今回は、Aさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。Aさん、ありがとうございます。
Aさんからの質問
山家さん、お久しぶりです。Aです。
最後のメールから1年2カ月経ってたんですね。
この間の私の変化としては、感情に飲み込まれることがなくなったと言うか、同化することがなくなったと言うか
例を挙げると、以前お店でお会計をしている時、財布の中の小銭を床に全部落としてしまったことがあり、後ろに何人もお客さんが並んでいたので、早くその場から立ち去りたいくらい恥ずかしかったのですが、いつも(数年前)ならその日1日は自己嫌悪に陥ってしまうところなんですが、その日はお店の外に出た瞬間、その出来事が他人事のように感じられ、その後全く引きずることなく、1日を終えました。
また別の例ですが、私は○○に住んでいるので、街中に結構変わった人を見かけることがあり、秘密のケンミンSHOWに出てくるようなテレビで使える人ならまだいいのですが、本当に理不尽な難癖をつけて絡んでくるおっさんとかもいて、昔なら言い返したりしてたと思うのですが、去年そういうおっさんに絡まれたとき、おっさんの言動が全く心に響かず、ただおっさんが絡んでいる映像を見ているだけのような感覚で、その場は無視して立ち去りました。
こんな感じで、嫌な感情が起きてもすぐ消えたり、そもそもそういう負の感情が起きにくくなっているように思います。
話は変わりまして、山家さんにお聞きしたいことが2つあり、
1つ目は、「言葉の暴力」についてです。
SNSが発達した世の中で、他人に対して好き放題言う人、それによって傷つき、最悪自殺してしまう人もいます。
ただ私が思うに、「物理的な暴力」は誰だって痛いと思うのですが、「言葉の暴力」は受け手次第でどうにでもなるというか、受け手が「暴力」にしてしまっているように思います。セクハラやパワハラなどの○○ハラスメントも、一見、相手によってハラスメントと思うか思わないかが決まるように思われがちですが(イケメンが言えばセーフ、ブサイクが言えばアウトみたいな)、そう判断している自分自身に目を向けるべきなんじゃないかと。
世間の風潮としては、好き放題言う側を規制、法改正などに焦点を当てがちですが、私からしたら、規制したって言う人は言うしな、キリが無いよなと。それよりも、「言葉の暴力」にしてしまっている自分自身について向き合う方が大事なのではと思っているのですが、真我実現された山家さんの視点ではどのようなお考えなのかなと思いまして、質問させていただきました。
2つ目は、高所恐怖症や閉所恐怖症、対人恐怖症など、いろんな○○恐怖症がありますが、その多くが、死への恐怖に結びついていると思うのですが、真我実現するとその恐怖症はなくなると思いますか?
今日の山家さんの【『空白JPアーカイブ2022+』の特別記事は「死の恐怖は、どう克服されるのか?」】のツイートを見て、ふと気になりました。ちなみに私は少し高所恐怖症があるくらいで、日常生活には全く支障はありません。
余談ですが、山家さんは『苦しみや退屈を避けないこと』といつもおっしゃっているので、去年のNetflixのCMで、「退屈は犯罪です」というのを見て、自我の厄介さをあらためて感じました。
回答
Aさん、こんにちは。お久しぶりです。
> こんな感じで、嫌な感情が起きてもすぐ消えたり、そもそもそういう負の感情が起きにくくなっているように思います。
それはいい感じですね。観察者としてのAさんがいい仕事をしているのだと思います。
観照者と観察者の微妙な違いというのは、観察者がいい仕事をしているときに気づかれることが多いのではないかと思います。
その調子でいい仕事をしていれば、意志と意識の違いが識別(ヴィヴェーカ)されることが起こるかもしれません。
(関連記事:識別する力(ヴィヴェーカ)の重要性【鏡の中は空間か?】)
僕の場合には、最初にハートの理解があって、その次に意志と意識の識別がありましたが、Aさんの場合は順序が逆になるかもしれませんね。
> それよりも、「言葉の暴力」にしてしまっている自分自身について向き合う方が大事なのではと思っているのですが、真我実現された山家さんの視点ではどのようなお考えなのかなと思いまして、質問させていただきました。
これはAさんが言うように、「自分自身について向き合う方が大事」で終わりです(笑)。とはいえ、それはAさんと僕の意見なのであって、その言葉を暴力的だと感じる人もいるかもしれません。
何をもって暴力というのかは人それぞれなのであって、その判断は難しいです。僕は空白JPやTwitterで好き勝手に色々と書いているのですが、場合によってはそれも暴力的に感じる人もいるかもしれません。批判的な記事も少なくないですし。不愉快に感じた人に通報されて、Twitterのアカウントが停止になる可能性だってゼロではないかもしれません。
もちろん、意図的に他人を傷つけることを目的にSNSを利用する人もいるかもしれません。意外と多いんでしょうか? なので、そういった人には規制や罰則があったほうがいいのかもしれませんが、それだって権力的な暴力と言うこともできます。コロナ禍や戦争といった最近の状況下では、そういった権力的な暴力が、言論の自由を阻害しているという側面もあります。
そう考えると、どこまで行っても何かしらの暴力はつきまといます。なので、どこかの時点で、「暴力はあってはならない」という考え方の方が、手放されることになるかもしれません。
> 2つ目は、高所恐怖症や閉所恐怖症、対人恐怖症など、いろんな○○恐怖症がありますが、その多くが、死への恐怖に結びついていると思うのですが、真我実現するとその恐怖症はなくなると思いますか?
これは無くならないと思います。真我実現しても、表面的には何も変わりません。例えば、僕はホラー映画が苦手で、ホラー映画の予告とか入ったときには目を閉じてしまうことがあります。それは今も昔も変わりません。
また、僕には対人恐怖症の傾向もありますが、それは今の方が昔よりも強くなっているかもしれません。対人恐怖症といっても、なにかしらの目的があれば、僕は積極的に人に会いに行く傾向もあります。探求を始めた当初は、苦手なりにもいくつかの場所に足を運んだりもしましたし。でも、今は目的を失ってしまっているので、積極的には人に会いません。目的なく人と会うのは、今も昔も苦手です。
ただ、そのことを気にする人がいなくなってしまいます。死の恐怖を感じるのはその人なんです。なぜ気にするのかといえば、その人は、この人生の責任を負っていると感じているからなんです。「自分がこの人生の成り行きをコントロールしなければいけない」と感じてるんですね。なので、なにかしらの恐怖を感じるなら、それを克服しようとしたりします。自分を良く観察して、その原因をつきとめて、改善すれば克服できるんじゃないかと思ったりします。
それが観察者なんです。意志とも言えます。意志にとっては、この世界は問題だらけなので、いつまでたっても仕事は終わりません。それは、上手く行ったり上手く行かなかったりしますが、そうこうしているうちに死はやってきます。一方、観照者はそのことを気にしていないんです。気づいてはいるけど、気にしてません。
気にするというのは動的な働きであって、気づくというのは静的な働きです。観照者のことを「在る」というのは、そこに動的な働きが含まれてないからです。それでも自分に動的な働きがあるように感じられるのは、観察者が観照者によって観照されているからです。このことに気づくことが、真理の探求におけるターニングポイントになるのではないかと思います。
バガヴァッド・ギーターにはこう書かれてます。
生まれつきの行為は、たとい欠陥があっても、捨てるべきでない。アルジュナよ。実に、すべての企ては欠陥に覆われているのだ。火が煙に覆われるように。
なので、なにかを克服する必要性というのは必ずしもないんです。死の恐怖というのは、気にする人の実在性が失われることによって結果的に克服されるようなものなんです。
> 余談ですが、山家さんは『苦しみや退屈を避けないこと』といつもおっしゃっているので、去年のNetflixのCMで、「退屈は犯罪です」というのを見て、自我の厄介さをあらためて感じました。
このCM見ましたか〜(笑) 僕もどこかで見かけて、「世間的にはそうだよな〜」とか、ちょっと反応してしまいました。
(関連記事:他人とのコミュニケーション、自分とのコミュニケーション)