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瞑想

無意識に任せる瞑想のすすめ【初心者にも対応】

今回は、初心者にも対応した、無意識に任せる瞑想についてお話したいと思います。僕自身は、瞑想することにあまり苦労したことがなかったため、わりと簡単に、「思考を止める」という表現を使ってきました。でも、初心者にとっては、それ自体がハードルが高いのだなということが、最近分かってきました(いまさらかよ、というツッコミは甘んじて受けましょう)。

そこで今回は、瞑想という行為そのものを分析して、どのような関係性で、思考が止まっていくのかということを、構造的に考察していこうと思います。僕が提案する瞑想には、多様性がなく、終わりがあります。なぜそうなるのかということについても解説していこうと思います。

※9000文字ほどの長文です。

思考に巻き込まれてもいい

瞑想は、思考と自我の関係性です。勝手に湧き上がる思考を、自我を使って意図的に止める。それが瞑想という行為だと思われています。当然、僕もそのように表現します。

でも、初心者には、〝無意識〟という概念も登場させたほうがいいのかもしれません。というのも、瞑想という行為は、思考と自我の力関係が釣り合っているからこそ、成り立つものだと言うこともできます。そのバランスが釣り合っていないと、簡単に思考に巻き込まれます。だからこそ、「瞑想することができない」ということになります。

当然、最初からバランスが釣り合っている人なんて少なくて、そのアンバランスを補うために、瞑想には多様性があるとも言えます。例えば、呼吸に意識を向ける(サマタ瞑想)とか、身体に意識を向ける(ヴィパッサナー瞑想)とか、声を意識的に出す(マントラ瞑想)とかですね。他にもイメージするとか、色々あるでしょう。そしてまた、それらの中にも、発案者によって様々な違いがあったりもします。多種多様です。思考に巻き込まれてしまうなら、それらの多種多様な瞑想方法の中からひとつを選んで、立ち向かいましょうということです。僕も、それでいいのではないかと思っていました。

でも、それでも、「瞑想ができない」という初心者は少なくなさそうに感じています。それでも、「立ち向かえ」というのは根性論になってしまうので、どうにかならないものかと今回、瞑想の構造について考えてみたわけです。

その結果行きついたのが、そもそも、思考に巻き込まれてしまってもいいのではないか、という選択です。発想の転換です。これなら、誰でもできます。思考に巻き込まれることができないなんて初心者はいないでしょう。上級者でさえ、思考に巻き込まれないなんてことはないんですから。それでも、誰しもが巻き込まれた状態から戻ってきます。それはなぜかと言えば、〝無意識〟がそのように働くからです。

多種多様な瞑想方法の問題点

そしてまた、多種多様な瞑想方法を使いだすと、その方法に執着してしまうという問題も感じています。瞑想は、思考と自我の関係性だと言いましたが、意図的な瞑想というのは、自我にブーストをかけるようなものです。それは、ある意味では不自然な行為で、本来は対処できない問題に対して、瞑想中だけは対処できるようにするというものです。つまりは、瞑想が終わると、思考が抑えられません。

映画マトリックスでは、ネオ(自我)が強くなると、それに合わせてスミス(思考)も強くなります。その力は、常に均衡するように働きます。自我も、思考のひとつだからです。この場合、ネオは一体どこまで強くなればいいんでしょうか? 映画を観ている人であれば、ネオが最終的にはどんな選択をするのか知っているでしょう。僕が提案しようとしているのは、最初からその選択をしてみてはどうかということでもあります。

自我をブーストしていくサイクルに入ると、日常生活での、思考と自我の力関係に、大きな差がでてきます。瞑想中はいいんです。でも、日常生活で、思考の力が優勢になります。その結果、日常生活そのものが忙しいものになりがちのように感じています。思考を紛らわせるために、何かせずにはいられないんです。時に、それは強迫観念的なものになるでしょう。瞑想を教えている人自身が、そのようなサイクルに入っていることも多いでしょう。その場合、多種多様な瞑想方法はさらに多様になっていく(強度が上がっていく)傾向もあります。

例えば、マントラ瞑想が教えられる時、それとセットであるかのように、輪廻を前提とした奉仕活動も教えられることが多いと思います。それは偶然というわけではなく、必然なんです。構造的にそうなります。マントラ瞑想によって強制的に抑えられた思考を、日常生活の中で放流してあげなければならないからです。

瞑想方法によって、思考の方向性も影響を受けるという構造を、理解して実践している人はどれだけいるでしょうか?

なので、そもそもの、瞑想の構造自体をちゃんと理解しておくことは大事です。本末転倒にならないように。瞑想は、思考と自我の関係性です。でも、そこには無意識も関わっています。でも、それはほとんど認識されません。無意識は黒子のように活動します。

自我と無意識は、排他的な関係にあります。例えば、意図的に呼吸をコントロールしてみようとすると、無意識的な呼吸はその働きを止めます。そこに、無意識と衝突している感覚はないはずです。無意識は、自我の意図的な行為を察知すると、サッと距離をとって、その存在を悟らせません。

僕は子どもの頃、食べるという行為が無意識に行われていることを不思議に思って、意図的に食べるという行為をしてみたことがあります。食べるという行為は、咀嚼と、飲み込むという一連の行為で成り立っています。それを意図的に行おうとすると、咀嚼をするのはいいのですが、飲み込む時に、違和感を感じやすいです。どのタイミングで、どんな強度で飲み込めばいいのか、意識してしまうとよく分からないんです。その時、無意識は働きを止めています。なので、飲み込むという行為が、ぎこちなくなります。

実のところ、自我が意図的に何かをしようとするより、無意識の方がずっと上手にこなします。1日中、意図的に呼吸しなければならないと考えるとゾッとするでしょう。無意識は、そんな仕事も楽々こなします。であるならば、瞑想も無意識に任せてみれば、楽になるんじゃないでしょうか?

無意識に任せることから始めよう

思考が止まらないなら、「思考を止めよう」と思わなくてもいいんです。そうすると、当然、思考に巻き込まれるでしょう。そして、しばらくすると、ハッと思考に巻き込まれていたことに気がつきます。

その時に、「巻き込まれてしまった……」と残念に思う必要はないんです。そうではなく、「無意識の働きによって、勝手に戻ってこれた」と、無意識に対する信頼を厚くすればいいんです。自信を持てばいいんです。次にまた思考に巻き込まれても、きっとまた戻ってきます。自我にとっては手応えがないので、無意味であるように感じるかもしれませんが、この段階においては、勝手に戻ってくるということを確認することが、自我の仕事です。

思考を止めなければならないと思いながら瞑想をするなら、失敗続きでしょう。でも、勝手に戻ってくることが瞑想なら、成功続きになります。この認識の違いは、瞑想を続けるモチベーションに大きな違いを生むかもしれません。

もちろん、この方法は魔法じゃありません。変化は少しづつです。それは筋トレのようなもので、目に見える結果を実感するには、数ヶ月、数年という単位の継続が必要です。筋トレをした翌日に、いきなりムキムキになっているだなんてことはないんです。瞑想の場合には、目に見えないので、魔法的な結果を期待してしまう人もいるかもしれません。多種多様な瞑想方法の中には、マントラ瞑想のように、思考を止めるための効果が強いものもあります。

でも、無意識の仕事を自我が行ってしまうなら、無意識はいつまでたっても強くなれません。無意識とひとくちに言っても、その働きには個人差があります。最初から瞑想が得意な人がいるのは、無意識に個人差があるからでしょう。その個人差の理由に、輪廻が持ち出されることもありますが(過去生で瞑想をしていたとか)、そうではなく、生活習慣が影響しているのではないかと思います。

例えば、僕は西洋の哲学書を読むこともあるのですが、おそらくは、彼らは瞑想せずとも、瞑想ができるであろうなと感じる描写があったりします。椅子に座って思索をめぐらす。彼らは、思考を止めようとは思ってはいないはずです。でも、人は考え事をする時、言語化される思考を〝待つ〟ことも多いです。その姿勢は、実質的には思考を止めようと意識している状態と似ています。彼らは、思考に巻き込まれるのではなく、自我として、思考の主体でなければいけないので、そうできるだけの瞑想力は必要でしょう。

無意識が強くなることは、日常生活全体に影響します。それは、瞑想中だけとか、限定されたものにはなりません。多種多様な瞑想方法の問題点として、それは瞑想中にしか効果がないブーストのようなものだとお話しました。それゆえに僕は、意図的な瞑想を〝補助輪〟として表現してきました。ある程度の瞑想力がついたのなら、それらは取り除かなければならないものだと。でなければ、瞑想が日常生活になっていかないからです。

でも、今回僕が提案するのは、その〝補助輪〟すら使わない方法です。必ず転ぶことが前提です。転んでは立ち上がり、転んでは立ち上がりを強いる方法です。でも、それをするのは身体でも自我でもありません。無意識です。自我にできることは、その場を用意することと、無意識の仕事を見届けること。自我はサポート役です。マネージャーと言ってもいいかもしれません。一日の中で、とりあえず、静かに座っていられる場所と、時間を確保します。その努力だけは、自我が意図的に行う必要があります。でも、その後は、無意識に任せておけばいいんです。

「思考を止めなければならない」という言葉は、一旦忘れてください。当然、思考に巻き込まれるでしょう。場合によっては、瞑想している間、ずっと巻き込まれたままかもしれません。瞑想時間が10分とかだと、そういうことも十分あり得ます。でも、それでもいいんです。とりあえずは、自分が決めた時間の間は、身体を動かさずにジッとしていること。10分とか、20分とか、30分でいいんです。それは、自転車に乗れるようになるために、とりあえず、自転車にまたがってみるようなものです。

思考に巻き込まれるということ自体は、多くの人が、日常生活の中でも経験しているはずです。なので、「もし、それで瞑想力が上がるなら、私はすでに瞑想の達人のはずだ」と思う人もいるかもしれません。でも、なぜ、それで瞑想力が上がらないのかといえば、それは、そこに問題意識がないからでしょう。問題に思わないことは、無意識にとっても変える必要がありません。なので、とりあえず、「瞑想をする」というポジションをとること、そして、思考は止まらなくていいのですが、最終的には止まることが目的であること、このことを目標にするといいのではないかと思います。そうすれば、無意識にとっての、思考に巻き込まれるという意味も変わっていくはずです。

この瞑想方法に効果があると、信じ込もうとする必要はありません。必ず検証してください。この瞑想方法を実践するなら、思考に巻き込まれて、ハッと気づくまでの周期が短くなっていくはずです。10分間ハッと気づくことすらなかったのが、10分間の間に1回はハッと気づくようになっていく。その回数が増えていく。もちろん、こういったことは一直線に進むわけではなく、日常生活の忙しさにも影響されます。

思考には水圧のようなものがあり、仕事が忙しければ当然、思考の圧も高くなります。直近の仕事についての思考が湧き上がります。それはある意味では当然なのであって、そのことを気にする必要はないと思います。その場合には、自我として意図的に、仕事量を調節してください(それが難しいという場合には、今回の話とはまた別問題です)。それは、プライベートでも同じです。

でも、数ヶ月という単位で見れば、ハッと気づくまでの周期が短くなっていくはずです。そして、そのうち、巻き込まれるということ自体が少なくなっていくのではないかと思います。思考は起こっているんだけれども、巻き込まれてはいないという状態です。この段階にまでなると、瞑想の効果を明らかに実感できるはずです。もし、数ヶ月実践しても、何も変化が感じられないという場合には、僕の提案が間違っているか、実践方法にズレがある可能性があります。ぜひ、フィードバックをください。

そしてまた、思考に巻き込まれている状態から、ハッと気づいて戻ってくるのは無意識が行うので、そこに苦労はないと思います。ただ、考えられる困難としては、思考に巻き込まれることによって、感情が連動してしまうということがあります。例えば、思い出したくない記憶を思い出すとかですね。その結果、感情が湧き上がります。

その場合は、その感情を、瞑想対象にしてみてください。それが怒りであれ、苦しみであれ、喜びであれ、悲しみであれ。それは永遠には続きません。強度の強い感情は、ある意味では良い瞑想対象になり、思考に巻き込まれにくくなります。意図的な瞑想では、そういった感情も消していく(無視する)ことがその方向性なので、今までは、「苦しみを避けないこと、ただし、瞑想中は除く」というふうに提案してきました。でも、今回提案する瞑想の場合、そういうふうに分ける必要はなくなります。自我の手が、瞑想という行為でふさがれないからです。

思考を観察して止めてみよう

思考は起こっているけれども、思考に巻き込まれてはいない状態。僕が瞑想を描写する時、この状態を想定していることが多いです。その状態であれば、意図的に、思考をどうにかしようという方向性に向かうことができます。

多種多様な瞑想方法にしても、この状態でいることを前提にしているものがほとんどです。少なくとも、自我を保った状態でなければ、意図的な瞑想は行うことができません。

そして、自我を保てない状態において、行うことができる唯一のものは、無意識に任せる瞑想だけでしょう。そこに多様性がないのは当然です。自我を保つことなく、一体、どんな選択ができるでしょう?

思考を止めることが瞑想の目的。それはそうなのですが、自我を保つことが難しい段階においては、その前段階の準備が必要です。それが、今回、僕が提案していることです。そしてまた、無意識に任せる瞑想は、瞑想修行という行為を終わらせることができる(瞑想的な日常生活に移行できる)、唯一の瞑想方法でもあります。

僕自身、いくつかの多種多様な瞑想方法を実践してみました。でも、どの方法も継続する気にはなれず、結局のところ、無意識に任せる瞑想に落ち着きました。それはなぜかと言えば、意図的に瞑想することの意図性が邪魔に感じられたからでしょう。瞑想しようとする、自分自身が邪魔なんです。自我の意図性を感じると、無意識はサッと距離をとると言いましたが、それはつまりは、無意識の働きが消えてしまうということでもあります。自分よりも上手に瞑想をこなす存在を、わざわざ無効化してどうするんでしょう?

瞑想は、思考と自我の関係性。その通りなのですが、思考と自我を均衡させるのではなく、思考と無意識を均衡させることでも、思考は止まります。そして、自我が手ぶらになれる方法は、これしかありません。

思考は起こっているんだけれども、思考に巻き込まれていない状態。この段階に至れば、自我は、「思考を止めよう」と思うことができます。多種多様な瞑想方法の中からひとつを選んで、思考に立ち向かうこともできるでしょう。そうしたいと思うのなら、そうしてみるのもいいと思います。でも、必ずしもそうする必要はないわけです。

自我が保てるようになってくると、自我はその力を、自分のものだと感じ始めます。実際のところは、その状態を支えているのは無意識なのですが、無意識は黒子のように働いていて、自我には、それが自分の力であるかのように感じられます。この錯覚自体は、避けようがないと思います。そして、それでいいんです。自信を持てばいいんです。

そう簡単には、思考に巻き込まれなくなっているはずなので、瞑想することに手応えがあるはずです。思考と(無意識に支えられた)自我が均衡している状態です。湧き上がる思考を、観察することができます。そうすると次第に、思考が止まるようになるのではないかと思います。

もちろん、思考を止め続けるのは難しいでしょう。でも、思考が止まることが、増えていくのではないかと思います。多種多様な瞑想方法を実践せずとも、無意識の働きによって、瞑想力は上がっていきます。もちろん、自我が保たれているので、そこには「私が瞑想している」という感覚があります。「私が思考を観察して止めている」という感覚もあるでしょう。

でも、結局のところ、実践方法としては、思考に巻き込まれていた状態の時と同じです。とりあえず、瞑想するための時間と場所を確保すること。「瞑想する」というポジションをとること。最終的に、思考が止まることを目標にすること。それだけです。

30分、思考せずにいられることが瞑想のゴール

思考が止まるようになると、思考に巻き込まれていた時や、自我を保っている時とは、違う困難に直面する可能性があります。退屈を感じるようになるかもしれません。多種多様な瞑想方法を実践する理由が、退屈を避けるためという人も少なくはないでしょう。無意識に任せる瞑想では、自我は、思考に巻き込まれていたり、思考を観察していたりします。そこに退屈はないように思えます。ところが、思考が止まるようになってくると、自我は、思考という観察対象を失います。結果的に、退屈を感じるようになるかもしれません。

その場合、それが気になるなら、その退屈を瞑想対象にしてみてください。感情が連動した時と同じです。退屈の感覚は、簡単には消えないかもしれませんが、それも永遠には続きません。退屈の感覚も、消えるということが分かるでしょう。そして、退屈の感覚が消えた後に、解放感を感じるかもしれません。それはサマーディと呼ばれるもので、ハートの感覚です。瞑想を実践していると、それが感じられる可能性があります(神秘体験もサマーディとかハートの感覚と呼ばれたりするので、その判断は難しいかもしれませんが)。でも、だからといって、そのことに固執はしないでください。そしてまた、そのことを体験しなければいけないというわけでもありません(この段階においては)。ただ、現れる思考や感覚を見ていくだけです。

そうすると次第に、思考が止まっている状態が当たり前になっていくのではないかと思います。静かな部屋に、ひとり、ぽつんといるような感じです。それは物質的にというわけではなく、精神的にそう感じるということです。自我自身の思考が、非常に大きく響くようになるでしょう。そう感じるのなら、自我自身も、黙っているようにしてください。そうするとやがて、30分間、思考せずにいられるようになるのではないかと思います。僕は、それを瞑想修行のゴールだと位置づけています。

多種多様な瞑想方法を実践している人からすると、「そんな低いハードルがゴールになるはずがない」と思うかもしれません。マントラでも唱えるなら、わりと簡単にそれを実現できるでしょう。でも、意図的な瞑想の場合、自我自身が黙ってはいません。自我自身は例外だと思うんでしょうか? 僕がゴールにしているのは、自我自身も30分間、黙っていられるようになるということです。自我も思考も、30分間、黙っていられるようになるということです。

そう考えるなら、多種多様な瞑想方法を実践する人にとっては、それが高いハードルに感じられるのではないかと思います。何しろ、自我が意図的な瞑想を止めるなら、思考が湧き上がるだろうからです。

でも、無意識に任せる瞑想によって、その状態に至るなら、その理由に納得できるはずです。30分間、黙っていられるのは無意識の働きなのであって、その働きは、瞑想中だけに限定されるわけじゃないからです。瞑想が、日常生活になっていくことは自然な流れだとも言えます。

僕が探求者だった頃、瞑想で僕に張り合おうとする人がいました。彼は超能力者であり、僕は、なぜ彼が超能力を使えるのかということを不思議に思っていました。一方、彼からすると、なぜ僕の瞑想が、日常生活の中でも続いているのかが不思議だったようです。でも、無意識に支えられた瞑想に、自我が張り合えるはずがありません。それは、無意識的に行われる呼吸を、自我が意図的に行おうとするようなものです。

超能力を使うには、自我を意図的に強化する必要があるのかもしれませんが、瞑想力を強化するのに、自我を使う必要はありません。そして、真我実現に至るには、超能力は不要です。

そう考えると、真我実現を目標にするなら、多種多様な瞑想方法は、必要ないということになります。今までは、ある程度のところまでは、〝補助輪〟として、意図的な瞑想も必要だろうと思ってきました。僕自身、意図的な瞑想もある程度は行ってきたからです。でも、結局のところ、無意識に任せる瞑想に落ち着いており、おそらくは最初から最後まで、それで通用したのでしょう。

なので、瞑想の実践方法について軌道修正です。僕は空白JPで、「苦しみと退屈を避けないこと」ということをメインに提案してきました。瞑想については、推奨するけれども、必須ではないというスタンスでした。あくまでも〝補助輪〟というスタンスでした。でも、これからは、「苦しみと退屈を避けないこと」と、無意識に任せる瞑想を、合わせて提案していくかもしれません。それらは別々のものではなく、相互に関係し合っていて、にも関わらず、相互に干渉しないからです。自我と無意識は、その排他性ゆえに、連携させることができます。真我実現に至る実践方法としては、よりシンプルになったのではないかと思います。

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