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瞑想状態を維持することは真我達成につながるのか?【Q&A】

今回は、明朝体Dさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。

明朝体Dさん、ありがとうございます。

テーマは、瞑想状態を維持することは、本当に真我実現につながるのか、ということについてです。

※今回は5700文字ほどの長文です。

明朝体Dさんからの質問

こんにちは。前回は大変参考になるご回答ありがとうございました。また探求について質問させて頂ければと思います。

あれから考えてみたのですが、「私が在る」はすでに知っている気がします。嫌なトラブルがあったとして、自分⇔トラブルの作用し合う2人以外にその2人を察知する3人目がいる感覚があります。それは本当にどうでもよさげにその2人を眺めている感じです(勘違いだったらすみません)。

さて、あれから瞑想を続け、意志を強く持たずに存在することが出来るようになった気がします。
日常生活でいうなら、何か問題が起こっても私や他の人や偶然の出来事が上手いことなんとか処理してくれるだろう、自分は何もせず気づいていればいいや・・・と考えられるようになりました。物事への価値観も、世の中がどうなっているか?どんな問題があるか?よりも瞑想状態の気づいている感覚の方を大事にするようシフト出来てきている気がします。
勿論いついかなる時も、という訳ではないし、こうやって質問してること自体人生へのモヤモヤが残っている証拠でしょう。

このままこの瞑想を続けていこうと思うのですが、実は瞑想状態を維持することが真我達成につながるのか?という疑問があります。

それというのも、「私が在る」と感じようとしている時、全てに気づいている存在と同じ目線で物事を見よう、と頑張っている自分がいるだけで、その気づいている存在と一体化など決して無理だと思ってしまう自分がいるからです。以前とかなり似たような質問で申し訳有りません(笑)
とはいえ、対抗策もないこともないのです。上記の「自分はなにもせず気づいていればいいや・・・」という状態はほぼ何も考えていないため、「決して無理」との考えを消してしまえるからです。襲いかかってくるライオンを前にして目をつむることで恐怖をなくそうとするのに似ているでしょうか?
なにか勘違い等あればご指摘願います。

回答

明朝体Dさん
こんにちは。

お久しぶりです。

> このままこの瞑想を続けていこうと思うのですが、実は瞑想状態を維持することが真我達成につながるのか?という疑問があります。

これは当然の疑問だと思います。
僕もそう思っていました。

> それというのも、「私が在る」と感じようとしている時、全てに気づいている存在と同じ目線で物事を見よう、と頑張っている自分がいるだけで、その気づいている存在と一体化など決して無理だと思ってしまう自分がいるからです。

これも良く分かります。
この「自分」が何かと一体化するなんて考えられないんですよね。

その認識は正しいと思います。

ただ、勘違いがあるのだとすれば、一体化する必要なんてないという点だと思います。
実のところ、もうすでに一体なんです。

でも、そんなことを言われても納得なんてできませんよね。
「いやいや、ここに頑張ってる自分がいるんだよ!」って思うんじゃないかと思います。

そもそも、一体化って何なんでしょう?
例えば、人は、思考と一体化することがありますよね。

考え事に没頭しているときとか。

「私は在る」に留まろうと頑張っている自分が、思考と一体化します。
そのとき、その自分は消えているはずです。

でも、その時でさえ、「私は在る」という感覚は継続してはいないでしょうか?
そして、自分が考え事に没頭していることに、ふと、気がつくときにも、「私は在る」という感覚は継続してはいないでしょうか?

それはなぜかと言うと、「私は在る」という感覚が明朝体Dさんに一体化しているからです。
もうすでに一体なんです。

なので、実は、起こるべきは「私は在る」という感覚と、明朝体Dさんの分離です。
それは、考え事に没頭している状態から、ハッと気づいて、観察者としての自分にもどることと似ています。

ちょっと例え話をしてみます。

例えば、明朝体Dさんがスナイパーだったとします。
現れる思考やイメージを、狙撃していくのが仕事です。

狙撃するには、まずは標的を観察しなければいけないですよね。
攻撃(一体化)されないように、相手と距離をとることも重要です。

そして、動いている相手を狙撃するよりも、止まっている相手を狙撃する方が簡単です。
なので、考え事に没頭していることに、ふと気づくときには、思考の途切れ目であることが多いかもしれません。

それと同じようなことが、「私は在る」と明朝体Dさんの間にも言えるとしたらどうでしょうか?

明朝体Dさんが、思考やイメージを狙撃するために、活発に動くのであれば、「私は在る」は明朝体Dさんを狙撃しにくくなります。
一方、明朝体Dさんが沈黙しているのであれば、「私は在る」は明朝体Dさんを狙撃しやすくなります。

> このままこの瞑想を続けていこうと思うのですが、実は瞑想状態を維持することが真我達成につながるのか?という疑問があります。

瞑想状態を維持すること(瞑想的な日常生活)がなぜ重要なのかといえば、「私は在る」に狙撃されやすくするためなんです。

おそらく、明朝体Dさんは「自分が「私は在る」として気づかなければならない」と思っていると思います。
でも、実際のところは、明朝体Dさんは「私は在る」に気づかれるべきなんです。

例えば、「自分はなにもせず気づいていればいいや・・・」と考えたときに、突如として、「気がつかれた!」という感覚が起こったりします。
気づくのは自分だと思っていたのに、反対に、気がつかれてしまうんです。

でも、同時に、そのことに気がついたのは間違いなく自分自身だという感覚も起こります。
その気づきこそ、純粋な「私は在る」という感覚なんです。

これは、コントロールできません。
なので、瞑想状態を維持して待つしかないんです。

こういったことを経験すると、意志としての自分は、単なる思考でしかないということを自覚せざるを得なくなります。
そして、それを自覚したのであれば、「私は在る」(瞑想状態を維持する)ことが、むしろ自然なことだと感じられるようになっていくはずです。

「私」のアイデンティティが、意志から、純粋な「私は在る」にシフトしていく感じですね。

明朝体Dさんからの返信

ご回答ありがとうございます。
瞑想を続けている時、さらに上位の気づいている存在がいる感覚がほぼ常にあり、その存在との絶対的な溝を感じます。意志としての自分がこれに完全に圧倒され滅ぼされるというのも何度か経験したことがあります。これが純粋な「私は在る」なのでしょうか?
とすると瞑想状態を維持することは自然ではなく単なる悪あがきに過ぎないのではないでしょうか?アイデンティティがシフトするというのも思考の飛躍なのではないでしょうか?結局の所悟りというのも、快を求め不快を排除する人間の生物的本能の為せる業なのではないでしょうか?なぜ覚者は悟ることによって何も変わらないと言うのに悟りに関して世界に発信出来るのでしょうか?やはり悟っている人などこの世に一人もいないのではないでしょうか?
昨晩ここまで考え、私は瞑想を続ける自信を少し無くしています。とはいえ、世間一般のことより自分の内部への気づきに価値観の重きをシフト出来たように、瞑想によって全く別の見方を手に入れることが出来る気もしています(それが飛躍になってしまいそうで怖いのですが・・・)。
大変挑発的な書き方で申し訳ありません。しかしこれが確かに私の現在地点なのです。

回答

いえいえ、僕自身、色々と疑いながら探求してきたのでこういった質問は歓迎です。

実は、明朝体Dさんとのやりとりの中で、僕はあえて「ハート」という言葉をだしてきませんでした。
おそらく、明朝体Dさんは「ハート」を理解してはいないんじゃないかと思います。

でも、「私は在る」と「ハート」は無関係じゃないんです。

ラマナ・マハルシは、「私は在る」のことを「私ー私」と表現したりもします。
なぜそういう表現になるのかというと、意識としての「私」が、ハートとしての「私」に気づいている状態が「私は在る」だからです。

> 瞑想を続けている時、さらに上位の気づいている存在がいる感覚がほぼ常にあり、その存在との絶対的な溝を感じます。意志としての自分がこれに完全に圧倒され滅ぼされるというのも何度か経験したことがあります。これが純粋な「私は在る」なのでしょうか?

意志としての自分が完全に圧倒され滅ぼされるなら、その状態に留まればいいんです。
滅ぼされておいて「これが純粋な「私は在る」なのでしょうか?」と現れる必要はないんです。
それがニサルガダッタ・マハラジが言っていることであって、ニサルガダッタ・マハラジでさえ、その状態に留まって真理を悟るまでに3年かかっています。

明朝体Dさんは、おそらく結果を急ぎすぎだと思います。

ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたはパラブラフマンだ」と言われて、「私は在る」という感覚に3年間留まり続けたと言われています。
でも、ニサルガダッタ・マハラジは、師に会う前からバジャンを習慣にしていたはずです。
バジャンというのは日本ではあまり馴染みがないでしょうし、僕も馴染みはないのですが、神に捧げる歌や踊りのようです。
それは、瞑想やマントラのような効果があるのだと思います。
なので、師に出会った時には、すでに「私は在る」という感覚を知っていたのかもしれません。

真理を悟るというのは、意志が真理を得るわけではなく、ただ単に、意志は現れては消えていく思考と同じようなものだと気がつくだけです。

> とすると瞑想状態を維持することは自然ではなく単なる悪あがきに過ぎないのではないでしょうか?
> アイデンティティがシフトするというのも思考の飛躍なのではないでしょうか?
> 結局の所悟りというのも、快を求め不快を排除する人間の生物的本能の為せる業なのではないでしょうか?
> なぜ覚者は悟ることによって何も変わらないと言うのに悟りに関して世界に発信出来るのでしょうか?やはり悟っている人などこの世に一人もいないのではないでしょうか?

こういった思考も、現れては消えていくだけです。
でも、意志はそれを「自分のもの」と認識して、そういった思考に価値を与えようとします。

意志自身が現れては消えていく存在であるにも関わらずです。

> とすると瞑想状態を維持することは自然ではなく単なる悪あがきに過ぎないのではないでしょうか?

意志は瞑想状態にはなれません。
意志にできることは、集中状態になることだけです。

おそらく、明朝体Dさんは瞑想状態と集中状態を勘違いしています。
集中状態を維持することは自然ではないのは当然です。

> アイデンティティがシフトするというのも思考の飛躍なのではないでしょうか?

アイデンティティのシフトというのは、思考の無い状態へのシフトであり、思考の飛躍は起こりようがないんです。
ただ、その状態を意志が言語化しようとすると、そこには飛躍があるかもしれません。

> 結局の所悟りというのも、快を求め不快を排除する人間の生物的本能の為せる業なのではないでしょうか?

悟りは、快と不快の両方から解放です。
でも、快を求め、不快を避けようとする意志からすれば、それは退屈のように感じられるんじゃないかと思います。

> なぜ覚者は悟ることによって何も変わらないと言うのに悟りに関して世界に発信出来るのでしょうか?やはり悟っている人などこの世に一人もいないのではないでしょうか?

悟る人はいないというのはその通りです。
表面的に見れば、何も変わらないというのもその通りなんです。
ただ、自分という存在が、体にも、意志にも限定されたものではないと気づくことは、大きな解放感をもたらします。

僕が思うに、明朝体Dさんは一旦、「私は在る」という概念を脇に置いておいてもいいんじゃないかと思います。
いくら思考実験をしても、それを思考的に理解することはできないんです。

ニサルガダッタ・マハラジがバジャンを習慣にしていたように、明朝体Dさんも修行としての瞑想を習慣にするといいかもしれません。

> 昨晩ここまで考え、私は瞑想を続ける自信を少し無くしています。とはいえ、世間一般のことより自分の内部への気づきに価値観の重きをシフト出来たように、瞑想によって全く別の見方を手に入れることが出来る気もしています(それが飛躍になってしまいそうで怖いのですが・・・)。

特定のモノの見方を手に入れる必要はないと思います。
というよりも、それを意図するのであれば、それは修行としての瞑想にもならないはずです。

修行としての瞑想というのは、ただ単純に、無心でいられることを目指すものです。
それは、勝手に現れる思考やイメージを抑えるということだけじゃなくて、意志として黙るということも含まれます。

瞑想の落とし穴なのですが、「私は黙らなくてもいい(なぜなら私が瞑想の主体だから)」と思っている人は意外と多いんじゃないかと思います。

思考したいという衝動が起こるのなら、その衝動を観察すればいいんです。
その衝動はどこから現れるのか?
もちろん、思考が止まらないこともあると思います。
そんな時は、せめて、その思考に価値を与えないことです。

そのことがハートの理解にも繋がります。

焦る必要はないと思います。

もし、瞑想状態を維持するということが、一日中、集中状態を維持するということを意味していたのだとしたら、それは無理でしょう。
僕にだってそんなことはできません。

なので、日常生活の中で、瞑想状態を保とうとする必要はないと思います。
1日の中で、30分とか1時間とか、場合によっては15分とか10分とか、「これなら集中状態が保てる」という時間を決めて、修行としての瞑想を続けてみるのがいいのではないかと思います。

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作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

2021年からTwitterも始めました。

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