今回は、感情は、脳の「内的表現」なのかということについて考察していきたいと思います。ChatGPTによれば、感情は脳が作り出しているもののようです。その答えを一部引用します。
感情は脳によって作り出されると一般的に考えられています。脳は情報処理の中心であり、感情は脳の特定の領域や神経回路の活動と関連しています。(中略) 総じて言えば、感情は脳の神経活動と情報処理によって作り出されると考えられていますが、感情の生成には個人の経験や環境といった要素も重要な役割を果たしています。
いくつかの角度から、ChatGPTに感情について質問してみましたが、総じて、ChatGPTは唯物論者です。感情が非物質的に独立した存在である可能性については否定しています。きっと、唯物論者の研究データがChatGPTにはパラメータ入力されているんでしょう。でも、本当にそうなんでしょうか?
映画の映像は、ブルーレイディスクの「内的表現」か?
人は、「感情は脳が作り出した内的表現である」と言われると、なんとなく納得してしまいます。なんとなく、そんな気もするからです。感情には、「内的表現」という言葉がピッタリとあてはまります。
例えば、優秀な外科医がどれだけ精密に心臓を切り開いても、感情を発見することができないのは、それが脳の内的表現だからかもしれません。現代においては、MRI(Magnetic Resonance Imaging)を使って、人の人体をまるで輪切りにしたような画像を得ることができますが、それでも、その画像には感情は映し出されません。MRIを使って感情について分かることは、どうやら、感情の変化に応じて、脳内の神経回路も変化しているということです。唯物論者が、「感情は脳が作り出した内的表現である」という根拠はそこにあるんでしょう。
でも、「内的表現」とは一体何なんでしょうか? デジタルが発達した現代においては、内的表現という意味が、直感的に理解しやすくなっているのではないかと思います。例えば、テレビのディスプレイに映し出される映画の映像は、ブルーレイディスクに記録されたデジタルデータの内的表現でしょう。最近では、例えば、プライムビデオとか、Netflixなどの、オンラインストリーミングで映画を観ることが多いかもしれませんが、その場合でも、映画の映像は、クラウドサーバーに記録されたデジタルデータの内的表現でしょう。
デジタルデータ以外でも、例えば、哲学者のヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の中で内的表現についてこう語っています。
レコード盤、楽曲の思考、楽譜、音波、これらはすべて互いに、言語と世界の間に成立する内的な写像関係にある。(4・014)
ヴィトゲンシュタインは1889年生まれで、レコードプレーヤーが登場したのが1877年です。当時は、ビニールの円盤に、音が記録されているということは、信じがたいことだったんじゃないかと思います。それは、「内的表現」の元祖と言ってもいいのかもしれません。レコード盤には、楽譜を元に演奏された楽曲がアナログデータとして記録されていて、レコードプレーヤーを通して、それを音波という内的表現として聴くことができます。
「内的表現」であれ、それは物質的です
デジタルデータであれ、アナログデータであれ、それは内的表現として、この世界の中に現れることができます。なので、感情だって、脳の内的表現として、この世界の中に現れていると考えることもできます。
でも、見落としてはいけないのは、内的表現であれ、それは〝物質的である〟ということです。テレビのディスプレイに表示される映画の映像は、人の肉眼でも観ることができます。ドットの集合体で構成されている映像は、物質的だからです。レコードプレーヤーだってそうですよね。レコードプレーヤーから聴こえる音は、レコード盤の内的表現でしょうが、それは音波という物質(波動)的な性質を持つため、人の耳でも聴くことができます。内的表現というのは、物質的なんです。もし、そうでなければ、人は、内的表現を認識することすらできないでしょう。
なので、感情が脳の「内的表現」であるなら、それは物質的であるべきだとも考えられるんじゃないかと思います。実際のところ、感情は最小物質であるフォトンやニュートリノなどの素粒子でできていると考える人もいるかもしれません。MRIやレントゲンでも認識できないほどに、感情を構成する物質(波動)が小さいのだと考えると、感情を画像として認識することができないということも納得できるかもしれません。
でも、もし、感情が素粒子で構成されているのだとすれば、脳というのは、素粒子を作り出したり、コントロールしているということにもなるんじゃないかと思います。そんなことは可能なんでしょうか? 例えば、人為的に素粒子をコントロールできるかどうかをChatGPTに質問するとこう答えます。
現在の科学技術の範囲内では、人為的に素粒子を完全にコントロールすることはできません。素粒子は非常に微小な粒子であり、量子力学的な性質を持つため、その振る舞いや相互作用は非常に複雑です。ただし、高エネルギー物理学の分野では、加速器や衝突実験によって素粒子の振る舞いを研究し、制御する試みが行われています。
粒子と粒子を超高速高エネルギー状態で衝突させて、それがバラバラになった状態の中から、素粒子を探し出すということをしていたりするようです。その素粒子を、脳が自由自在に作り出せたりコントロールできるということは考えにくいのではないかと思います。
なので、多くの科学者は、感情が素粒子でできているとは考えてはいないのではないかと思います。感情は脳の内的表現であろうけど、デジタルデータやアナログデータの内的表現とは違って、それは物質的な性質は持たないと考えられているのではないかと思います。
この物質的な世界も、脳にとっては「内的表現」です
感情は物質的な性質を持たないと考えることは、なんとなく納得できるようなところもあります。感情というのは、ちょっと特別なような気もするからです。
でも、実のところ、脳にとっての内的表現というのは感情だけじゃありません。脳にとっては、この物質的な世界そのものが内的表現です。
例えば、人は眼球を通して、この物質的な世界を認識するわけなんですが、脳と眼球を切り離してしまえば、人は視覚という内的表現を失います。人は、この世界を自分の外側にあると認識したりするのですが、実際のところは、それは脳にとっての内的表現なんです。
それは例えるならば、ガンダムのコクピットの中にいる状態に似ているかもしれません。ハッチを閉めてしまえば、コクピットの中は合金に覆われた状態です。そこにガラス窓なんてありません。なので、外部環境を認識するためには、外部カメラに映し出される映像を、コクピットの内側に投影するということをする必要があります。それは実際の外部ではなく、間接的な内部的映像なのですが、パイロットはそれを外側だと認識してガンダムを動かすわけです。
なので、あなたが今読んでいるこの文字も、直感的には理解し難いかもしれませんが、それは脳の内的表現なんです。それは、物質的でしょうか? それとも、感情と同じく、非物質的でしょうか? 視覚的に読めるということは、それは物質的なのではないかと思います。
脳の内部表現と言えども、基本的には、それは物質的な整合性を持ちます。例えば、指が何かに触れると、そこに触覚を感じるのは、脳と指が神経細胞によって繋がれているからでしょう。もし、その神経細胞が取り除かれたのなら、触覚は感じなくなるんじゃないかと思います。寝ている間に、腕が身体に圧迫されて、痺れてしまった経験がある人はわかるかと思いますが、そこに触覚という内的表現がなければ、自分の腕であっても、それは自分の腕ではないように感じられたりもします。その物質的な関係性は、視覚や触覚に限らずに、聴覚、臭覚、味覚においても同じだと思います。脳の内的表現は、脳と神経細胞の物質的な繋がりと連動しています。
にも関わらず、感情だけは、内的表現であっても、脳との物質的な繋がりがありません。そこに物質的な繋がりがなければ、脳は、その感覚を感じることはないはずなのですが(他人の5感覚を感じることができないように)、なぜだか感情だけは、その感覚を感じることができます。
感情だけ、この世界において物質的な特性を持たないのはなぜなのか?
脳の内部表現だからこそ、感情は非物質的なのだと考えることはなんとなく理解できます。でも、実際のところは、脳の内部表現であれ、この5感覚(によって認識されるこの世界)には物質的な整合性があります。そう考えると、やはり、感情だけが特別のようです。
それは一体なぜなんでしょうか? 脳は、意図的に、感情だけを非物質的な存在として内部表現しているんでしょうか? もちろん、そう考えることもできると思います。でも、実のところ、不思議に思うべきは、「なぜ、感情だけが非物質的なのか?」というところではなくて、見落とされがちな矛盾、「なぜ、脳が物質的な性質をもって、この世界の中に存在しているのか?」というところかもしれません。
というのも、内部表現される対象の中に、その主体が実体を持って現れるということはないからです。例えば、映画の映像の中に、ブルーレイディスクが実体を持って現れることはないですよね。映像としてのブルーレイディスクが表示されることはあるかもしれませんが、それは実体を持っているわけではないですよね。それと同じように、レコード盤が、その内的表現である音の中に物質的に現れるということはないわけです。なので、この世界が脳の内的表現なのであるならば、脳は〝この世界の中に実体を持って現れるということはないはず〟なんです。でも、実際のところ、脳は、この世界の中に現れています。
それが何を意味するのかといえば、内的表現という概念そのものが、論理的に間違っている可能性と、実は、脳は、この内的表現の世界の主体では無いという可能性です。
この世界は脳の内的表現だと言うとき、どうしても避けられないのが、「この身体の外に世界が実在しているからこそ、この世界が、脳の内的表現として現れているんじゃないか?」という疑問です。この疑問は、哲学的に、「鶏が先か? 卵が先か?」的な堂々巡りに陥ります。結論はでません。確認しようがないからです。なので、「この世界が脳の内的表現であっても、この脳が、この世界の中に存在しているということも例外としてあるのではないか?」とも考えられます。
でもここで、その堂々巡りを解消するために、次元を上げてみたいと思います。例えば、この世界を忠実に再現したバーチャルリアリティのデータが、1つのHDDに保存されているとします。人は、そのバーチャルリアリティを体感したいと思うとき、どうすればいいでしょうか? この世界と同じように、脳の中にいるかのようにして、そのバーチャルリアリティを体感するのがいいでしょう。もし、技術的にそういったことが可能な場合、そのバーチャルリアリティの世界は、脳の内的表現でしょうか? それとも、HDDの内的表現でしょうか? もちろん、HDDの内的表現ですよね。そして、HDDは、そのバーチャルリアリティの世界の中には存在しません。無限に感じられるバーチャルリアリティの世界は、実は、有限なHDDの中にあります。
この推測と、感情が非物質的であるということは、ある可能性を導き出すんじゃないでしょうか? それは、脳ではなく、感情(もしくは、感情を作り出している根源)が、この世界の主体であるという可能性です。感情とHDDを置き換えて考えるだけです。もちろん、「それは想像にすぎない」とか、「非科学的だ」と思う人もいると思います。でも、こう考えることは、「なぜ、感情だけが非物質的なのか?」という疑問と、「なぜ、脳が物質的な性質をもって、この世界の中に存在しているのか?」という疑問を、両方とも解決してしまいます。
現代は科学全盛なので、科学的に探求していける宇宙という方向性に真理の探求が向きがちです。もちろん、それは素晴らしいことだと思います。僕は、宇宙の科学的な話が結構好きです。でも、いずれ、科学的に、非科学的な方向性にも、真理の探求が向くときもやってくるのかもしれません。
最後に、哲学者であるヴィトゲンシュタインのこの言葉を引用して終わりにしたいと思います。
いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるとでもいうのだろうか。その永遠の生もまた、現在の生と何ひとつ変わらず謎に満ちたものではないのか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の〝外〟にある。(6・4312)