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瞑想

瞑想で”魔境に落ちる”ってどういうことか?【2つの魔境】

瞑想には”魔境に落ちる”という言葉があります。

なんだか恐ろしげな言葉ですよね。

でも、おそらく多くの人は、「私は魔境になんか落ちないよ」って思うんじゃないかと思います。

魔境に落ちる人というのは、無自覚に落ちているわけではなくて、好き好んで魔境に落ちているのではないかと考える人もいると思います。

僕もそう思います。

例えば、瞑想中に不思議な体験が起こることを期待する人もいますよね。

自ら魔境に落ちることを望んでいるわけです。

でも、それは”魔境に落ちる”ということの極端な例です。

実のところ、多くの人は、地味に魔境に落ちることもあるのではないかと思います。

魔境に落ちることはいけないことか?

そもそも論として、魔境に落ちることはいけないことなんでしょうか?

僕は、そんなことはないと思っています。

もちろん、積極的には勧めませんが、もし、魔境を望むならそれもいいのではないかと思っています。

というのも、”魔境に落ちる”という表現も、偏った一方的な視点でもあります。

おそらく、禅では瞑想中にブッダの姿を見たのであれば、それは魔境なのであって、そのことは忘れなさいと言うかもしれません。

でも、キリスト教の場合、キリストの姿を見たのであれば、多くの人はそれを喜ぶのではないかと思います。

信仰心の現れだと言われるかもしれません。

実際のところ、マザーテレサはキリストの声を聞き、奉仕活動に身を捧げることになりました。

キリストに「Come Be My Light(来て、私の光となりなさい!)」と言われたそうです。

禅の視点から見れば、これは魔境でしかないのですが、マザーテレサはそれを神の啓示として受け取ったようです。

(関連記事:覚者と聖者はどう違う?

また、インドには魔境に落ちることを良しとする聖者も結構いると思います。

例えば、ラーマクリシュナは魔境に落ちる名人だったのではないかと思います。

カーリー神の像の前で、それが生きて動く姿を見たいと望んで、瞑想に勤しんでいたりもしたようです。

そして、実際にそれを見たようです。

これも禅の視点からすれば、魔境以外のなにものでもないでしょう。

でも、インドでは、こういった体験を良しとする人達も少なくはないのかもしれません。

分かりやすく魔境に落ちる人は少ない?

一般的には、幻覚や幻聴にとらわれることを”魔境に落ちる”と呼ぶのではないかと思います。

例えば、マントラ瞑想を実践する場合には、他の瞑想に比べて不思議な体験をすることが多くなるかもしれません。

僕もほんの1ヶ月ほどマントラ瞑想を実践してみたことがありますが、頭の中を内側から押されているような圧迫感を感じたり、体の表面をさざ波のようなものが走ったりと、不思議な体験をすることがありました。

そういった体験にのめり込んでいったなら、まさしく分かりやすい意味で魔境に落ちたかもしれません。

でも、僕は、そういった体験にあまり意味を見出せませんでしたし、シンプルなサマタ瞑想の方がしっくりときていたため、マントラ瞑想は止めてしまいました。

また、僕はヴィパッサナー瞑想で幻覚を見たこともあります。

頭を白い稲妻に打たれて体を貫かれるような感覚が起こったことがありました。

ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想合宿に参加していた時なので、瞑想初心者の頃です。

明らかに異常な状態で、それは数秒で終わりましたが、あれは神秘体験(魔境)と呼んでもよいのではないかと思います。

でも、僕はそれにも重要性を見出すことはできませんでした。

「だから何?」って思ってしまうんですね。

そんなわけで、僕は分かりやすいように魔境に落ちることはありませんでした。

でも、気がつけば地味に魔境に落ちていました。

ある程度、瞑想が上達した後、どこに向かえばいいのか道を見失ってしまったんです。

瞑想に執着すること自体、魔境に落ちること

一般的に、瞑想というのは、そのゴールが具体的に語られることが無いと思います。

ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想でもそうでした(ゴエンカ式の活動自体は素晴らしいものだと思っています)。

どこが終わりなのかが語られません。

多くの場合、悟りを得るまで終わりは無いものとして語られることが多いのではないかと思います。

実のところ、それを信じてしまうことは、魔境に落ちることと同じです。

瞑想は手段であって、瞑想にはゴールがあります。

沈黙を保てるようになることが瞑想のゴールです。

瞑想の目的は、それ以上でも、それ以下でもないんです。

瞑想と悟りは、直接的な関係性がありません。

(関連記事:「瞑想」と「悟り」はどんな関係性なのか?

僕はヴィパッサナー瞑想ではなく、サマタ瞑想をメインに実践してきました。

なので、瞑想のゴールに気づきやすかったのかもしれません。

「瞑想するまでもなく、沈黙を保てるようになってきてるな……」って感じていたんです。

瞑想をして30分以上経たないと感じられなかったような沈黙が、瞑想をせずともここにあるように感じていました。

「もう、瞑想する必要なくない?」って感じ始めていたんです。

とはいえ、悟ったようには感じられません。

明らかに、まだ何かあると感じていました。

でも、それが何かが分かりませんでした。

少し情報収集してみたりもしましたが、そのことについて具体的に書かれているもの、具体的に知っていそうな人は見つけられませんでした。

「やっぱり、ヴィパッサナー瞑想を実践する必要があるのか?」とか、「やっぱり、霊性を高める必要があるのか?」とか思ったりもしました。

そう思うことは、僕にとっては魔境に落ちることと同じでした。

でも、直感的に、そうすることはむしろ真理から遠ざかることのように感じていました。

僕は、ヴィパッサナー瞑想を極限まで実践して悟ったという人を知りません。

ラマナ・マハルシはそもそも瞑想をしていません。

ニサルガダッタ・マハラジは、バジャン(神に捧げる歌や踊り)を実践していたようです。

おそらく、ヴィパッサナー瞑想は実践してないんじゃないかと思います。

また、ブッダ自身も、探求をしていた6年間ずっとヴィパッサナー瞑想を実践していたわけじゃないと思います。

もし、そうだったとしても、6年間で悟る可能性があるということです。

現代においてだって、6年間以上ヴィパッサナー瞑想を実践している人は少なくはないと思います。

ブッダだけが特別なんでしょうか?

ブッダは四諦の重要性を説いたと言われています。

四諦とは、この世は苦しみである、苦しみには原因がある、苦しみは滅することができる、その方法は、苦しみを観察し、その原因を観察し、苦しみが滅するところを観察することである、というものです。

(関連記事:四諦の道諦とは本当に八正道のことなのか?

それは、ヴィパッサナー瞑想を実践することなんでしょうか?

結局のところ、僕は修行としての瞑想は止めてしまい、瞑想的な日常生活を送るだけになりました。

そして、3〜4年後、探求は終わりました。

分かりやすく魔境に落ちることは、イメージしやすいと思います。

でも、地味に魔境に落ちることには、なかなか気がつきにくいかもしれません。

作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

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