僕はたまに思うんです。
僕たちは生きながらにして輪廻転生しているのではないかと。
同じ体に輪廻転生しているだけなんじゃないかと。
お話します。
輪廻転生はどうして起きる?
輪廻転生にはいろんな考え方があります。
そもそも、輪廻転生なんてないという人もいるでしょう。
なので、ここでは、
僕は輪廻転生に対してこう思っているということをお話します。
合っているとか間違っているとかはないです。
ご了承ください。
さて、僕が思う、輪廻転生が起きる理由。
それは「退屈」にあるのではないかと思います。
僕たちは、死ぬと体を失いますよね。
それは客観的にみても確実に言えるかと思います。
でも、心はどうでしょうか?
心も死んでしまうんでしょうか?
こればかりは確実に言うことができません。
でも、僕は心は生き残るんじゃないかと思っています。
体が死ぬと、脳も失われます。
なので、心でモノを考えたり、イメージしたりすることはできなくなります。
でも、感情は残るのではないかと思うんです。
僕は、心と感情は同じものなんじゃないかと思うんです。
だって、なにか楽しいことを考えると、
感情がそれにともないますよね。
逆に、苦しい感情を抱えているとき、
頭の中でも苦しいことを考えています。
感情の、思考やイメージとしての側面が、心なのではないかと。
で、死んでも感情は生き残るのだとしたらどうなるでしょうか?
死とは究極の退屈?
感情はつねに刺激をもとめます。
だいたいは楽しいことをもとめますが、
楽しむのが難しい場合、苦しさをもとめることもあります。
退屈でいるよりも、苦しさを感じているほうがいいんですね。
そのほうが、自分の存在を感じられるからだと思います。
感情がもっとも恐れるのは無感情なんじゃないでしょうか。
それは退屈によってもたらされてしまいます。
で、死というのは究極の退屈だと思うんです。
だからこそ、死はこんなにも恐れられるのではないかと。
だって、考えたりイメージしたりするための脳が失われてしまいます。
感情は退屈の中を半永久的にすごさなければいけなくなります。
体を失ってしまって、感情が退屈に耐えられなくなったとき。
どうなると思いますか?
そう。考えたりイメージしたりするための、
新しい体をもとめはじめるのではないかと思うんです。
そして、輪廻転生するのではないかと。
退屈しのぎのために心は輪廻転生を繰り返すのではないか?
これが、僕の考える輪廻転生の仕組みです。
人によっては、体を失っても、
幽体離脱のような感じで、
視覚と聴覚は残るのではないかと考える人もいると思います。
僕も、死後の世界をそういうふうにイメージすることがあります。
でも、寝ている間のことを考えると、
そういう可能性は低いのではないかと思います。
寝ている間は、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚が機能していません。
体の生命維持のために、働いてはいるのでしょうが、
それを自覚はしていません。
死後の世界も、それに近いものがあるのではないかと思うんです。
そして、寝ているとき、感情はどうなっているでしょうか?
寝ているときは、感情は消えているでしょうか?
これについては、人それぞれ感じ方が違うと思うのですが、
僕は、寝ているときもなんとなく感情はあるような気がしているんです。
ぐっすりと睡眠したときの心地よさを感情は体験しているのではないかと思うんです。
寝ている間は自覚できませんが、
起きてから思い出すと、なんとなく心地よかったことを思い出します。
でも、ずっと寝続けられる人っていませんよね。
ずっと寝ていたいと思う人もほとんどいないはずです。
だって、退屈ですから。
つまりは、僕たちは生きながらにして
輪廻転生しているのではないでしょうか?
違うのは、すでに体がそこにあるということだけなのではないかと。
心が退屈を楽しめるようになったなら。
でも、心が退屈を楽しめるようになったとしたらどうでしょうか?
ほとんどの人は退屈を避けようとしますが、
人によっては退屈の中に平安を感じる人もいます。
退屈が退屈ではない人ですね。
「そんな人いるの?」と思うかもしれませんが、
そういう人はいます。
そいういう人は、起きているときも、
寝ているときのような状態で毎日を過ごしている人が多いと思います。
どういうことかというと、
起きている間も心があまり活動していない状態ということです。
あれやこれや、退屈を避けるためになにかをしようとは思わないということですね。
退屈は避けるべきものではなくて、
むしろ、楽しむものだと感じているということです。
そういう、場合、輪廻転生はどうなるんでしょうか?
生きながら輪廻転生が終わることもある?
退屈を楽しめる心の持ち主が死んだ場合、
体はもちろん失ってしまいます。
でも心はどうなるでしょうか?
死とは究極の退屈です。
でも、その退屈を楽しめる心なんです。
そういう場合、退屈しのぎのために、
新しい体をもとめて輪廻転生しようと思うでしょうか?
もちろん、退屈を楽しめる度合いもあるかと思います。
かなり長いあいだ、究極の退屈を楽しむことができるけれど、
どこかの時点で飽きて、輪廻転生したくなるかもしれません。
でも、輪廻転生したいと思う頻度は、
退屈を避けようとする心よりも圧倒的に低いのではないかなと思います。
そして、それは生きている間にも言えるのではないでしょうか。
仏教では、もう輪廻転生しないことを、
解脱と言ったりしますが、
それはおそらく、生きているうちに自分で自覚できることなんだと思います。
だって、自分が退屈を避けようとしているのか、
楽しめるのか、はたまた、楽しむという感情すら消えているのかは、
自覚できると思うからです。
つまりは、生きながらにして輪廻転生が終わることもあるんだと思います。
まとめ
というわけで、
僕たちは生きながらにして輪廻転生しているのではないかというお話をしました。
「そんなバカな!」と思う人もいると思います。
「なかなかユニークな考え方だなあ」と思う人もいるかと思います。
それは人それぞれです。
でもやっぱり僕は思います。
輪廻転生には「退屈」が大いに関係しているのではないかと。