「飽きっぽい」という言葉。
あまり良い意味では使われない言葉だと思います。
でも、飽きっぽい性格をわざわざ直そうとする必要はないと思うんです。
お話します。
なぜ、飽きるのか?
そもそも、
なんで僕たちは「飽きる」という現象を経験するんでしょうか。
けっこう不思議ですよね。
いままでは興味をもって楽しめていたモノやコトに、
ある時、反応できなくなってしまいます。
楽しめなくなってしまうんですね。
飽きてしまうんです。
モノやコトは変わらないのに。
例えば、僕の場合でいえば、
中学生のころにハマっていたウイニングポストという競走馬育成ゲーム。
何日も徹夜するほどにハマりこんでいたのですが、
だんだんと、その熱もさめてきます。
そして、違うゲームをやりはじめてしまうんですね。
例えば、三国志とか。
もう「わかった」と思うから。
なんで、飽きてしまうんでしょうか?
それは、もう「わかった」と思うからなのではないかと思います。
なんとなく、未来が予想できるというか、
パターンがみえてきてしまったとか、
漠然と、もう楽しめないだろうなとか、
「わかった」というのはかなり曖昧な言葉なのですが、
そういう、もう「わかった」という状態になってしまうと、
もう楽しめなくなってしまうのではないでしょうか。
飽きてしまうということですね。
「わかった」のレベルを上げていくことは可能。
でも、「わかった」という状態は、
人によってかなり大きな違いがあると思います。
例えば、料理。
レシピ通りに料理を作れるようになれることを「わかった」と感じる人と、
レシピ通りに料理を作れるようになった上で、
自分で新たなレシピを作り出せるようになることを「わかった」と感じる人もいると思います。
どちらも、その人にとっては「わかった」状態です。
そこで料理に飽きてしまう可能性もあります。
でも、客観的にみると、この2人には大きな違いがありますよね。
「わかった」のレベルが違うんです。
同じことを続けられる人は「わかった」のレベルを上げていける人。
「私は飽きっぽいのよ」って言う人っていますよね。
でも、はたから見ていると、
その人は同じことを続けているように見えることがあります。
「飽きっぽいって言ってるけど、同じことを続けてるな〜」って思うわけです。
でも、その人にとっては、
同じことが同じじゃないんですね。
僕たちとは「わかった」のレベルが違うんです。
例えば、さっき料理を例にだしました。
レシピ通りに料理を作れるようになった上で、
さらに、自分でも新たなレシピを作れるようになった人。
この人が、料理に飽きるかどうかは、
「わかった」のレベルがどうなるかにかかっています。
「もう、十分。わかった。」と思うのであれば、
おそらくそこで料理に飽きてしまうでしょう。
でも、「今度は使う食材についてもっと深掘りしたいな〜」って思う人もいると思います。
そうすると「わかった」のレベルが引き上げられます。
そして、わかるようになるまで、
さらに料理にのめり込みます。
性格を直すよりも、意識的になる。
すべての人は飽きっぽい性格の持ち主だと思います。
すべてのモノゴトに飽きずにいられる人なんていないと思います。
だって、人には知性がそなわっていますからね。
いずれ、モノゴトのパターンに気づいて飽きてしまいます。
だからこそ、飽きっぽい性格を直す必要なんてないんです。
だって、すべての人が飽きっぽいんですから。
違うのは「わかった」と感じるレベルです。
そのレベルを決めるのは、性格ではなくて、
意識なんじゃないかと思うんです。
どれだけ意識的にそのモノゴトに取り組んでいるか。
それが「わかった」のレベルを左右するのではないかと。
そして、結果的に、
飽きずに同じことが続けられる人と言われる可能性がでてくるのではないかと。
関連記事:意識的になることと、もぐらたたき。
まとめ
というわけで、
飽きっぽい性格は直す必要がないというお話をしました。
そもそも、飽きっぽい性格を直すことなんて不可能だと思います。
おそらく、人間にそなわった基本的な能力のひとつだと思います。
飽きっぽさって。
外の世界に飽きることができるからこそ、
人は自分の内側へと入っていくことができるようになります。
そして、空白の状態を体験することになります。
でも、仕事をするうえでは、
飽きっぽさはデメリットにもなりえます。
そんなときは、性格を直そうとするのではなく、
意識的になることをオススメします。
意識的に「わかった」のレベルを変えていくということですね。
関連記事:「空白」とは?