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キリスト教

父と子と聖霊【三位一体をわかりやすく解説】

前回、仏教の諸行無常・諸法無我・涅槃寂静【三法印】についてお話しましたので、今回は、キリスト教の「父と子と聖霊」についてお話したいと思います。

三位一体とかトリニティとか呼ばれているものですね。

三位一体も、三法印も、どちらも、真理についての3つの側面を言い表したものです。

ただ、使われる言葉が違うので、三法印とは、ちょっと違ったお話になると思います。

父とは?

父と子という対比があるので、普通に考えるなら、父というのは、子に先立つものという考え方ができると思います。

父が存在するがゆえに、子も存在するという考え方ですね。

イエスは、自身を子とみなします。

ということは、父が存在するがゆえに、イエスは存在できるというわけですね。

でも、イエスにとって、「父」とは誰なんでしょうか?

聖書によると、イエスには、肉体的な、DNA的な父親というのは、居ないということになっています。

聖母マリアは、聖霊によって身籠ったということになっています。

なので、イエスには、一般的な意味での、父親が居ません。

にも関わらず、イエスは「父」という言葉を使うわけです。

これは、一体、誰のことを指しているんでしょうか?

イエスにとって、「父」とは、イエスに気がついている存在です。

イエスの5感覚、思考、感情といったものに、気がついている存在、それが、「父」です。

言ってみれば、それは「意識」とも言えます。

意識が無ければ、イエスと言えど、自身が存在しているということに、気がつくことができないでしょう。

意識があるがゆえに、イエスは、自身が存在しているということに、気がつくことができます。

熟睡中は、イエスも、何にも気づくことができないはずです。

そして、起きることによって、意識が起こり、「私には肉体的な父親は存在しないが、私には父が存在する」と言うことができます。

そして、それは、肉体的な父親を持つ人にとっても、同じことが言えるんじゃないでしょうか?

ただ、聖書の中では、イエスは、「父」を「神(真理)」と同一のものとしても語っています。

例えば、イエスはこう言っています。

「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」

「わたしが父の内におり」というのは、意識としての父のことを言っていますが、「父がわたしの内におられる」というのは、父を、神(真理)という意味で使っています。

父と子と聖霊は、真理の3つの側面なので、父と神(真理)は同一のものと言うこともできるんですね。

子とは?

意識が父なのであれば、子というのは、意識に気がつかれる対象ということになります。

普通に考えれば、肉体を持ったイエスのことを指すと思います。

確かに、その通りなのですが、「子」というのはイエスの肉体だけに限定されません。

例えば、聖書の中では、イエスが「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか?」と言われるシーンがあります。

アブラハムというのは、言ってみればユダヤ人の祖先であって、肉体としてのイエスが、アブラハムを見るなんていうことは、あり得ないんです。

それに対して、イエスは、こう答えています。

「はっきりと言っておく。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある。」」

「わたしはある」と言っていますね。

有名な言葉です。

「わたしはある」というのは、存在そのものを指します。

テレビを例にするなら、テレビの中に映し出される、イエスの肉体というのは、テレビのディスプレイにとっては、ごく一部分です。

「私は肉体を持ったイエスだ」と言うなら、その、ごく一部分の映像のことを指すことになります。

でも、「わたしはある」という場合には、テレビのディスプレイそのものを指します。

ディスプレイに何が映っているのかとかは関係がないんです。

「わたしはある」という感覚は、この世界には属していません。

目の前の世界とは、関係がないんです。

そして、それは、真理の一つの側面であり、時間の流れに関係なく、不変のものです。

肉体としてのアブラハムも、かつては、テレビのディスプレイに映っていた存在です。

そういう視点でいくと、アブラハムが生まれる前から「わたしはある」ということになるんです。

それが、肉体としての「子」を超えた意味でもあります。

意識によって気づかれる、存在そのものです。

聖霊とは?

父と子と聖霊の中で、1番理解し難いといわれているのが、「聖霊」だと思います。

(実際のところは、「子」が1番難しいと思いますが)

ヨハネによる福音書の中に、「聖霊を与える約束」という章があるので、その中の、冒頭の文章を引用してみたいと思います。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊(聖霊)である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

イエスは、聖霊の在り処について、明言しています。

「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

キリスト教では、十字を切るという行為をしますよね。

これは、聖霊の在り処を指し示しています。

十字が交差するところ、そこに、聖霊は在ります。

ただ、イエスは、そのことに気がつけない原因についても言っています。

「見ようとも知ろうともしない」からです。

イエスは、あなたの内に、聖霊が在ると言っているのに、外側に、聖霊を探そうとする人は少なくないんじゃないでしょうか?

そういった人のために、肉体としてのイエスは現れました。

遣わされたと言ったほうがいいでしょうか。

外側に存在する、聖霊としてです。

イエス(真理)は、「子」でもあり、「聖霊」でもあります。

でも、肉体は消え去る運命にあります。

なので、「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と言います。

もし、あなたの内に、わたし(聖霊)を見つけようとするなら、それを見つけるだろうということです。

ただ、そこには「掟」があります。

イエスは「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」と言います。

ここでは、「掟」とは何なのかを語ってはいないのですが、同じく、ヨハネによる福音書の「イエスは良い羊飼い」の章で、「掟」という言葉がでてきます。

一部を、ちょっと引用してみます。

「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」って一体どういうことなんでしょうか?

このことについては、ちょっと前に「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」という記事でも書いたので、続きが気になる人は読んでみてください。

ちなみに、「父と子と聖霊」の三位一体には、その関係性を示した概念図があります。

最後に、Wikipediaからその概念図を引用して、終わりにしたいと思います。