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真我探求

ニサルガダッタ・マハラジの名言【私は在る、それ以外はすべて推測だ】

今回は、独断と偏見で、ニサルガダッタ・マハラジの名言をピックアップしてみたいと思います。

私が偽りなく言えることは、「私は在る」だけだ。それ以外はすべて推測だ。

『I AM THAT 私は在る』(ナチュラルスピリット刊)の中に登場します。ニサルガダッタ・マハラジといえば、〝幻想〟という言葉を多用するイメージがあります。でも、ここでは、〝幻想〟ではなく、〝推測〟という言葉を使っています。

私は在る、それ以外はすべて推測だ

ニサルガダッタ・マハラジの言葉を引用します。

私が偽りなく言えることは、「私は在る」だけだ。それ以外はすべて推測だ。しかし、推測が習慣になってしまったのだ。考えることと見ることといった、あらゆる習慣を打ち破りなさい。「私は在る」という感覚が顕現の根本的な原因だ。それを自己、神、実在、あるいは他の名で呼んでもいい。「私は在る」は世界の中にある。しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。水面に踊る月は、水の中に見られる。だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。(中略)理解すべき主要な点は、あなたがあなた自身の上に欲望と恐れの記憶をもととした、想像の世界を投影したということだ。そして、その中にあなた自身を監禁したのだ。その魔法を解いて自由になりなさい。

「この世界は幻想だ」という言葉は、考えることを求めません。まるで、その言葉を信じなさいというニュアンスで使われることが少なくないと思います。でも、「この世界は推測だ」と言われるなら、考えざるを得ないんじゃないでしょうか? 推測しているがゆえに、この世界が存在しているかのように見えているというニュアンスになるからです。

一般的な感覚で言えば、この世界が存在しているということは明確なのではないかと思います。そして、自分は、この世界の中に存在している一人の個人だということも明確なのではないかと思います。そこには〝推測〟が入り込む余地は無いようにも思えます。あまりにも明確だからです。でも、ニサルガダッタ・マハラジは「推測が習慣になってしまったのだ」と言います。

人は、無自覚に、推測するということをします。例えば、数字が〝1、2、3、4、5、6、7〟と並んでいるとします。この次にくる数字は何でしょうか? 多くの人は〝8〟と推測するんじゃないかと思います。数字がひとつずつ増えていくという規則が、そこにあるように感じられるからです。でも、何も知らない赤ちゃんは、そんなふうには推測しないのではないかと思います。数字とも文字とも言えない何かを、衝動のままにクレヨンで描き殴るかもしれません。

この世界が存在しているという認識も、そのようにして無自覚に推測されたものだとしたらどうでしょうか? 自分はこの世界の中の一人の個人だという認識も、無自覚に推測されたものだとしたらどうでしょうか? もしそうなのだとすれば、それは自分自身を、この世界という名の〝推測〟に監禁しているようなものかもしれません。であるならば、この〝推測〟という名の魔法を解いてみてもいいんじゃないでしょうか?

あなた自身の想像の中にしか存在しない世界から、自由になる必要はない!

魔法を解くための方法として、ニサルガダッタ・マハラジはこう言います。

思考と行為において、あなたの非依存性を主張しなさい。結局、すべてはあなたが見、聞き、考え、感じることが現実だと確信する、あなた自身の信念にかかっているのだ。なぜあなたの信念を疑わないのか? この世界が意識のスクリーン上に、あなたによって描かれたものだということは疑いないのだ。そして、それは完全にあなたの個人的な世界だ。たとえ世界の中にあろうとも、あなたの「私は在る」という感覚だけが、世界に属さないものだ。どのような理論や想像による努力によっても、「私は在る」を「私はいない」に変えることはできない。あなたの存在を否定すること自体が、あなたの存在を主張している。ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、あなたはそれから自由だ。あなた自身の想像の中にしか存在しない世界から、自由になる必要はない!

人は、この世界が存在していることを確信しています。疑いようがないぐらいに確信しています。でも、それは根拠の無い自信みたいなものなんです。実際のところ、この世界が本当に存在しているのかを確認しようとすると、それは難しいということに気がついてしまいます。哲学者や、科学者など、本格的に世界を調べようとする人ほど、そのことに気がついてしまうのではないかと思います。人は、世界という全体を認識することができないからです。

例えば、今、僕の目の前にはマグカップが置いてあります。それを手に取って、マグカップの全体を360°見回して、その存在を確認することができます。でも、仮に、このマグカップが、宇宙よりも大きくなってしまったらどうなるでしょうか? マグカップの中に、宇宙が浮かんでいるんです。僕は、それをマグカップだと認識することはできるでしょうか? おそらく、無理ですよね。なにしろ、現代の科学は、宇宙の外側を観測することはできていません。「何をバカな想像をしているんだ?」と思うかもしれませんが、世界という全体が存在していると思うことは、それと似たようなものなんです。

人は、世界という存在を確認しようとするとき、無自覚に過去の記憶を参照します。過去にハワイに行ったことがある記憶を参照して、「ハワイは存在している」と認識します。そこには記憶という根拠があり、それはバカな想像とは違うと思うのではないかと思います。確かに、記憶を元にした想像と、バカな想像は違います。人は、それを区別しています。でも、それはどちらも、想像でしかないということには違いありません。

人は、記憶を元にした想像は、現実に相当するものなんだと思う傾向があります。でも、それはどうしようもなく〝推測〟でしかありません。例えば、僕は、目の前のマグカップを見て、同じマグカップを空中に想像してみることができます。それは、記憶を元にした想像です。でも、それは現実に相当するものでしょうか? もし、それが現実に相当するものであれば、僕は、空中のマグカップを手に取ることができるはずです。でも、そのマグカップは想像でしかなく、手に取るなんてことはできません。

多くの人が想像する世界とは、そういうものです。そして、その想像の世界に、感情を揺り動かされます。目の前で悲劇が起こっておらずとも、テレビのニュースで悲劇的な事件を知り、不安な気持ちになったりします。それはフェイクニュースだったりすることもあります。人は、現実とは何かということに、ほとんど関心を持っていません。人が関心を持つのは、〝推測〟された想像の世界です。想像の世界を見て、人は、一喜一憂します。人は、想像の世界を、理想的な世界にしようとします。そうすることによって、自分、はたまた、世界中の人が、自由になることができると思うんです。

でも、ニサルガダッタ・マハラジは、「あなた自身の想像の中にしか存在しない世界から、自由になる必要はない!」と言います。本当の自由とは、それが〝推測〟された世界でしかないと知り、現実とは何かを知ることです。確かな現実とは、「私は在る」ということ以外にはありません。

想像を想像として見なさい。そして恐れから自由になるがいい

ニサルガダッタ・マハラジの言葉を、さらに引用します。

いかにその絵が美しくとも、あるいは醜くとも、それはあなたが描いたものであり、あなたはそれに束縛されないのだ。誰もあなたにそれを押しつけてはいないということを悟りなさい。それは想像を現実と見なす習慣によるものなのだ。想像を想像として見なさい。そして恐れから自由になるがいい。(中略)想像なしに見ること、歪みなしに聞くことを学びなさい。それがすべてだ。本質的に無名無形のものに、名前や形が属すると考えることをやめなさい。あらゆる知覚の形態は主観的なものであり、見たことや聞いたこと、触れたものや匂いをかいだもの、感じたことや思ったこと、期待したことや想像したことは、すべて実在の中ではなく、マインドの中にあるのだと悟りなさい。そうすれば、あなたは平安を体験し、恐れから自由になるだろう。

僕は小さい頃、この宇宙は、もしかしたら、どこか別の宇宙の少年の机の引き出しの中に収まっているんじゃないかという想像を繰り広げたことがあります。僕の机の引き出しの中には、別の宇宙が収まっているのかもしれません。まるで、合わせ鏡みたいな想像ですが、僕は、そういう想像をすることが好きでした。たぶん、ドラえもんの影響です。

なぜ、そんな想像をするのかと言えば、そうすることが楽しかったからです。そうすることで、感情的な高揚感が得られたんです。人は、そのようにして、「私は在る」という現実からさまよいだして、〝推測〟された想像の世界にリアリティを持ち始めます。感情を満たすために、無自覚に、想像の世界にリアリティを与えていくようになります。

もちろん、この世界を楽しめるなら、楽しむのがいいと思います。ただ、人は飽きてしまう生き物です。〝飽きる〟という感覚を知らない人はいないでしょう。飽きてしまったことを楽しむということは、結構、至難の業です。そしてまた、この世界を楽しみたくても、楽しめないという人もいると思います。人には出来ることと、出来ないことがあります。思い通りにならないこの世界に苦しむ人も少なくないと思います。でも、この世界の姿をよく観察してみてください。それは想像なのであって、〝推測〟でしかないんじゃないでしょうか?

(関連記事:ニサルガダッタ・マハラジは「死」について何を語っているのか?

作成者: 山家直生

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