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瞑想

瞑想は1回あたり何分間が最適か?【束縛に感じないように】

瞑想というのは、1回あたり何分間が最適なんでしょうか?

このことについて、明確な答えというのは、なかなか得られないのではないかと思います。

短くても良いという人もいれば、できるだけ長いほうが良いという人もいるかもしれません。

一般的には20分〜30分程度が良いと言われることもあるかもしれません。

でも、本当にそれが最適かどうかは分からないわけです。

実のところ、正解はありません。

人によるとも言えますし、本気度によるとも言えるんじゃないかと思います。

でも、僕なりに分かりやすい指標を使うならば、「束縛に感じない程度」が良いのではないかと思います。

束縛にならない程度が最適です

僕自身、「1回あたり何分間瞑想をしよう」と明確に瞑想時間を決めてはきませんでした。

統計的にみれば、1回あたり30分ぐらいが多かったと思います。

でも、1時間の時もあれば、10分とかの時もありました。

瞑想しない日もあったわけです。

できるだけ、毎日決まった時間瞑想したほうが良いと言われることもあるかと思います。

でも、もし、それが束縛に感じるようであれば、それは気にしなくても大丈夫です。

自分を束縛してまで瞑想をする必要性はないんです。

瞑想の目的というのは、頭の雑念を抑えて、沈黙を保てるようになることです。

そのために、人は、意志の力を使うことになります。

でも、実のところ、「決められた時間瞑想しなければならない」と思う意志自身も雑念のひとつなんです。

自由意志の感覚を持った雑念です。

このことは見落とされがちです。

瞑想の目的は、雑念のひとつである意志から解放されることでもあります。

なので、意志によって、「決められた時間瞑想しなければならない」と束縛されることになるなら本末転倒なんです。

もちろん、真理の探求において意志の強さは大事になってきます。

ただ、意志を特別な存在だと勘違いしてしまうことには注意が必要です。

最後には意志も黙らなければならないからです。

(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?

まあ、このことには、なかなか気づけなかったりするのですが、束縛される感覚というのは分かると思います。

もし、瞑想しようとすることに束縛を感じるのであれば、瞑想をしなくても良いですし、瞑想するにしても、束縛に感じない程度に時間を調節するのが良いのではないかと思います。

本気の探求者にとっては長時間の瞑想も束縛にならない?

瞑想が束縛に感じるかどうかは人によると思います。

例えば、本気の探求者にとっては、1時間ぐらいの瞑想は束縛には感じないかもしれません。

僕自身、本気の探求者でしたし、1時間の瞑想を続けていた時期もありました。

でも、それを束縛だと感じることはありませんでした。

好き好んでそうしているという感覚がありました。

長時間の瞑想はあまりやらないほうが良いと言われることもあります。

確かに、嫌々そうするのであればやらない方が良いです。

それは効果があるどころか、逆効果になるかもしれません。

でも、もし、それが束縛にならないのであれば、長くても良いと思います。

瞑想時間は、短いよりは長いほうが効果があるのは確かだと思います。

例えば、野球の素振りを毎日15分するのと、毎日1時間するのであれば、上達スピードに差がでるのは当たり前ですよね?

筋トレみたいに、筋肉の性質上やればやるだけ筋肉が増えるというわけじゃないなら話は別です。

でも、瞑想も野球の素振りも、あまりにも時間が短いよりは、ある程度の長さがあったほうが上達は早いのではないかと思います。

大事なのは、それが束縛にならないかどうかです。

瞑想を続けることができないんだけど?

もしかすると、瞑想を続けること自体ができないという人もいるかもしれません。

1日5分とかであっても束縛される感じがするという人もいるかもしれません。

そういう場合には、瞑想をする必要はないのではないかと思います。

むしろ、自分は本当に真理の探求をしたいと思っているのかを確認したほうがいいかもしれません。

現代においては、必要の無いものが、まるで必要であるかのように演出されがちなところがあります。

それは、真理の探求も例外じゃないのかもしれません。

僕は、すべての人が真理の探求をする必要があるとは思っていません。

むしろ、真理の探求をする必要がある人はきわめて稀なんじゃないかと思います。

すべてを捨ててでも真理を知りたいという人はどれぐらいいるでしょうか?

僕は、真理の探求をしてきた中で、そういった人と出会うことはありませんでした。

ある意味では多くの人が本気だと思います。

でも、その方向性が違うんです。

多くの人にとっての真理の探求とは、人生をより良く生きるという意味で使われるんじゃないかと思います。

でも、実際のところは、真理の探求とは人生を終わらせることです(探求が終わっても人生は続きますが)。

そこには大きなギャップがあります。

人生を終わらせるつもりがない人が、瞑想(冥土を想うこと)を続けることは難しいんじゃないかと思います。

ましてや、日常生活の中に瞑想を持ち込むことはできないでしょう。

(関連記事:瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?

瞑想が続くにしても、その場合には、仕事の効率を高めるためだったり、霊性を高めるために瞑想が利用されていくことになりがちなんじゃないかと思います。

もちろん、それは良いことだと思います。

むしろ、それが楽しめるならそうするのがいいと思います。

ただ、瞑想することを束縛に感じるのなら、無理に瞑想をする必要はないかもしれません。

作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」電子書籍(Kindle)を出版しました。

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