというと、地球上でも、もっとも他者に愛を与えた人物の1人と考えられるんじゃないかと思います。

ただ、当のマザー・テレサ本人は、神との分離感に苛まれていたという記録があります。

詳しくは、こちらの記事「覚者と聖者はどう違う?」でも触れているので、気になる人はチェックしてみてください。