非二元論では「自由意志は無い」と言われることがあると思います。
確かにその通りなのですが、多くの人は、自由意志を感じながら生きているのではないかと思います。
「自由意志が無いのだとすれば、有るように感じられている、この自由意志は何?」って思うんじゃないかと思います。
そう思うのは当然です。
自由意志が有ると思っているのに、自由意志は無いと思い込もうとすることは、自分を欺くことです。
それがエスカレートすると、自由意志として有りながら「私は存在しない」と言い始めることになります。
(関連記事:「私は存在しない」という言葉によくある勘違い)
「自由意志は無い」という言葉は、それを信じさせるためにあるわけじゃないんです。
自由意志には、「実体」は無いというだけなんです。
自由意志は有ったり無かったりするもの
自由意志というのは、有ったり無かったりします。
自由意志というのは、常にここに有るわけじゃありません。
そしてまた、常にここに無いわけでもありません。
そもそも、自由意志とは一体何なんでしょうか?
意志とは、何かせずにはいられないエネルギーみたいなものです。
自由意志とは、エネルギーを向ける対象を自分で自由に選ぶことができるという感覚です。
例えば、自由意志があるからこそ、人は、インドに旅行に行こうすることができると思うかもしれません。
数ある選択肢の中から、インドに旅行することを選択できるのは、自由意志があるからだと思うかもしれません。
確かにその通りです。
でも、その自由意志は常にここに有るでしょうか?
人は、常に「インドに旅行に行きたい」という自由意志を抱えているんでしょうか?
そんなことはないですよね。
そしてまた、今、この瞬間、何かしらの自由意志がここに有るでしょうか?
「今、この記事を読もうという自由意志がここにある」と思うかもしれません。
でも、その自由意志は、このブログを読んでいる間だけのものなんじゃないかと思います。
このブログを去れば、その自由意志は無くなるんじゃないかと思います。
「自由意志」と「存在しているという感覚」は違うものです
多くの人は、自由意志とは何かを勘違いしているのではないかと思います。
実のところ、自由意志とは単なる思考やイメージのことです。
意志をコントロールできるように感じられる感覚というのは、自由意志そのものじゃありません。
それは、自由意志ではなく、「存在しているという感覚」です。
その感覚を、「私は在る」と呼んでもいいかもしれません。
(関連記事:「私は在る」という感覚をインスタントに悟る方法)
この「存在しているという感覚」が有るからこそ、人は、意志を自由にコントロールできるように感じられ、自由意志が有るように感じるんです。
多くの人は、「自由意志」と「存在しているという感覚」をセットであるかのように感じているはずです。
その区別はついてないんじゃないかと思います。
だからこそ、このブログを去ったとしても、自由意志は継続するんじゃないかと感じられるんじゃないかと思います。
実際のところは、継続するのは「存在しているという感覚」です。
自由意志は単なる思考やイメージです。
それは、有ったり無かったりします。
だからこそ、非二元論では「自由意志は無い」と言います。
自由意志という実体は無いのであり、それは、「存在しているという感覚」が有るが故に現れる、一時的な思考やイメージということなんです。
生きている限り、自由意志という二元性は避けられません
生きている限り、「存在しているという感覚」は継続し続けます。
それ故に、自由意志は有ったり無かったりを繰り返します。
それは、生きている限りは二元性を避けることはできないということでもあります。
非二元論では、一元的であることにこだわったり、目指したりするかもしれませんが、それは不可能です。
本当に一元的でありたいなら、熟睡中や死後に「ここに二元性は無い」と言えばいいんです。
でも、そんなことは成り立ちませんよね。
大事なのは、自由意志が無い状態を確認することです
大事なことは、自由意志が無い状態を確認することです。
自由意志は有ったり無かったりすると言いましたが、本当にそうなのか確認することが重要です。
ただ、これは言葉で言うのは簡単なのですが、いざ、確認してみようと思うと結構難しいです。
というのも、多くの人にとっては、「自由意志」と「存在しているという感覚」の区別が無いからです。
例えば、誰かに驚かされたならば、「うわっ!」とか勝手に言葉は出てくると思います。
それを、自分の自由意志ではないと言うことは簡単です。
でも、自分の意志で出していると思える言葉もありますよね。
「自由意志が無いってどういうことなのか?」という言葉は、自分の自由意志で出している感覚があると思います。
でも、実際のところは、それは勘違いなんです。
勝手に出てきている言葉を、自由意志であると勘違いしているだけです。
試しに、1分間ぐらい黙っていてみようとしてみてください。
おそらく、1分間黙っていられる人はほとんど居ないと思います。
なにかしらの言葉が出てくるはずです。
それは、自由意志でしょうか?
なかなか判断が難しいんじゃないかと思います。
少なくとも、反射的に出てくる言葉じゃないけど、勝手に出てくる言葉であり、でも、そこには自由意志の感覚もあるように感じるかもしれません。
「自由意志」と「存在しているという感覚」の区別がついていないんです。
実際のところ、「自由意志」という実体は無く、それは単なる思考であり言葉です。
ただ、その背景に「存在しているという感覚」が有るので、その単なる思考や言葉が「自由意志」のように感じられるだけなんです。
この関係性を自覚することが、本当の意味で「自由意志は無い」ということを理解することです。
そして、それを自覚するための方法はとてもシンプルで、自由意志が無い状態(存在しているという感覚)にとどまることを習慣にすることです。
(関連記事:非二元論を超えて【アドヴァイタ・ノンデュアリティ】)