先日、うちの妻から、「忙しく働きながらさ、ハートにとどまるってこともできるんじゃないの?」と質問されました。その時は、「う〜ん、それは不可能を目指すようなものかな〜」と答えたのですが、人によっては、そういったことも可能なのかもしれません。なにしろ、『ラーマーヤナ』には、王として激務をこなしながらも、覚者であったジャナカ王のエピソードもあります(まあ、それは架空の物語ですが)。そこで、今回は、忙しく働きながらも、ハートにとどまることは可能なのかということについて、少し考察してみたいと思います。
子どもが、ハートの感覚を忘れていってしまうのはなぜか?
ハートにとどまっている状態から、ハートからさまよい出してしまうことについては、子どもの成長を例にして考えると、理解しやすいんじゃないかと思います。まだ、自我が芽生えたばかりの子どもというのは、当たり前のようにハートの感覚を感じているはずなんです(ここに異論がある人もいるかもしれませんが)。まだ、ほとんど知識も経験もない子どもというのは、自分で自分を束縛するということはしません。もうほとんど、自然発生的に起こる感情に従っているだけのようなところがあるんじゃないかと思います。「あ〜しなきゃいけない」とか、「こ〜しなきゃいけない」とか考えていないんです。感情が起こるがままにまかせてますし、身の回りの環境になされるがままです。
でも、ある程度、知識も経験もつくと、選り好みがでてきます。例えば、キャッチボールが好きな少年であれば、親に、キャッチボールの相手をせがむかもしれません。でも、「今忙しいから他の何かしてて」とか言われて放っておかれると、拗ねてしまうかもしれません。その少年は、キャッチボールをすると楽しいということを経験していて、その楽しさに魅了されているんです。なので、他の何かじゃだめで、キャッチボールじゃなきゃいけないんです。執着の発生です。ハートの感覚も、まだ忘れてはいないはずですが、それじゃだめなんです。刺激が足りないんです。
ハートの感覚というのは、ともすれば、あらゆる感情を凌駕する素晴らしい感覚なのだと勘違いされることもあるのですが、実際のところはそうではないんです。ハートの感覚の特徴は、その持続性と、根拠の無さです。子どもにとっては、ハートの感覚というのは当たり前の感覚なのであって、キャッチボールをすることで得られる楽しい感情の方が、ずっと新鮮で魅力的に感じられるんです。子どもが、ハートの感覚を忘れていく理由というのは、絶対的な存在であるはずのハートも、この世界においては、相対的な感情の一部であるかのように感じられるからです。
この後、子どもがどうやってハートの感覚を忘れていくのかというのは、想像がつくんじゃないかと思います。子どもにとっては、様々なものが新鮮です。もちろん、どういう反応をするのかは子どもによると思います。なんとなく、ハートにとどまることを好んでいるんだろうなと感じられる子どももいれば、新鮮な刺激に夢中な子どももいると思います。でも、遅かれ早かれ、ほぼすべての子どもは、ハートの感覚を忘れていってしまいます。そして、相対的なこの世界においては、ハートの感覚というのは、むしろ、退屈であるかのように感じられるようになるかもしれません。
忙しく働く刺激に、依存してしまわないなら可能かも
忙しく働くということも、ある意味では刺激です。なので、子どもが、ハートの感覚を忘れていくのと同じような構図が起こりやすいんじゃないかと思います。もし、忙しく働くということが、高揚感として感じられるのだとしたら、そして、その感覚が、一日の大半を占めているのだとすれば、忙しく働くことに依存してしまうことは避けられないのではないかと思います。ハートにとどまるということは、根性論ではないんです。「ハートにとどまるということを忘れずにいれば、忘れずにいられるはず」というような、意志の力でどうにかなるものではなくて、どれだけ当たり前であるかのように感じているかがものを言います。
なので、例えば、イーロン・マスク(テスラ)やジェフ・ベゾス(アマゾン)のような経営者の身近で働くなら、ハートにとどまることは至難の技なんじゃないかと思います。そこでは、仕事にすべての労力が投入されることが求められるはずです。言ってみれば、そこではワーカホリック(仕事中毒)になることが求められ、忙しく働くことに、大きな魅力が感じられるような仕組みが構築されているのではないかと思います。なので、むしろ、ハートにとどまっていてはいけないんです。むしろ、欲望に忠実な人の方が、求められるのではないかと思います。
もちろん、そこまで極端でなくとも、忙しく働くということに、感情的な高揚感を求めるという場合、仕事に依存してしまうということはあるかもしれません。例えば、優秀な方に多いように思いますが、土日休みが苦手という人がいます。何をしていいのか分からないというか、退屈というか、仕事をしていたいんだと思います。そこまでいけば、もう立派なワーカホリックでしょう。ハートの感覚は、すっかり忘れてしまっているのではないかと思います。
もちろん、仕事には楽しい側面と苦しい側面があり、トータルで考えると苦しい場合も多いと思います。特に、資本主義の末期の現代では、「それって本当に必要なの?」というようなブルシットジョブ(クソどうでもいい仕事)も少なくなかったりして、やりがいという意味でも、仕事をすることが苦しいと感じる人も少なくないのではないかと思います(とはいえ、仕事をしないと生活が成り立たないというジレンマもそこに加わります)。
でも、ハートにとどまるという観点からすれば、障害になりやすいのは、圧倒的にワーカホリックになってしまうことです。というのも、もし、仕事が苦しく感じるのであれば、極端な話をすれば、仕事を辞めてしまえばいいわけです。それだけで、解放感を感じさえするかもしれません。もし、現代の日本において、ブッダの存命中にあった、祇園精舎のような出家する場所があるのなら、喜んで仕事を辞めて出家するという人はどれだけいるでしょうか? でも、ワーカホリックになってしまうと、仕事を辞めたって、解放感は感じないかもしれません。むしろ、高揚感を感じる手段を失ってしまったかのように感じるんじゃないかと思います。そして、さらに刺激の強い仕事を求めるようになるかもしれません。苦しみは依存として残らず、高揚感は依存として残りやすいです。
ハートはコントロールできるものではない
というわけで、忙しく働きながら、ハートにとどまることはできるのかということを考察してみました。「忙しく」働くのではなく、ほどほどに働くのがいいのではないかと思います。
とはいえ、こういった考察自体、自我視点での考察です。言ってみれば、「自我の都合でハートをコントロールすることはできないかな?」という前提にもとづいたものであって、ハートにとどまっていることが当たり前になると、こういった考え方はしなくなります。
ハート視点であれば、ハートにとどまっているということが当たり前なのであって、その状態を保つということに、自我の方が従事することになります。なので、もし、忙しく働くということが、ハートの感覚を覆い隠すように感じるのであれば、忙しく働くことを辞めるだろうし、忙しく働くことが、ハートの感覚を覆い隠さないようであれば、そのまま忙しく働きます。言ってみれば、自我は、その時々のハートの感覚に従うだけなのであって、「こういう場合には、ハートはこうなる」というような確かなことは言えないんです。
もちろん、それは高揚感に従うということと似たような構図なのですが、高揚感に従う場合には、それは持続的ではなく、それゆえに、そのエネルギーは転じて自身への束縛として残りがちです。一方、ハートに従う場合には、それは持続的で、高揚感を求める衝動からも解放されたものになります。
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