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Q&A ハート・真我 退屈

ハートとは何か?/退屈が退屈じゃなくなる瞬間は訪れるのか?【Q&A】

今回も、Aさんから頂いた質問メールを公開します。

前回の「真我実現した後にやるべきことはあるか?/ダルマメーガ・サマディ【Q&A】」の続きです。

テーマはこんな感じになっています。

  • ハートを理解するってどういうことか?
  • 「苦しみ」と「退屈」を受け入れるってどういうこと?
  • 退屈が退屈じゃなくなる瞬間が訪れるのか?

一体、どうなんでしょうか?

Aさんからの質問

山家さん、こんにちは

いつも、ありがとうございます

腑に落ちない気持ちは否定しようがないですが、結局のところ、真我実現することが喫緊の(唯一の)目標なので、真我実現してそれでも疑問が残るなら、その時考えればいいかなと

なので複雑に考えず根本に立ち返って、真我実現のための3つの理解についてなのですが、「私は在る」の理解のために瞑想をしているのは以前お話しましたが、「ハート」の理解について、山家さんのブログの中で、苦しみや退屈を受け入れるとおっしゃっていましたが、具体的にどう受け入れるのか、向き合うのかというのがイマイチよくわからなくて、そのあたりを細かく教えていただけるとありがたいのですが

自分自身の苦しみについて分析してみると、過去の嫌なことはそういう経験があっての今だと思えるようになりましたし、現在、未来の苦しみについては、なるようにしかならないしと思っているので、最初の話ではないですが、やることやってダメならまた考えればいいかなというスタンスでいます。

どうしてこうなったのかわかりませんが、だんだんこの世のことに興味がなくなるにつれて、相手に対してイラッとしたり、嫌な思いをしていたことが今はなくなったというか、どうでもよくなった自分がいます。

退屈については、退屈を受け入れる、向き合うというのは、何もしないことをするという意味では瞑想することと近いような気もするのですが、違いますか?

「私は在る」の理解の瞬間については山家さんや他の方の話で何となく理屈はわかるのですが、「ハート」を理解し終えた瞬間というのがどういうものなのか境目がわからないので、何か基準があれば教えてください。退屈が退屈でなくなるという瞬間が訪れるのでしょうか?

回答

Aさん

こんにちは。

> 腑に落ちない気持ちは否定しようがないですが、結局のところ、真我実現することが喫緊の(唯一の)目標なので、真我実現してそれでも疑問が残るなら、その時考えればいいかなと

そうです。そうです。
ラマナ・マハルシも良く言いますもんね。

真我実現してから、それでも気になるなら確かめてみればいいんです。
その時間はあります。

ちなみに、「ハート」の喜びというのも、「私は在る」と同じように、未知のものじゃないんです。
Aさんも、絶対に経験しているはずです。

それは、例えば、小学生の頃の、夏休みの初日みたいな感覚です。
学校から解放されたときの喜びです。

テスト期間が終わって、試験勉強から解放されたときの喜びもそうです。
やらなければいけない仕事をやり終えた時の、達成感というか、解放感もそうです。
二度寝しているときの心地よさもそうです。

「ハート」の喜びというのは、それに似ています。

でも、そうなのであれば、ハートの喜びを感じるには、何か理由が必要なように思えますよね。
目の前の世界がどういう状況かによって、それが決まるかのように思えます。

でも、そうじゃないんです。

ハートの、飽きることのない喜びというのは、常にここに在ります。
そこには理由がいらないんです。

サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディというのは、夏休みの初日の喜びがずっと続いているような感じです。
目の前の世界がどういう状況かには関係なしにです。

「じゃあ、なんで、それが感じられないんだ?」というのが、ハートの探求になります。

人は、物心ついた頃から、目の前の世界の状況が、感情に直結するということを、経験し続けてます。
あまりにも、そのパターンを強化しすぎてるんです。

何かをすることで、心地よい感情が得られるというパターンに馴染みすぎてるんです。
もっと言えば、目の前の世界が、自分の理想的な状態になれば、心地よくなるというパターンに馴染みすぎてるんです。

確かに、自分の理想的な状態になれば、心地よく感じます。
でも、理想的な状態って続きませんよね。

そして、このパターンでいくなら、常に、理想に近づくための努力をしないといけないことになります。
しかも、必ずしも、理想通りになるとは限らないわけです。

なので、このパターンでいくなら、苦しみが積み上がるのは当たり前なんです。

一方、真我探求というのは、このパターンと真逆です。
理想を握りしめようとする、この自分とは何なのかを探求していきます。

この自分というのは、理想的な世界を思い描くのが好きです。

それはなんででしょう?

その理想を実現したら、心地よくなれると思っているからですよね。
理想を実現せずとも、イメージする過程が楽しかったりしますよね。

でも、この自分は、なぜ、理想を実現すると、心地よくなるのかの理由を知りません。
もしくは、気がつかないフリをしています。

それは、理想を実現すると、その瞬間だけは、理想から解放されるからです。
ハートが、一時的に、理想の束縛から解放されるからです。

理想を思い描くことは、楽しいことかもしれませんが、結果としては、ハートを理想で縛ってしまう行為なんです。
ハートの喜びが、感じられなくなるのは当然です。

この自分は、「まさか、この自分がハートの喜びを覆い隠している」だなんて、気がつきたくはないんです。
もし、本当の意味で、そのことに気がついてしまったなら、この自分は、人生の主導権を握りつづけることはできなくなります。

だって、用がないなら、姿を消していたほうがいいわけですから。
そうすれば、ハートの喜びが覆い隠されることはなくなります。

それは、もちろん、この自分も望んでいることです。
ただ、この自分は、世界の中で、個人として存在することにも非常に魅力を感じるんです。

そして、なによりも、理想を手放せば、ハートの喜びは覆い隠されないということを、なかなか信じられないんです。
それって、ただ、「退屈なだけなんじゃないの?」とか「苦しむだけなんじゃないの?」と思ってしまうんです。

もちろん、それは当然です。

なので、真我探求では、それを確かめる必要があります。
なので、僕は「苦しみ」と「退屈」を避けないことと言います。

まず、苦しみについてですが、自分から苦しみを追いかける必要はないです。
というか、今ここに、苦しみがないなら、自分から苦しむことなんてできないですよね。

わざわざ、自分で過去の嫌な記憶を探してみようとしたり、未来への不安を探そうとする必要はありません。
そんなことをしなくても、自然と苦しみはやってきますから。

もし、苦しみがやってきたなら、その首根っこを捕まえて、飽きるまで味わってみればいいんです。
ちょっと荒療治ですけどね。

首根っこを捕まえてというのは、つまりは、飽きるまで、思い返すということです。
で、「あ、自分はこの苦しみ(記憶とか思い込み)に飽きたんだ」ということを確認するんです。

必ず、飽きると思います。

> どうしてこうなったのかわかりませんが、だんだんこの世のことに興味がなくなるにつれて、相手に対してイラッとしたり、嫌な思いをしていたことが今はなくなったというか、どうでもよくなった自分がいます。

これは、つまり、良い意味で飽きてきたんだと思います。
どうしてだかわかりませんが、人は、ハートの飽きることのない喜び以外は、あらゆることに飽きてしまうんです。

> 退屈については、退屈を受け入れる、向き合うというのは、何もしないことをするという意味では瞑想することと近いような気もするのですが、違いますか?

これは、そのとおりです。
瞑想をするということは、退屈するということでもあります。

でも、自我って、瞑想中にも何かしらの行動をしようとしますよね。

例えば、うちの妻は、瞑想の座り方とか、瞑想中に意識をどこに向けるかとかにこだわります。
「そんなことをせずに、普通にソファーに座って瞑想すれば?」とか言うと、「それじゃあ寝ちゃう!」と言います。

つまりは、瞑想中にも、自我は活発に活動しているんです。
集中力を活性化させてるとも言えます。

もちろん、思考がなかなか収まらないうちは、それでいいんですが、段々と、自我がやるべきことを減らしていくのがいいです。

退屈が退屈でなくなる瞬間というのは、訪れます。
それこそ、自我にやるべきことが無くなっているときに、訪れる可能性が高いと思います。

例えば、呼吸を瞑想対象にしているのであれば、呼吸に意識を集中することすら、めんどくさくなることがあったりします。
瞑想が深くなってくると、瞑想対象に意識を向けるのも、めんどくさくなります。

もし、そうなったら、なにもしなくてもいいんです。

そんな時に、退屈が退屈でなくなったりします。
ハートの喜びというのは、これかと、気がつくはずです。

また、なにかありましたら連絡ください。
それではまた。

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