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病気と真我探求について【Q&A】

今回は、KWさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。

KWさん、ありがとうございます。

テーマは、病気と真我探求についてです。

KWさんからの質問

初めましてKWと申します。質問させていただきます。
自分は病気なのですが、精神・身体の苦痛(治る見込みがない)があります、苦痛があると悟りにくいと聞きます。(確かパパジがいっていたような感じがします)。痛みがないときは、無になりやすいですが、痛みがある場合は、どうしてもそちらに気が向いてしまいます。苦痛を見ている状態でもあると思いますが、仕方がないことなのでしょうか?それとも真我に本当に気づけば、少しは楽になれるのでしょうか?

回答

KWさん
こんにちは。

ご質問ありがとうございます。

確かに、身体的な苦痛がある場合には気になったりすると思います。

でも、だからといって悟りにくいかは分かりません。
アメリカの覚者のアジャシャンティは、確か、顔の筋肉がひきつってしまうという神経症をわずらっていたかと思います。

ちなみに、痛みの程度としてはどんな感じでしょうか?
それによって、多少、回答が変わってくるかもしれません。

KWさんからの返信

ありがとうございます。 
自分は、統合失調症で症状が色々あるので、動悸、胸に痛みが走る不整脈、勝手にそわそわするなど、基本的には、健康だと思える日はありません。

回答

結論から言うなら、真我実現しても、この世界の中で起こる現象というのは変わらないと思います。
ただ、そのことを気にしなくはなると思います。

例えば、僕は病院で診断を受けたわけではないのですが、アスペルガー症候群の気があると思います。
他者と関わるのが苦手ですし、特に、集団行動は落ち着かないです。

大勢の前でしゃべらなければならないなら、心臓がドキドキして緊張してしまいます。
(まあ、そんな機会も最近はないのですが)

以前であれば、そんな自分を変えたいと思っていました。
そして、その事自体が苦しみを生み出していたりしました。

でも、今では、そうなるのが当然のことであって、それを問題だとは思っていません。
嫌ならそういった場所に近づかなければいいだけですし、もし、それが避けられないのであれば、そうなってしまうのは当然のものとして対応します。

苦しみが起きるのは、社会的な価値観に自分を合わせなければいけないんじゃないかという、認識があるからだったりもします。
今は、そういった認識がないですし、むしろ、自分自身の価値観を優先します。

とはいえ、体を持った個人としては、社会の中の一員なので、社会の価値観に合わせなければいけないこともあります。
生きていくためには、仕事をする必要もあります。
昔であれば、出家者であったとしても、托鉢して食べ物を集める行為は必要だったと思います。
そういったすり合わせは、体が死ぬまで続くと思います。

僕は社会的に強い立場でもなく、そこには苦労があることもあります。

ただ、自分が求めるものは、社会の中にあるわけではないということが明確になることは、大きな解放です。
真我はここに在るものであって、誰かに認めてもらう必要もないからです。
そして、それは死にも捕らわれません。

統合失調症について、ウィキペディアで少し調べてみました。
おそらく、世界中のすべての人が、なんらかの統合失調症だと思います。

ただ、個人によって程度の差があって、その症状が個性的とまで言えない場合には、病気と診断されないだけかもしれません。

誰しもが、自分の中に矛盾する複数の価値観を抱えていて、そこに分離感を感じているんじゃないかと思います。
考えたくもない思考やイメージが、勝手に湧き上がってきてしまうことは誰にだってあります。
自覚できない認識を抱えてしまうこともあります。

それは、感情的な分離感にも繋がったり、場合によっては身体的な反応としても現れるかもしれません。
KWさんの場合には、特にその傾向が強いのかもしれません。

ただ、苦痛があるから悟りにくいということはないと思います。

アジャシャンティも、顔の神経症は不快だと言っていたと思います。
ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジは、癌の痛みを味わって死んでいます。

個人が悟るわけではないのと同じで、個人の苦痛が真我に影響を与えられるわけじゃないんです。
むしろ、苦痛があるからこそ、人は悟りに向かうことができるという側面もあると思います。

確かに、あまりにも苦痛が激しい場合には、真理の探求どころじゃなかったりすると思います。

僕は、虫歯で歯の神経をやられてしまったことがあります。
これがかなりの激痛で、痛みを観察するというよりも、痛みそのものに同化せざるを得ない感じかもしれません。
ソファーに横たわってジッと耐えるしかありませんでした。

身体的な外傷は、そういった痛みが発生することがあると思います。
癌の痛みも、似たものかそれ以上のものがあると思います。

その結果、体が死んでしまったりもします。
そういった意味では、苦痛があると悟りにくいとは言えるかもしれません。

でも、命に関わる苦痛ではないなら、十分に真理の探求は可能だと思います。
むしろ、苦痛を観察すること自体も瞑想になったりするので、自然と瞑想能力が高くなる傾向はあると思います。

無であることにこだわる必要はないと思います。
もし、そこに苦痛があるなら、そっちに意識が向くのは自然なことですから。

むしろ、「一体誰が、無であることにこだわっているのか?」というのが真我探求です。
その意志から解放されるなら、真我とは何かということに気づくことになるかもしれません。

こんな感じでしょうか。
また何かありましたらご連絡ください。

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作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

2021年からTwitterも始めました。

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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