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真我実現した後にやるべきことはあるか?/ダルマメーガ・サマディ【Q&A】

今回も、Aさんから頂いた質問メールのひとつを公開します。

テーマはこんな感じになっています。

  • ユクテスワ著「聖なる科学」の中で語られる「観念の遊戯」って何なのか?
  • 真我実現した後も、幽界→観念界と世界は続いていくのか?
  • サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディのさらに上に、ダルマメーガ・サマディがあるのか?

一体、どうなんでしょうか?

Aさんの質問

ユクテスワ著の「聖なる科学」という本があるのですが、ご存知でしょうか?

正直、私には難しすぎるのですが、その中に’唯一の真の実体である神が、変幻自在なご自身のからだをもって、ご自分の意識のうえに演じておられる、観念の遊戯にすぎないという実態…’という文があり、ここでは’観念の遊戯’という表現になっていますが、何故、遊戯しているのかに触れていないのが、やはり腑に落ちません。

この世で何度も苦しみ何度も生まれ変わり、真我実現を経ても、その後、「あるヨギの自叙伝」の第四十三章 ’スリ・ユクテスワの復活’によると、幽界→観念界→そして、ようやく永遠に真我に溶け込むという途方もなく長い流れなのだと思うのですが、私自身、この世での真我実現をしていない現状で、こういう答えの出ないことに対するモヤモヤした感情を抱いたままでも真我実現に至るのでしょうか?

そして、○○サマディという言葉がたくさんあって、何が何だかよくわからず、調べれば調べるほど、こんがらがっています。

真我瞑想法教本第24章

真我瞑想法教本第25章

昨日、たまたま見つけたサイトなのですが、この内容とユクテスワの内容を合わせると、このサイトの方のおっしゃるサハジャ・ニルヴィカルパ・サマディは観念界も終わった後に地上界のために降りてきた人(イエス、ブッダ、ババジなど)の境地のように思えるのですが、もしくは、真我実現した境地がサハジャで、このサイトの方のおっしゃっている境地は別のまだ上のサマディなのかもと思ったのですが、こういう真我探究やスピリチュアルなことにおいて、言葉と意味が共通認識として一致していないことはよくあるので、山家さんの見解をお聞きしたいです。

他のあるサイトでは’ダルマメーガ・サマディ’というものが最終のサマディらしいです。↓

サマディとは何か

結局、今の私に出来ることと言えば、毎日瞑想し、思考に勝ち、日常でも瞑想状態になれるようにすること、そして「私は在る」の理解が来るのを待つしかないので、あれこれ考えてもしょうがないのでしょうけど…マハルシは「知的に知るまでは、どのように修練するかもわからないでしょう。まず、知的に理解しなさい。そこから、そこで止まらず実践に移しなさい。」と言っています。

真我実現(探究)という言葉を知ったのは去年ですが、人生に疑問を持ち始めたのは15年くらい前からなので、もう遠回りしたくないというのが正直な気持ちです。

回答

Aさん

こんにちは。

まず、最初に言えるのは、世界は実在するわけじゃないということです。

これは、幽界とか観念界とかも含みます。
もっと言えば、5次元とか、もっと高次元とかもそうです。

そういったものは、人がイメージした、イメージとしての世界です。

真実はといえば、ユクテスワの言うように、「唯一の真の実体である神」だけがあります。
そこで終わりなんです。

例えば、クリストファー・ノーラン監督の映画で「インターステラー」というものがあります。

SF映画ですね。
結構面白いので、気になったら観てみてもいいかもしれません。
真理とは関係ないですけどね。。

その映画の中では、5次元の世界が映像化されています。

でも、その、5次元の世界は、単独では存在することができません。
必ず、テレビのディスプレイや、映画館のスクリーンに映し出されるわけです。
だからこそ、僕たちは、5次元の世界の映像を観ることができます。

幽界や観念界というのも同じです。

そういったものが存在するためには、必ず、「意識」が必要になります。
この世界が存在するためにも、「意識」が必要になります。
目には見ることができない、霊的な存在を見るためにも、「意識」が必要になります。

言ってみれば、ここに在るのは「意識」だけです。
この「意識」の中に、「この世界」や「幽界」や「観念界」や「5次元」や「高次元」や「霊的なもの」といったものが映し出されるだけです。

「この世界」の後に、「幽界」や「観念界」が続くわけじゃないんです。
この「意識」の中で、「この世界」や「幽界」や「観念界」がシミュレーションされているだけなんです。

そして、この「意識」を認識できるのは、体があるときだけです。
言ってみれば、体が死んでしまえば、「幽界」や「観念界」はありません。

おそらく、「幽界」や「観念界」が実在しているという考えが、そのモヤモヤした感情の原因になっているはずです。

真実はといえば、「この世界」すら実在はしていません。
そのことを理解した時に、モヤモヤした分離感が消えるはずです。

そして、この「意識」だって、「唯一の真の実体である神」から展開されたものです。

ユクテスワの言う、「観念の遊戯」というのは、
まさしく、意識の中で、様々なものがシミュレーションされているだけということを表しているんです。

世界が、単なる観念だということが分かれば、遊戯の内容については、気にならなくなるはずです。

この遊戯は、継続性があるわけではなく、一時的なものです。
夢みたいなものです。

実は、パラマハンサ・ヨガナンダは、ラマナ・マハルシに会いに行っています。
「ラマナ・マハルシとの対話」の第1巻、対話106と対話107で、対話の内容を確認することができます。

ラマナ・マハルシは、ヨガナンダを真我実現した人とは思っていないでしょう。
僕も、そうは思えません。

真我実現した人は、生と死を超えて、ハートの中にとどまり続けるだけです。
唯一の真の実体である神として、とどまり続けるだけです。

なので、真我実現した人が、地上界のために降りてくるということはないんです。
少なくとも、真我実現した人は、その必要性を感じません。

世界は実在しているわけじゃないからです。

極端なことを言えば、何十億年後には、この地球は、太陽に飲み込まれてしまうと言われていたりします。
もっと極端なことを言えば、この宇宙が膨張から収縮に転換するなら、この宇宙は消滅してしまいます。

この世界が実在しているのだとしたら、人類の存続は絶望的なんじゃないでしょうか?

でも、人の本質は、この宇宙を超えています。
なので、心配する必要はないんです。

サマディに関しても同じようなことが言えます。

モノゴトは、複雑にしようとすれば、いくらでも複雑にすることができます。
自我は、モノゴトを複雑にすることを好みます。

なので、サマディも、色々と細分化されていたりします。
特に、仏教とかヨガでは、かなり細かく細分化されていると思います。

でも、僕もちょっと調べてみましたが、ダルマメーガ・サマディを自分のものとして経験している人はいないように思います。
それが、どんなサマディなのかは、憶測で書かれているんじゃないかなと思います。

もしくは、経典とかに、そう書かれているのかもしれません。

ただ、サマディの本質は、ラマナ・マハルシが言うように「実在をとらえている」ことです。
ハートの中にとどまっていることです。

そこには、何のイメージもありません。
存在の喜びだけがあります。

一方、ダルマメーガ・サマディは法雲三昧と呼ばれたりもするようですね。
「法の雲から法の雨が降ってくる」と表現されていたり、「宇宙がどうだこうだ」と表現されていたりすると思います。

もし、そういったイメージ、体験をともなうのがダルマメーガ・サマディなのであれば、
それは、一時的な体験なはずです。

「もう一度、あの体験を」という執着すら生み出すかもしれません。

一方、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディは、常にここに在るものです。
覚者は、わざわざ、そこから抜け出して、ダルマメーガ・サマディを体験しようとは思わないはずです。

なので、不二一元論では、サマディは2種類だけしか語らないのだと思います。

サヴィカルパ・サマーディと、ニルヴィカルパ・サマーディです。
このどちらも、実在をとらえているサマーディになります。

まあ、ニルヴィカルパの方は、サハジャとケーヴァラの2つに分かれますけどね。

サヴィカルパは、瞑想中だけとか、努力をともなうサマーディです。
ケーヴァラ・ニルヴィカルパは、気を失っているような状態とか、努力をともなわないサマーディです。
サハジャ・ニルヴィカルパは、日常生活で、努力をともなわないサマーディです。

真我実現を目指すなら、目指すべきはサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ一択になります。

とはいえ、サマーディを目指す必要はないんです。
「私とは誰か?」を探求していくなら、自然と、そのサマーディは明確になっていきます。

神秘体験のようなサマーディと違って、そこには、スイッチのオン・オフのようなものはないんです。

そして、サハジャは、何か特別なものじゃありません。
もちろん、その状態を理解する人は稀なのかもしれません。

でも、誰もが、サハジャの中にいます。
ただ、無知とか無明に覆われていて、そのことに気がつけないだけです。

サハジャは、未知のものじゃありません。
懐かしいもので、馴染みのあるものです。

そして、無知とか無明を取り除くための方法が、瞑想であり、真我探求です。

なので、Aさんの現状には、問題はありません。
ただ、モノゴトを複雑化するんじゃなくて、単純化していけばいいんです。

最後には、実在する1つにたどり着きます。

また、なにかあればご連絡ください。
それではまた。

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