今回は、KWさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。KWさん、ありがとうございます。テーマはハートについてです。
KWさんからの質問
いつもブログ見させてもらっています。ハートの事で何点か疑問でてきたので質問させてください。
●苦痛をハートに持ってくる時
ブログに書かれている苦痛を感じたらそれを胸に持ってきて感じるやり方を1ヶ月くらい試したのですが、どうも僕のやり方が悪いのか、うまく感じれませんでした。というのも怒りが来た時にそれを、頭から胸の方に下ろす時に、頭は怒っているのに、意識だけが胸の方に行ってしまい、その間に怒りが消えてしまいます。これは、間違えている感じがするのですがいかかでしょうか?
●ハートが何個もあるのでしょうか?
マハルシが胸の右側にあると言っていますが、これは、便宜上言っているのですか?文章だけ読み取るとハートが一人一人にあるように読めるのですが、意識も真我もハートも1つという事を言ってるのも確かありどちらなのでしょうか?
●退屈な時間が心地いい時がある
自分は、病気の性質上、何もない静かな時間が、心地よく感じることがあります。病気の苦痛から逃れているとも言えますが、これは、ハートなのですか?最新の記事にハートと一緒にいる時が、本当の私が在るとのことですが、胸の場所にいない時は、1つ目の私が在るなのでしょうか?
●ハート、真我の永続性
ハートと真我が、永遠と言われていますが、生まれる前と死んだ後もあると言い切れるのは、なぜでしょうか?生きてる間もあるのは、なんとなくわかるのですが。探求が終わった時に、自然と理解できるものなのでしょうか?
質問が多くて申し訳ありません、お答えいただけると幸いです。
回答
KWさん
こんにちは。
質問ありがとうございます。
> ●苦痛をハートに持ってくる時
> ブログに書かれている苦痛を感じたらそれを胸に持ってきて感じるやり方を1ヶ月くらい試したのですが、どうも僕のやり方が悪いのか、うまく感じれませんでした。というのも怒りが来た時にそれを、頭から胸の方に下ろす時に、頭は怒っているのに、意識だけが胸の方に行ってしまい、その間に怒りが消えてしまいます。これは、間違えている感じがするのですがいかかでしょうか?
なるほど、そうなんですね。
人が怒りを感じる時には、2つのパターンがあると思ってます。
思考先行型と、感情先行型の2つです。
怒りの原因となるイメージが感情的な怒りを引き起こすのか?
それとも、感情的な怒りが、怒りの原因となるイメージを引き起こすのか?
「卵が先か?鶏が先か?」的な構図がそこにはあると思っています。
状況によって、どちらも起こり得るし、相互に絡み合っているんじゃないかとも思います。
KWさんの「頭は怒っているのに、意識だけが胸の方に行ってしまい、その間に怒りが消えてしまいます」というのは思考先行型かもしれません。
思考的には「怒りたい」と思っているのに、感情的には「怒る必要性を感じてない」という状況なのかもしれません。
もしそうであるなら、それはそれでいいんじゃないかとも思います。
その状況を観察するなら、思考側の方に変化が現れるかもしれません。
「怒りたい」と思っても、感情がそれに連動しないなら、「まあ、別にこのことについて怒る必要もないのかな?」って認識の変化が起きるかもしれません。
それはそれで、一種の浄化(認識の解体)だと思います。
その認識の変化が起これば、そのことについて思い出したとしても、思考や感情が騒ぎだすことはなくなると思います。
本当に感情的な怒りが起こる場合には、意識を向けたぐらいではなかなか消えないんじゃないかと思います。
意図的にそれを引き起こすことはできないですし、あえてそれを探そうとする必要もないかもしれません。
ちなみに、KWさんから質問いただいて、「なるほど、思考先行型のパターンもあるか」と参考になりました。
怒りというのも刺激の一種で、クセになる側面もあると思います。
思考的に怒りを求めてしまうというのも無きにしもあらずかもしれません。
> ●ハートが何個もあるのでしょうか?
> マハルシが胸の右側にあると言っていますが、これは、便宜上言っているのですか?文章だけ読み取るとハートが一人一人にあるように読めるのですが、意識も真我もハートも1つという事を言ってるのも確かありどちらなのでしょうか?
これは視点の違いによると思います。
不二一元論としての立場で言うなら、他者は実在はしていないので、意識も真我もハートも1つということになります。
でも、便宜的に、他者も存在していると仮定するならば、一人一人にハートがあるということになります。
このお返事でも、KWさんは存在していると仮定しているので、KWさんにもハートがあるという前提でお話しています。
イメージとしては、1つのハートを核に、放射状に複数(意識を持った存在の数だけ)の意識が伸びているような感じでしょうか?
そして、その複数の意識の中に、それぞれの世界(体を持った自分を含めた)が現れているような感じです。
意識の中では、1つの世界を共有していて、複数のハートがあるように感じますが、実際には、共有されているのは1つのハートなんです。
まあこれも、あえてイメージするならということなんですが。
マハルシが「ハートは胸の右側にある」と言っているのが便宜的なものかどうかは分かりません。
でも、おそらく、マハルシは本当に右側に感じていたのだと思います。
心臓だって、人によって左寄りの人もいれば、右寄りの人もいるようです。
なので、ハートの位置も個人差がある可能性もあります。
僕としては、「感情を感じる部分」という方が誤解が少ないのではないかとも思っています。
> ●退屈な時間が心地いい時がある
> 自分は、病気の性質上、何もない静かな時間が、心地よく感じることがあります。病気の苦痛から逃れているとも言えますが、これは、ハートなのですか?最新の記事にハートと一緒にいる時が、本当の私が在るとのことですが、胸の場所にいない時は、1つ目の私が在るなのでしょうか?
これは、ハートの心地よさだと思います。
病気の苦痛から解放されている感覚とも言えます。
ハートというのは特別なものでもなくて、すべての人が知っている感覚だと思います。
ただ、最初のうちはそれは感情の一種のように感じられますし、現れては去っていく感覚のようにも感じられます。
ハートの心地よさは、「怒り」とか「楽しさ」といった感情に比べるととても穏やかなので、どこで感じられているのかがハッキリしないようにも感じられるかもしれません。
突然暗い場所に入ると、真っ暗でなにも見えないかのように感じられますが、目が暗闇に慣れてくると、段々と見えてくるようになりますよね。
ハートも同じような感じかもしれません。
「私は在る」という感覚にいることが多くなるなら、段々と、もしくは唐突に、ハートの輪郭がハッキリとしてくるんじゃないかと思います。
> ●ハート、真我の永続性
> ハートと真我が、永遠と言われていますが、生まれる前と死んだ後もあると言い切れるのは、なぜでしょうか?生きてる間もあるのは、なんとなくわかるのですが。探求が終わった時に、自然と理解できるものなのでしょうか?
当然そう思いますよね。
これは真理の探究における最大の謎だと思います。
僕は言葉を多用するタイプですが、このことについては上手く説明できる気があまりしません。
僕自身、知的には理解できていないからでもあります。
あえて言うなら、ハートがそれを否定しないからという感じでしょうか。
死ぬと、体はもちろん、記憶、意識、あらゆるものが失われるかのように感じられます。
だからこそ、多くの人は死を恐れるんだと思います。
でも、このハートが失われることはないだろうという感覚がここにあるんです。
もちろん、知的に考えれば、「意識が消えたらハートへの気づきも消えるよね?」ということになるんですが、ハートがそのことを恐れることがないんです。
「意識が消えたとしても、ハートは実在し続けるということを、ハート自身は知っているのだろう」と想像することはできます。
でも、それを確かめるすべはありません。
とはいえ、確認できることもあります。
意志として、ハートの中にとどまることを1番好むようになっているということです。
もちろん、生きている限り、僕も映画を観たり、散歩をしたり、感情をともなう行為をしたりもします。
でも、結局のところ、ハートの中にとどまることを1番好みます。
5感覚を失うことと、ハートを失うことを天秤にかけるなら、迷うことなく5感覚を失う方を選びます。
ブッダは執着を捨てることを説いています。
僕は、意識的にそうしようと思ったことはないのですが、ハートにとどまることを好むようになることで、結果的にはそうなっているのかもしれません。
なので、単純に世界を失うことへの恐れが消えていて、結果的に、「ハートがそれを否定していない」と感じているだけかもしれません。
僕自身、「探究は終わったと言っているけれども、本当にそうなのか?」という思考が現れることがあります。
それでも、確認できることは、ここに「私は在る」「私ー私」という感覚があることだけです。
意識が無い状態は確認しようがありません。
なので、知的には「生まれる前にも、死んだ後にも、ハートは存続している」と考えるのは、多少の飛躍があるようにも感じられます。
それでも、常にここにハートが在るという感覚に慣れてくると、意識がここに無くても、このハートはずっとここに在るんだろうなということが、自然なことのように感じられてくるんです。
これはハートの直感的な理解です。
こういったことは、探究が終わった時に理解されるというよりも、このハートの直感的な理解が起こるからこそ、探究は終わると言えるかもしれません。