探求の世界では、「カルマ」という言葉がちょくちょくとでてくると思います。
仏教では「業(ごう)」と呼ばれたりもしますね。
この「カルマ」という言葉。
浄化という言葉とセットで使われることが多いんじゃないでしょうか?
「カルマを浄化しなければならない」とかですね。
でも、カルマを浄化しているつもりが、カルマを積んでしまっている人は多いんじゃないかと思います。
カルマって、一体、どんなものなんでしょうか?
カルマとは行動せずにはいられないエネルギーのこと。
カルマというのは、ものすごく簡単に言えば、行動せずにはいられないエネルギーのことです。
感情的なエネルギーです。
あなたには、何か、やらずにはいられないことがあるでしょうか?
もし、あるなら、それはカルマと言えます。
特定のモノゴトに、ワクワクするというのも、カルマと言えると思います。
誰しもが、特定のモノゴトに興味を示したり、反対に、無関心だったりします。
人それぞれ、興味を示すものって違いますよね。
どうしても関心が持てないモノゴトだってあると思います。
それは、前世から引き継いできたカルマだったり、生活環境によって積み上げてきたカルマが影響しています。
ここで、こう思う人がいるかもしれません。
「ワクワクすることをすることは、カルマとは違うんじゃないの?」って。
カルマを善と悪に分けて考える場合、そう思うかもしれません。
確かに、仏教でもヴェーダでも、カルマを善と悪に分けていたりします。
善い行動は、善い結果を生み、悪い行動は、悪い結果を生むと言われていたりします。
なので、ワクワクする、善い行為は、カルマであって、カルマではないと思うかもしれません。
むしろ、「善いカルマは、積むべきなんじゃない?」って思うかもしれません。
でも、それが善いカルマだって、どうやって知ることができるんでしょうか?
例えば、災害時に、無計画にボランティアとして現地に飛ぶと、かえって迷惑になることがありますよね。
本来は、被災者に渡るはずだった、寝床や食事を、奪ってしまうことがあります。
良かれと思ってした行動が、反対に、迷惑になったりします。
こういうことって、結構ありますよね?
これって、善いカルマだったんでしょうか?
それとも、悪いカルマだったんでしょうか?
もし、行動したことで、あなたや、周りの人が苦しむことになるのであれば、それは悪いカルマだったんじゃないでしょうか?
カルマを善と悪に分けることの問題点は、それが善なのか悪なのかを、判断することができないことです。
新しい目標を握りしめた時、カルマは増えます。
もちろん、人は、それを善いカルマだと思いながら、行動します。
極端なことを言えば、テロリストだって、それを善いカルマだと思いながら行動するでしょう。
悪から、自分や仲間や祖国を守るための、善の行動だと思うでしょう。
もちろん、そうやって、洗脳されていくのかもしれません。
でも、それはテロリストじゃなくても同じです。
今、この社会は資本主義になっていますが、経済を守ることは善でしょうか?
おそらく、多くの人が、資本主義に洗脳されているはずです。
経済を守ることで、犠牲になっているものは、どれだけあるでしょうか?
はたまた、ヴェーダ聖典で描かれるような、神々を信奉する人もいると思います。
そういった、神々の声を守ることは、善でしょうか?
神々の王と言われるインドラは、創造主プラジャーパティから、アートマンの本質は「無我」であるということを教えられます。
でも、その答えに納得せずに、「私はそのようなものに価値を認めない」と言い放ちます。
であるなら、神々の声を守るならば、アートマンの本質を理解することはできないでしょう。
一体、何が善で、何が悪なんでしょうか?
そういったものは、ただ単に、視点の違いでしかありません。
ある視点からは、善に見えても、もう一方の視点からは、悪に見えたりします。
なので、カルマに善と悪の概念を持ち込むのは、ナンセンスとも言えるんです。
もし、「善いカルマは、むしろ、積むべきなんじゃない?」と思うのであれば、カルマはどんどんと積み上がっていきます。
善いカルマを積むために、どんどんと、新しい目標を握りしめていきます。
その結果、どうなるのかは想像できるんじゃないでしょうか?
善いカルマだと自分で思っていても、行動の結果がどうなるのかは誰にも分かりません。
善い結果になることもあれば、悪い結果になることもあると思います。
場合によっては、善い結果ばかりになるかもしれません。
でも、場合によっては、悪い結果ばかりになる可能性もあります。
その時に、あなたは、苦しまずにいられるでしょうか?
良かれと思ってした行動を、非難されたらどうでしょうか?
その結果、相手に不利益を与えてしまったらどうでしょうか?
もし、善と悪の区別がそこにないのであれば、苦しむことはないと思います。
でも、そもそも、善と悪の区別がないのであれば、「善いカルマは、むしろ、積むべきなんじゃない?」とは思わないはずです。
そう考えると、善いカルマを積むということは、苦しみを増やしていくということと、ほぼ、イコールなんじゃないでしょうか?
モノゴトに飽きた時、カルマは消えます。
とはいえ、人は、カルマを積まずにはいられません。
この世においては、カルマを積むことが、人の仕事みたいなところがあります。
カルマを浄化するという名目の元、カルマをどんどんと積んでいきます。
カルマが浄化される時って、どんな時なんでしょうか?
人によっては、それは、霊的なものと考えるかもしれません。
ヒーリングされることによって、カルマが浄化されると思うかもしれません。
浄化という言葉は、結構、便利な言葉で、いろんなことに使えます。
「体に良いものを食べて、浄化される」
「パワースポットに行って、浄化される」
「スピリチュアルな話を聞くことで、浄化される」
でも、それって本当に浄化されているんでしょうか?
一体、何が浄化されたんでしょうか?
むしろ、パワースポットや、食べ物への執着が生み出されてしまうんじゃないでしょうか?
言ってみれば、カルマを積んではいないでしょうか?
実は、カルマが浄化されたかどうかの判断は、とても簡単です。
モノゴトに「飽きて」しまったなら、カルマが浄化されています。
例えば、今まで苦しんできた、過去の嫌な記憶を思い出しても、なにも感じなくなった時、カルマが浄化されています。
平たく言えば、飽きてしまったんです。
苦しむことにです。
カルマの浄化というのは、こういった、淡々としたものです。
実のところ、特に何もする必要はありません。
本来の自分であるアートマンが、浄化の性質を持ち合わせているからです。
人は、そのアートマンの性質を、「パワースポット」や「食べ物」や、その他のいろいろな対象物に投影します。
でも、その対象物が、あなたのカルマを浄化してくれるわけじゃないんです。
あくまでも、あなたを浄化してくれるのは、アートマンです。
一番、浄化が進むのは、あなたがアートマンとしてとどまっている時です。
「無我」の状態にとどまっている時です。
目の前の世界がどういう状況なのかは、体と心が致命的な影響を受けていない限りは、あまり関係がないんです。
浄化が進むごとに、人は、いろんなモノゴトに飽きやすくなっていきます。
パワースポット巡りにも飽きてしまうでしょう。
食べ物にこだわることにも飽きてしまうでしょう。
スピリチュアルな話にも飽きてしまうでしょう。
それは、良い意味でです。
そして、やがて、カルマが無くなる時がやってきます。
カルマがゼロになる時には、おそらく、自覚があります。
未来に対する欲望がゼロになるからです。
「こうなったらいいな」というのが無くなります。
先行きがまったく分からなくなります。
にも関わらず、そこには不安はなく、満たされた感覚があります。
まあ、もちろん、生きている限りは、カルマは微増減を繰り返します。
感情的なエネルギーが無くなるわけじゃありません。
でも、ベースはゼロになります。
ただ、おそらく、多くの人は、そういった状態を望んではいないんじゃないでしょうか?
インドラと同じです。
「無我」という状態を、多くの人は望んではいないんです。
「私はそのようなものに価値を認めない」と思うんじゃないでしょうか?
多くの人は、いろんなモノゴトに、飽きたくなんてないんです。
だって、あらゆるモノゴトに飽きてしまったなら、残るのは退屈だけです。(と思っているはずです)
多くの人は、それを恐れるんじゃないでしょうか?
なので、カルマを積まずにはいられません。
自覚なしに、積んでいることも多いです。
でも、分離感にどうしょうもなく突き動かされる、ごく稀な人は、「無我」にとどまることを試さずにはいられないはずです。
それは、精神的な自殺を試みるようなものかもしれません。
自身の存在を捨てる覚悟で、「無我」にとどまります。
でも、その結果、悪いことにはなりません。
本当の意味で、存在とはなにかということを理解することになります。
仮初めの存在を捨てることによって、本当の存在を得ることになります。