今回は、ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジの違いについてお話したいと思います。空白JPではどちらもよく取り上げているのですが、その違いについて改めて触れたことはありませんでした。
ともすればニサルガダッタ・マハラジはラマナ・マハルシの弟子であるかのように思われている節もありますが、実際のところは違うようです。両者は1度対面したことはあるようですが、ニサルガダッタ・マハラジが師事したのはシッダラメシュワル・マハラジという人のようです。
ラマナ・マハルシは智慧の道、ニサルガダッタ・マハラジは帰依の道
ラマナ・マハルシと言えば「私は誰か?」という言葉が有名で、ニサルガダッタ・マハラジと言えば「私は在る」という言葉が有名です。
ただ、この言葉だけだと、その違いがいまいち分かりにくいかもしれません。なので、別の表現を使ってみます。
ラマナ・マハルシは〝智慧の道〟の人であり、ニサルガダッタ・マハラジは〝帰依の道〟の人です。智慧の道はジニャーナと呼ばれ、帰依の道はバクティと呼ばれています。
つまりは、ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジは、通ってきた道が実は真逆になります。「私は誰か?」の答えが「私は在る」とも言え、両者は同じような道を通ってきたのではないかと思うかもしれませんが、探求の過程自体は、特に初期の段階では結構違うんです。
ともすれば、ラマナ・マハルシは探求をすることなく真我実現してしまったのではないかとも思われるかもしれません。16歳の時に、親族の葬儀の時に、死んだ状態をシミュレーションしてみただけで真我実現したと言われています(関連記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】)。なので、ラマナ・マハルシはどちらの道でもないのではないかとも思えるのですが、ラマナ・マハルシには、アルナーチャラ山に着いてからの沈黙の数年間があります。
その間、ラマナ・マハルシはずっと寺院の地下に坐っていたのかというと、そうでもないようで、アルナーチャラ内の施設を点在し、古典などの本を読んでいたりしたそうです。探求が終わってから古典を読むというのは順番が逆のようにも感じるかもしれませんが、僕から見ると、その期間がラマナ・マハルシにとっての智慧の道だったのではないかとも思います。
実際のところ、ラマナ・マハルシは対話の中で古典から言葉を引用することも少なくありません。その智慧はどこから得られたのかと言えば、沈黙の期間に読んでいた古典からなんです(ラマナアシュラムができてからは、アシュラム内に図書室があったようですが)。
一方、ニサルガダッタ・マハラジはと言えば、師であるシッダラメシュワル・マハラジに「私は在るという感覚に留まりなさい」と言われ、それを忠実に守ることによって約3年後に真我実現に至ったと言われています。
ニサルガダッタ・マハラジは基本的には古典を引用したりすることはほとんどありません。世間的に有名な言葉などは知っていたようですが、ラマナ・マハルシのような古典の知識はなかったようです。それは対話からもうかがい知ることができるかと思います。
智慧の道からすると、「「私は誰か?」と知的に問うのは分かるけど、「私は在る」ってどういうことなのか?」と思うでしょう。まさしく、それはとても感覚的なことだからです。でも、帰依の道の場合、対面での感覚的なやりとりも重要視されるのでしょう。そのようにして、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」という感覚を、智慧を介することなく、感得していたのかもしれません。
智慧の道は、ハートへの帰依に繋がる
でも、結局のところ、ラマナ・マハルシの智慧の道はハートへの〝帰依〟に繋がります。智慧の道と帰依の道は、どちらも同じところに繋がるんです。ラマナ・マハルシの場合、「私は誰か?」という言葉も有名ですが、それと同等かそれ以上に、「ハート」という言葉を重要視するイメージもあるんじゃないでしょうか?
「私は誰か?」という問いの答えがハートです。非常にシンプルなのですが、ハートとは何かを感じられない人にとっては、何がなんだかよく分かりません。なので、「私は誰か?」という問いは、様々に、複雑に派生していく傾向があるような気がしています。
ラマナ・マハルシ自身は、対話の中でこのように答えています。
問:私とは誰でしょうか?
答:七つの要素から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である、音、感触、色、味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが、私はそれらではない。五つの生気、すなわちプラーナなどは、吸気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心でさえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働きもない無知も、私ではない。
問:もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?
答:今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定していったあとに、ただひとつ残る覚醒、それが私である。
「私は誰か?」という考察の終着点は、「私は誰か?」と問うその人を「これではない」と否定することです。「それだと答えが得られないではないか!」と思う人もいるかもしれませんが、それがラマナ・マハルシが意図することであり、智慧の道が、ハートへの帰依にシフトしていくポイントでもあります。
ただ、自我は非常に巧妙であり、「私は誰か?」と問う本人に対しては「これではない」と否定しない傾向があります。そんなことをすれば、「私は誰か?」と問うこともできなくなるからです。それでいいのですが、巧妙な自我は、「「私は誰か?」と問う私と、「これではない」と言う私は別の私なのだろうか?」と第三の視点を作り出し、そちらに飛び移ります。
なので、ここではちょっとしたシフトが必要です。例えば、物理的な音の発生源を探す時には、聴覚に意識を集中させますよね。音の発生源を特定するのは、思考ではなく、聴覚だからです。
それと同じようなことが、「私は誰か?」と問う時にも言えて、「私は誰か?」という思考に気がつくのは、問う人ではなく、意識です。
なので、問うことにではなく、それを聞くことに少し意識をシフトしてみてください。「思考と意識は一体なのでは?」と思うかもしれませんが、まさしくそこが錯覚のポイントです。実際のところは、思考は刹那的な言語的機能性なのであり、私であって私ではありません。
じゃあ、私は誰か?
それは意識(霊的な目と耳)であり、観照者であり、ただひとつ残る覚醒です。そこに、「私は在る」という感覚の根源があります。
帰依の道は、智慧の発現に繋がる
そして、ニサルガダッタ・マハラジの帰依の道は、〝智慧〟の発現に繋がります。古典というのは、必ずしも読まなければいけないものでもありません。なぜなら、形而上学的な説明というのは、自身の経験からでも導きだせるものだからです。
何しろ、世界で初めて真我実現した人にとっては、古典などというものは無いわけです。つまりは、「世界は実在しない」などの世界の空性というのは、自身の経験から論理的に導きだせるものであり、ニサルガダッタ・マハラジはそれをしている印象です。
ニサルガダッタ・マハラジが論理的というと意外に思う人もいるかもしれませんが、僕から見ると、ニサルガダッタ・マハラジの方が、ラマナ・マハルシよりも形而上学的な説明が構造的に感じられます。きちんと構造を理解して話しているような印象です。
ニサルガダッタ・マハラジは、師であるシッダラメシュワル・マハラジの「私は在るという感覚に留まりなさい」という言葉に帰依して真我実現に至ったわけで、ニサルガダッタ・マハラジが語る概念的な内容も、ニサルガダッタ・マハラジ自身が信じているものであるかのように思うかもしれませんが、実はそうではないんです。例えばこうです。
私が偽りなく言えることは、「私は在る」だけだ。それ以外はすべて推測だ。しかし、推測が習慣になってしまったのだ。考えることと見ることといった、あらゆる習慣を打ち破りなさい。「私は在る」という感覚が顕現の根本的な原因だ。それを自己、神、実在、あるいは他の名で呼んでもいい。「私は在る」は世界の中にある。しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。水面に踊る月は、水の中に見られる。だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。(中略)理解すべき主要な点は、あなたがあなた自身の上に欲望と恐れの記憶をもととした、想像の世界を投影したということだ。そして、その中にあなた自身を監禁したのだ。その魔法を解いて自由になりなさい。
「私は在る」ということ以外はすべて推測だと言っています。実際にそういうことが言えるのは、自身の経験を元に、それらの関係性を構造的に考えてみたことがあるからです。古典では〝幻想〟という言葉が使われることが多いですが、ここではニサルガダッタ・マハラジは〝推測〟という言葉を使っています。幻想という言葉は信じることを求め、推測という言葉は疑うことを求めます。
私は在ることと、ハートの感覚は違うのか?
ちなみに、「私は在る」ということと「ハート」はどう違うのかという質問を頂くことがあります。同じようなものだと思う人も多いかもしれませんが、実は結構な違いがあるかもしれません。
というのも、「私は在る」という感覚の中には、苦しみや退屈といった感覚も含まれるからです。それは例えるならば、マヨネーズを食べる時に、黄身だけを避けて食べることはできないことと似ています。マヨネーズというのは、黄身と酢と油が乳化することでできています。一体化しています。
私は在るという感覚も、あらゆる感情と一体化したものだと考えると分かりやすいかもしれません。ただ、私は在るという感覚の場合、ずっと一体化しているわけじゃなくて、あらゆる感情は一時的なものなので、段々と分離していきます。
そして、最終的には純粋な、私は在るという感覚に至ります。それだけは一時的なものではなく、持続します。それがハートの感覚です。でも、そのことにはすぐに気がつけるわけではありません。ハートの感覚だって、一時的なものなのではないかという疑いは続くんです。そしてまた、生きている限りは、あらゆる感情が起こっては消えていきます。なので、ハートの感覚に至れば、そのあとずっと100%その感覚が不変的に持続するようになるというものでもないんです(95%ぐらいは持続すると思いますが)。
なので、「私は在る」=ハートの感覚だと認識していると、ピンポイントでハートの感覚を探そうとしてしまうかもしれませんが、そうではなく、目の前の感情、私は在るという感覚を、避けずに感じているだけで十分なんです。そしてまた、その感覚を「これではない」と否定する必要もありません。そうではなく、目の前の感覚が消えてしまった後に、「あれではなかった」と確認するだけです。
ラマナ・マハルシの智慧の道と、ニサルガダッタ・マハラジの帰依の道は、「私は在る」という感覚に至るまでの過程に違いがあります。でも、「私は在る」=ハートであるという確信に至るまでの過程は同じ道を辿ります。
どちらが早いかと言われれば、おそらくは帰依の道の方が早いですが、帰依の道の場合には、容易に方向性を間違えてしまう可能性も高く、どちらが良いかというのは一概には言えないかもしれません。
(関連記事:ラマナ・マハルシの教えはどう実践するべきか?【段階別3パターン紹介】)
(関連記事:ニサルガダッタ・マハラジの名言【私は在る、それ以外はすべて推測だ】)

1980年生まれ。死の恐怖の克服、及び真理への渇望から、2014年から探求開始。2019年に探求を終え、空白JPにて探求の過程で自分自身が知りたかったことを書くようになる。2026年から対面での活動も開始。瞑想を終わらせるための瞑想(真我探求)を教えるように。著書に『空白JPアーカイブ』シリーズ。