今回は、Aさんから頂いた質問メールの中から、ひとつを公開します。
テーマはこんな感じになっています。
- 「私は在る」と「無」の状態は同じものか?違うものか?
- 神の意志を知ることはできるのか?
- ニルヴィカルパ・サマーディの境地に達すれば知ることができるのか?
一体、どうなんでしょうか?
Aさんからの質問
おはようございます。
何度も丁寧なご説明ありがとうございます。
日々の瞑想についてですが、基本的には思考との戦いに負けてばかりなのですが、今年の初め、新型コロナの話題が出る前くらいだったと思いますが、いつものように瞑想していると、座椅子に座っている感覚がなくなり、呼吸も止まり、心臓の鼓動も止まり、上下左右の感覚もなくなり、「無」の状態というか、ただ存在しているだけという状態になりました。
その後数秒で、この状態を自我が「怖い」と思った瞬間元に戻りました。
この経験はそれっきりで、これが「私は在る」なのかまた別の何かなのか
至福感も何もなく、無の空間に存在しているというより、空間そのものが自分で他に何もない状態でした。
山家さんはラメッシの本を読まれている時に「私は在る」がおこり、他のある方のブログでは引っ越しをしている最中におこったそうです。
ムージのYouTubeにこういうのがあるのですが、
この女性もこの時、「私は在る」を理解したのではないかと、だからムージはその女性に私は在るにとどまるように言ったのでしょう。
ということは、「私は在る」は寝ている時でもなく、瞑想中でもなく、起きているときにおこることなのかなと。
説明が分かりづらいとは思いますが、山家さんはこの現象どう思われますか?
その経験の後、日常で何か自分の感覚が変化したわけでもなく、今まで通りで、始めに言いましたが、瞑想中は思考に負けてばかりです。
そしてもう一つ、私は19歳くらい(2005年)から人生に疑問を持ち、スピリチュアルなことから探求が始まり、一昨年の年末にヨガナンダ、去年ムージなどのアドヴァイタの本に出会いました。
頭で理解できることは何となく理解したつもりですが、それでも何か欠けているところがあり、それは「神は何がしたいのか?」ということです。
山家さんのブログの中に、「神の自作自演」という文言があり、マハルシやユクテスワは「神の計画」という言葉を使っています。
ただそれが何なのかの説明がありません。
自分で調べた範囲でのことなのですが、真我実現した後にさらなる修行をしてニルビカルパ・サマディという境地に達すればその理由がわかるのかもしれないと思ったのですが、山家さんは何かご存知ですか?
すごく長い文章になってしまいましたが、ご返信はいつでも大丈夫なので、よろしくお願いします。
回答
Aさん。
こんにちは。
確かに、瞑想中、そういう状態になることがあると思います。
でも、それが「私は在る」なのかというと、ちょっと違うかもしれません。
「私は在る」というのは、なにか特別な状態ではなくて、常にここに在るんですが、思考とか感情とか思い込みとかに覆われていて、なかなかそうは感じられなかったりします。
そういったものを取り除くために、瞑想をしたりするんですが、
瞑想をすると、そこには集中力が発生しますよね。
なので、瞑想をしていると、「私は在る」に集中力をプラスしたような状態を体験したりすることがあるんです。
「無」が集中力によって拡大されたかのような感じでしょうか?
なので、怖いと感じるかもしれません。
「私は在る」は、その状態から集中力を取り除いた状態です。
なので、「私は在る」を自覚するときは、瞑想中じゃない時だったりすることが多いんです。
本を読んでいる時とか、引っ越し中とか、散歩中も多いと思います。
でも、そういった「無」の状態を経験するということは、思考が収まっている瞬間の継続がある証拠でもあるので、いい傾向だと思います。
「もう一度あの状態にならないかな〜」とか執着することなく、瞑想を続けていけばいいと思います。
次に、ムージの動画についてですが、
「私は在る」は、熟睡中も、夢を見てる時も、起きてるときも、瞑想中にも在るもので、「起こる」というようなものでもないんです。
ただ、それは最初のうちは、突如として現れるもののように感じるかもしれません。
雲間から光が差し込むような。
なので、最初に「これが「私は在る」なのかな!?」という経験をすると、それを特別な体験かのように感じてしまいます。
僕も、本を読んでいて、気づいたときの記憶を特別に覚えていますしね。
でも、雲が少なければ、光は常に差し込んでいます。
「私は在る」という状態が普通になってきます。
この動画の女性も、何かしらに気づいたんだと思います。
「私は在る」を理解したのかもしれません。
でも、多くの人は、そういった体験を特別なものとして扱ってしまいがちです。
「私は「私は在る」を知っている」という状態にとどまってしまうことが多いんです。
なので、ムージも「家に帰ったら、この状態について黙想すること」と言います。
1回、そういった体験をすれば、何かが変わるというようなものでもないからです。
大事なのは、「私は「私は在る」を知っている」から「私は在る」にきちんと定着させることなんです。
次に、マハルシやユクテスワの言う「神の計画」についてですが、
これについては、確かに疑問に思うと思います。
でも、結論を言ってしまえば、これは一生分かりません。
覚者も、神の意志を知ることはできないんです。
もっと言ってしまえば、神自身、自分の意志どころか、自分自身に気づいていません。
熟睡中は、何にも気づいていないのと同じです。
純粋な神という存在は、何にも気づいていないんです。
にも関わらず、神の中に、世界という現象が起きて、その中で、ストーリーが展開されていきます。
これはもう神秘としか言いようがなく、「神の計画」とか「神の自作自演」とか言う表現になっちゃうんです。
「神の計画」とか言うんですが、その内容については何も知りません。
ストーリーが展開することによって、初めて、神の計画が何だったのかということに、気がつけるだけです。
でも、それでいいんです。
覚者はそのことに対して疑問を持ちません。
そのことについて知らずにいることに、分離感を感じないんです。
寝ている間に夢を見たとして、起きた後に、夢の続きが気にならないのと似ています。
ちなみに、ニルヴィカルパ・サマーディは真我実現する前に体験しますよ。
マハルシの本とか読むと、ニルヴィカルパ・サマーディというのは「実在をとらえていること」と表現されているんですが、実在というのは、この世界においてはハートのことなんです。
なので、ハートの中にとどまることが、ニルヴィカルパ・サマーディです。
まあ、ニルヴィカルパ・サマーディにも2種類あって、日常生活を送ることができるサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディと、
意識を失ったような状態になるケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディがあります。
ちなみに、僕はケーヴァラの方は体験したことがありません。
僕は一時期、「ケーヴァラも体験しなければいけないのではないか?」と思っていたことがあったのですが、ケーヴァラの方を体験することは、必須じゃないんです。
このことはマハルシも言っていて、むしろ、ケーヴァラに執着してしまうと、真我実現が遠のくといったようなことを言っていたような気がします。
サマーディと言うと、一般的にはこのケーヴァラの方を指すことが多いように思いますが、そういった体験が起こることを期待する必要はないと思います。
僕も長くなってしまいました。
また、なにかあればご連絡ください。
それではまた。