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形而上学 真我探求

本当に運命は決まっているのか?【自由意志と運命】

「運命は決まっている」と言われることがあります。

人が生まれてから死ぬまで、何が起こるのかあらかじめ決まっているということですね。

ラマナ・マハルシも、運命は決まっていると言いますし、僕も運命は決まっていると思います。

多くの人は、具体的な未来をイメージして「運命」という言葉を使うのではないかと思います。

そして、「そうか、運命は決まっているのか……」と思うかもしれません。

でも、僕は「運命」という言葉を聞いても具体的な未来を想定はしません。

自分の運命を知りませんし、知りたいとも思いません。

でも、運命は決まっていることを知っています。

人は、なぜ運命を気にするのか?

そもそも、人は、なぜ運命を気にするんでしょうか?

人類史上、わりと早い段階から、未来を予知できる超能力者は存在したんじゃないかと思います。

日本であれば卑弥呼とかですね。

未来を予知することと、政治は密接に関係していたんじゃないかと思います。

もしかすると、今だって無関係じゃないのかもしれません。

300〈スリーハンドレッド〉という映画があります。

300人のスパルタ精鋭兵と100万人のペルシャ軍との戦いを描いた映画です。

あまりにも無謀な戦いなんですが、スパルタ精鋭兵は善戦します。

戦いが始まる前に、スパルタ王であるレオニダスは、ペルシャ軍と戦うべきかを予言してもらうために、デルポイという聖地に神託を授かりに行きます。

結果としては、戦わないほうが良いという神託が下されるのですが、レオニダスはそれに従わずに、300人の精鋭兵を連れて戦いに向かうことになります。

安心したいのか? それとも運命を変えたいのか?

人が、予言や神託を聞こうとする理由は何なんでしょうか?

そこには、2つの理由があるんじゃないかと思います。

1つめは、安心したいということです。

もし、良い結果になる運命が予言されるのであれば、人は安心するんじゃないでしょうか?

必ずしもその通りになるわけじゃないのは経験則として理解しているはずなのですが、人は、良い結果になると予言されることによって、安心したりします。

2つめは、もし、悪い結果になる運命なのであれば、それを変えるにはどうすれば良いのか知りたいということです。

運命を変えたいということですね。

スパルタ王のレオニダスの場合にはこちらになりました。

「戦わずしてペルシャに屈することはあり得ない! であるなら、その運命を変えてやろう!」という選択をとることになりました。

人は運命を変えることができるのか?

人が、運命を気にする本当の理由は、その前提に「運命を変えることができる」と思っていることがあります。

もし、運命に問題があるのであれば、変えてしまえばいいんです。

なので、人は自分の運命を知りたいと思うのではないかと思います。

もし、運命が変えられないのであれば、自分の運命を知りたいと思うことはないんじゃないかと思います。

良い運命だろうが、悪い運命だろうが、それを変えることができないのであれば、運命を知ることにはあまり意味は無いんじゃないでしょうか?

運命という言葉には、実のところ実体がありません。

運命とは仮想上のストーリーのことです。

僕は、100%の精度で未来を予知することができる超能力者を知りません。

予知する人によって、違う運命が語られるということもよくあるのではないかと思います。

確かに、何かしらを予知しているとしか思えないこともあります。

でも、その精度は天気予報以上ではないでしょう。

予知能力者によって語られた運命を変えようとすることは、まだ固まっていないコンクリートの上に、家を建てようとするようなものです。

雨が降るという予報を聞いて、傘を持っていったけれども、雨は降らなかったなんてことは良くあるんじゃないでしょうか?

自由意志は存在しない

ラマナ・マハルシが「運命は決まっている」と言うことの、本当の真意は「自由意志は存在しない」というところにあります。

「私はあらゆる人の運命を知っていて、運命は決まっているということを知っている」という意味で、運命は決まっていると言っているわけじゃないんです。

どちらかというと、運命をあまりにも気にしすぎてしまう人に対して、「話はそこで終わりだよ」という意味で使われることが多かったんじゃないかと思います。

多くの人は、自由意志の感覚ゆえに、運命は変えられると思っています。

例えば、「今、私が右手を挙げることも運命で決まっていたことなんでしょうか?(右手を挙げながら)」と言う質問者に対して、ラマナ・マハルシが「そうです」と答えるシーンがあります。

質問者は、自分が右手を挙げることは自由意志によるものであって、そのことがむしろ、運命に影響を与えるのではないかと思っているんです。

もしそうであるなら、自由意志とは運命を超えた存在です。

であるなら、運命を気にする必要なんて無いんじゃないでしょうか?

運命がどうであれ、自由意志は運命を超えているんですから。

でも、多くの人は、運命をコントロールしたがります。

自分は自由意志として運命を超えていると感じているにも関わらず、運命に束縛されているとも感じているんです。

矛盾してますよね。

その原因は、自由意志が存在しているという勘違いにあります。

多くの人は、自由意志と運命は、対立する概念だと思っているんです。

そして、運命の方が自由意志に従うべきだと考えています。

もし、そうだとするならば、運命という存在に価値はないんじゃないでしょうか?

人は、運命を気にしているのではなく、ただ、現実を理想通りにしたいと思っているだけなんじゃないでしょうか?

でも、実際のところは、自由意志が存在していると感じるのは錯覚なんです。

(関連記事:自由意志は無いとはどういうことか?【非二元・ノンデュアリティ】

自由意志と運命が対立していると感じるのも錯覚です。

もし、自由意志が存在しないのであれば、世界中のすべては運命通りに動いていることになります(自由意志のように感じるものも含めて)。

まるで、映画のようにです。

であるなら、運命(ストーリー)を知らずとも、「運命は決まっている」と言うことができるんじゃないでしょうか?

300〈スリーハンドレッド〉の映画を観たことがない人であっても、スパルタ王であるレオニダスの運命はすでに決まっているということを知っているんじゃないでしょうか?

作成者: 山家直生

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