探求の世界では、この世界は存在しないと考える思想が結構あります。
「空」の思想や唯識の仏教、インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタなどです。
そういった思想は、わりと支持されていたりするのですが、納得できる人はどれだけいるでしょうか?
この世界は存在しないということは、目の前の物質も存在していないということです。
「いやいや、明らかに存在しているよね」と思う人がほとんどなのではないかと思います。
仏教では縁起という概念を使ってその理由が説明されるのではないかと思いますが、ともすれば概念遊びになりがちです。
なので今回は、目の前の物質が存在しないということが、僕の意識の視点からはどう理解されるのかということを具体的にお話したいと思います。
この世界を物質的だと錯覚するのは当たり前です
まず、最初に言えるのは、この世界を物質的だと錯覚するのは当たり前だということです。
探求が終わったとしても、その錯覚が消えるというわけではないんです。
まず間違いなく、この頭はこの世界を物質的だと認識しています。
そうでなければ、わざわざ玄関ドアを開けて家の中に入ろうとはしません。
もし、この世界が物質的ではないと認識しているのであれば、壁をすり抜けて家の中に入ったっていいわけですから。
でも、僕はそうすることはしません(というよりできません)。
また、道路を渡る時には、車が来ていないか左右を確認します。
この体が車と衝突したら危険だと思っているからです。
つまりは、この体と車は物質的なものだと思っているんです。
世界は存在しないとか、幻想であるとか、「空」であるということは、ともすれば、この世界は物質的であると思ってはいけないということなのではないかと感じる人もいるかもしれません。
でも、そうなのではなく、世界は物質的であると錯覚すること自体には問題はないんです。
錯覚が消えるのではなく、なぜ、錯覚しているのかが理解される
探求が終わるということは、世界は物質的であるという錯覚が消えるのではなく、なぜ、錯覚しているのかということが理解されることです。
多くの人にとって、この世界は物質的であるという認識はあまりにも当たり前だと思います。
その認識は、この体が生まれた時から続いていると思うかもしれません。
でも、そうなのではなく、その認識は創られたものです。
BIOS(バイオス)みたいな存在によってです。
BIOSというのは、コンピュータにOSをインストールするために必要となる存在です。
ハードウェアとOSを繋ぐプログラムとでも言えばいいでしょうか。
ハードウェアに内蔵されています。
OSをインストールしてしまえば、BIOSの存在はあまり意識されないと思います。
BIOSという存在を知らない人も少なくはないんじゃないでしょうか?
それゆえに、疑うことが難しいんです。
目の前のマグカップを持ち上げて、「これは物質である」と思うことはあまりにも当たり前です。
でも、その認識の裏ではBIOSが機能しているんです。
マグカップが物質的だからこそそう思うんでしょうか?
それとも、その前にマグカップに物質的であるというラベルが貼り付けられているんでしょうか?
多くの人はこのことに無自覚です。
そもそも、物質とは何かということを人はいつ定義づけたんでしょうか?
学校で物質とは何かということを習う前から、人は物質とは何かということを知っているように思えます。
人が自然と言葉を覚えるように、人は自然と物質とは何かということを理解するのかもしれません。
ただ、そのことを自分でコントロールできているわけではないため、その仕組みには無自覚だったりします。
BIOSは5感覚を結びつける働きをする
BIOSのことを、無意識や知性と呼んでもいいかもしれません。
OSのことを、自我やエゴと呼んでもいいかもしれません。
BIOSはどんな働きをするのかというと、5感覚を結びつける働きをします(もっと言えば、あらゆる概念を)。
生まれたばかりの赤ちゃんには何の認識も無いように思えます。
思考すること、イメージすることはもちろん、そうするためのデータも無いように思えます。
あるのは5感覚だけです。
BIOSは、その5感覚から得られるデータを元にそれらを結びつけます。
手が何かに触れる感覚、背中が何かに触れる感覚、何かしらの聞こえてくる音、何かしらの匂い、何かしらの味覚、眼に見えている何かしらの視界。
生まれたばかりの赤ちゃんにとって、これらの5感覚はそれぞれ独立した存在です。
手に何かが触れたとして、その感覚と、眼に見えている何かしらの視界は連動していないんです。
例えば、僕が今生まれたばかりの赤ちゃんになったのだとすれば、マグカップに触れた手の感覚と、眼に見えるマグカップの視界は連動しないんです。
ただ、手が何かに触れる感覚と、眼に見える何かしらの視界という単独の2つのデータがあるだけです。
それを関連付けるのがBIOSの働きです。
アニメでは、背景の絵と、人物の絵が別々に作画されたりしますよね。
それを後で重ねて撮影することによって、ひとつの世界であるかのように演出するわけです。
実は、手で感じる触覚というのも、視界の上に重ねられているようなものだと言ったらどうでしょうか?
とてもそうは思えないかもしれませんが、視覚と触覚が別々のものであることは間違いないと思います。
一般的には、視覚と触覚のデータは、神経細胞を伝って脳に送られると考えられるのではないかと思います。
でも、脳自身は頭蓋骨に覆われた存在なのであり感覚を持ちません。
ただ、5感覚から送られてくるデータがあるだけです。
それらのデータを結びつけようとするのがBIOSの働きだと言っても良いかもしれません。
視覚のデータと触覚のデータ。
それぞれ単独の存在なのであって、それは単なる素材です。
でも、BIOSが視覚のデータと触覚のデータは同じ世界にあると仮定して、繋がりを持たせると、それらは同じ世界に存在しているように感じられるんです。
それこそアニメと同じようにです。
BIOSは、あらゆる5感覚に対して同じことをします。
あらゆる5感覚を統合しようとします。
その結果、BIOSが創り上げる「ひとつの世界」の情報量は膨大に膨れ上がります。
視覚と聴覚が連動することで、「ひとつの世界」の中に言葉という概念も生まれます。
その過程で、思考したりイメージしたりすることができる、仮想的な自我というOSもインストールされます。
なので、人は物心ついた頃から、言葉を扱うことができるし、この世界を物質的なものだと認識するし、自分のことを体を持った個人だと認識します。
BIOSは思考やイメージや感情も結びつける
BIOSは5感覚を結びつけるだけにとどまりません。
自我というOSがインストールされたなら、思考やイメージや感情といったデータも結びつけていきます。
今この瞬間もBIOSは機能しているんです。
例えば、ふとしたキッカケで何かを思い出したりすることがありますよね。
そうした働きは自我たるOSがやっているわけではないと思います。
自我たるOSにはそんな能力は無いんです。
だって、自分の過去の記憶をすべて閲覧することができる人はいないと思います。
スマホの中の写真を閲覧するように、自分の記憶を閲覧することができる人はいないわけです。
そもそも、記憶という実体があるのかどうかも分かりません。
どう記憶にアクセスすればいいのかも分からないんです。
ただ、必要な時には特定のイメージが脳裏にでてきます。
それを行っているのはBIOSです。
例えば、僕は今こうやって文章を書いているわけなんですが、自分で書く内容を考えているというよりも、頭の中にでてきたものを書いているという感覚が強いです。
頭の中に何かでてこないことには何も書けません。
そして、それを行っているのは自我たるOSではないことは確かです。
すべての人がそうであるはずなんですが、自我たるOSがそれを行っていると思っている人も少なくないのではないかと思います。
もしそうであるなら、BIOSがどういった働きをしているのかに気づくことはできないはずです。
BIOSによって構築されたこの「ひとつの世界」のリアリティはとても強力です。
「ひとつの世界」を根源まで分解していくと、単独な5感覚という素材に行きつくということに気がつける人はどれだけいるでしょうか?
それは、自我たるOSとしての自分自身も含まれます。
自我たるOSを分解すると、単独な5感覚という素材になるんです。
OSというプログラムが数字とアルファベットの羅列によって成り立っているのと同じようにです。
それゆえに、世界と自分というのは別々のものではなく、どちらも同じようにBIOSによって創造されたものであり、実在はしていません。
理屈的にはそうだとしても、感情的には納得できない
多くの人にとっては理解しがたい話だと思います。
そしてまた、理屈的にはそうだとしても、感情的には納得できないという人がほとんどなのではないかと思います。
そして、このお話は、あくまでも僕から見るとそう想像できるというものであって、その正当性にはこだわってはいません。
僕は、「生まれたばかりの赤ちゃん」と「脳」という概念を登場させました。
その概念自体が「ひとつの世界」の中の存在なので、矛盾が生まれたりもします。
「赤ちゃんとして生まれることが先なのであって、5感覚が発生するのはその後でしょ?」とか、「この世界は存在しないということは、脳という存在に依存するのでは?」とか思ったりもするのではないかと思います。
言ってみれば、「鶏が先か? 卵が先か?」というパラドックスが生まれるんですね。
なので、このお話を論理的に理解しようとすることはあまりおすすめしません。
パラドックスを超えることはできないはずです。
それよりも、大事なのはBIOSの働きに気づくことです。
自分自身に、無意識な働きが存在しているということは、多くの人が気がついていると思います。
そのことに気がつき続けることが、結果的に、パラドックスを超えることに繋がるかもしれません。
(関連記事:世界は幻想なのか?)