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Q&A ラマナ・マハルシ

ラマナ・マハルシの「至高の力にすべてを任せる」とはどういうことか?【Q&A】

今回は、KWさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。

KWさん、ありがとうございます。

※今回は6500文字ほどの長文です。

KWさんからの質問

お久しぶりです。KWです。マハルシの言葉でわからないのことがありまして質問させてください。

> どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。

ここが全くわかりません。

> 神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?

その力に身を任すとは、どういうことなのでしょうか? 生活に支障が出るような感じがしてしまうのですが自我がやっていることさえも任すということですか?

> われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。

ここは、私ー私でいなさいということでしょうか?

お答えいただけると幸いです。

回答

KWさん
こんにちは。

お久しぶりです。

質問に答える前に、ひとつ、「重荷」とは何かというお話をしてみますね。

例えば、KWさんは何かの束縛から解放された感覚を味わったことがあると思います。

大きな仕事をやり終えたときとかですね。
土日休みの人であれば、金曜日の仕事終わりに解放感を味わったりとか。
大抵の場合、その解放感はあまり長くは続かないのですが、誰しもがその解放感を味わったことがあると思います。

ここではその解放感がずっと続くものとしてイメージしてみてください(信じがたいかもしれませんが)。
ラマナ・マハルシはその視点から語っているからです。

多くの人にとっては、その解放感は一時的なものなのですが、ラマナ・マハルシにとってはそれは継続的なものです。
それが自然な状態なんです。

その自然な状態の上に、喜怒哀楽の一時的な感情が起こったりします。
楽しんだり、喜んだり、場合によっては怒ったり、悲しんだりですね。

ラマナ・マハルシだって怒ったり悲しんだりするんです。
でも、それは一時的なことで、それが去れば解放的な自然な状態がそこには在ります。

ラマナ・マハルシは、喜怒哀楽の感情が起こることを避けたりはしません。
ただ、喜怒哀楽の感情に執着することはしません。
喜怒哀楽の感情に執着してしまうことが、自然な状態を妨げてしまうことを明確に理解しているからです。

多くの人はその逆をやってしまいます。
嫌な感情を避けて、心地よい感情を得るために、自分自身を目的で束縛してしまいます。
そのことが解放的で自然な状態を妨げているという自覚なしにです。

目的を達成した時だけ、一時的に目的が失われて、「は〜、解放的〜」と解放感に浸ります。
そうして人は、自分自身を目的で束縛することは、心地よい感情をもたらし、解放感をもたらすと勘違いしてしまいます。

でも、楽しいという感情は一時的なものであり、楽しさに飽きてしまった後には、目的に束縛された状態だけが残ってしまいます。
目的達成できるのならまだいいのですが、それができない場合には八方塞がりのように感じるかもしれません。

ラマナ・マハルシからすれば、その八方塞がりの状態はとても不思議な状態なんです。
「その目的を手放せばいいだけじゃない?」ということになります。

ラマナ・マハルシの言う「重荷」というのは、この目的のことです。

>> どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
>
> ここが全くわかりません。

これは、人がどんなに自分自身を目的で束縛して、八方塞がりに感じられたとしても、解放的な自然な状態が失われるわけではないということですね。

>> 神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
>
> その力に身を任すとは、どういうことなのでしょうか? 生活に支障が出るような感じがしてしまうのですが自我がやっていることさえも任すということですか?

これはなかなか理解しがたいかもしれません。
自我がやっていることさえも任すというのはその通りです。

自我が人を動かしているというのは、探求者であれ覚者であれ違いはないんです。

ただ、探求者の場合、自我のおもむくままに行動していれば、自身を束縛する方向性に向かっていきます。
覚者の場合、どれだけ自我を放っておいたとしても、自我は解放的な自然な状態に向かっていきます。

言ってみれば、覚者の自我は良く調教された羊のようなものかもしれません。
ラマナ・マハルシは「その力にまかせなさい」と言いますが、まずは、自然な状態とは何かということを、自我のリーダーたる意志として自我に教え込む必要はあるかもしれません。
まずは、自我のリーダーたる意志として、自身が自然な状態にとどまる必要があるかもしれません。

もし、そう思えるのならそれだって神の至高の力です。

>> われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
>
> ここは、私ー私でいなさいということでしょうか?

そうです、そうです。
「私ー私」でいなさいということですね。
解放的で自然な状態です。

(関連記事:「私−私」と「私は在る」は違う意味なのか?【ラマナ・マハルシ】

人は自分で方向性を決めなければどこにも向かえないと思ってますよね。

もちろん、体にとってはそうです。
ラマナ・マハルシはここでは体のことを列車と言っているのではないかと思います。

意志というのは体ではないですよね。
でも、意志は体の責任者だと思っています。
自分が方向性を決めなければ、この体は機能しないと思っています。

そうなのではなく、自我に任せておけばいいんです。
この体の人生の責任を背負わなければいけないという重荷はおろしてしまえばいいんです(それが難しいんですが)。

意志の仕事というのは、この体を使って心地よい感情を得ようとすることじゃなくて、すでにここに在る解放的で自然な状態にとどまることなんです。

KWさんからの返信

ご返答ありがとうございます。

> 「その目的を手放せばいいだけじゃない?」ということになります。

その目的がどうしても達成しなければならい仕事だった場合は、どういうことになるのでしょうか?

> 自我のリーダーたる意志として自我に教え込む必要はあるかもしれません。

こちらのブログで言われている、思考が出て来たときに打ち消すということだったり、苦しみに飽きるということですね。最近思ったのですが、ある程度、自我が成長しないとやはり厳しいと思いました。結局自我として、過ごしてきた時間が長いため、それを少しずつ納得させないといけないような気もしました。

> この体の人生の責任を背負わなければいけないという重荷はおろしてしまえばいいんです(それが難しいんですが)。

これは、普通の人は、仕事に失敗した→一体化して苦しむ→問題解決するまで苦しむ。覚者は、仕事に失敗した→苦しみが起きる→自我成長している分、自然な状態の戻りが早いみたいな感じなんでしょうか?

回答

KWさん
こんにちは。

>> 「その目的を手放せばいいだけじゃない?」ということになります。
>
> その目的がどうしても達成しなければならい仕事だった場合は、どういうことになるのでしょうか?

最終的にはどうしても達成しなければならない仕事は無いという結論に至るんですが、なかなかそうは思えないですよね。
極端な話で言えば、「じゃあ、その結果死ぬとしたらどうするの?」という疑問がでてきたりすると思います。

当然僕もそう思っていましたし、それは達成しなければならない仕事があるという言い分としてはとても説得力を持ちます。

でも、最終的には「その結果死ぬとして何か問題でも?」という結論に至ってしまうんです。

もちろん、明日には餓死してしまうというなら、なんとかして食べ物を得る仕事をするかもしれません。
でも、その仕事をするための感情的なエネルギーが湧くかどうかは自分ではコントロールできないわけです。
もし、そのエネルギーが湧くのであれば、それは餓死する運命に無いということかもしれません。
もし、そのエネルギーが湧かないのであれば、それは餓死する運命にあるということかもしれません。

探求が終わるということは、死の恐怖が消えるということとほぼ同義だったりします。

もし、KWさんにとってどうしても達成しなければならない仕事があるという感情的なエネルギーが発生しているのであれば、それはそうせざるを得ない運命かもしれません。

>> 自我のリーダーたる意志として自我に教え込む必要はあるかもしれません。
>
> こちらのブログで言われている、思考が出て来たときに打ち消すということだったり、苦しみに飽きるということですね。最近思ったのですが、ある程度、自我が成長しないとやはり厳しいと思いました。結局自我として、過ごしてきた時間が長いため、それを少しずつ納得させないといけないような気もしました。

これは自我がどうこうというよりも、意志の問題なんです。
自我というものが、勝手に現れる思考やイメージなのだとすれば、意志というのは、それを観察する人であり、かつ、自身も独自に思考したりイメージしている人です。

真理の探求というのは、外向きに向かう感情エネルギーと、内側に向かおうとする意志の力とのせめぎ合いのようなところがあります。
なので、ラマナ・マハルシは「瞑想は戦争である」とか「心をハートに沈めなさい」とか言います。

意志自身がハートにとどまることができないうちは、自我がハートに向かい始めるということはないんです。

ただ、外向きに向かう感情エネルギーが強いうちは、なかなかそうすることも困難かもしれません。
その場合には、感情エネルギーの気が済むまで外向きに行動してみるというのもひとつの手なんです。

とことん行動してみて、結果がどうであれ、その行く先を観察してみればいいんです。
例え、思い通りいったとしても、その満足は一時的なものであって、後にはなにかしらの不満が残るのではないかと思います。
思い通りにいかなかったとしたら、やっぱり不満が残るのではないかと思います。

外向きに行動したって結局不満が残ると学習すれば、外向きに向かう感情エネルギーは弱まっていきます。
そのことを自我を成長させると言ってもいいかもしれません。

そこで改めて内側に向かったっていいんです。

>> この体の人生の責任を背負わなければいけないという重荷はおろしてしまえばいいんです(それが難しいんですが)。
>
> これは、普通の人は、仕事に失敗した→一体化して苦しむ→問題解決するまで苦しむ。覚者は、仕事に失敗した→苦しみが起きる→自我成長している分、自然な状態の戻りが早いみたいな感じなんでしょうか?

覚者の場合には結果に期待するということがないので、そもそも「仕事に失敗した→苦しみが起きる」というルートを通らないかもしれません。
仮に苦しみが起こったとしても、自然な状態への戻りが早いというのはその通りだと思います。

覚者が苦しむ時は、自分で決めた目的が思い通りにいかなかった時というよりは、自然発生的なものが多いと思います。

例えば、ラマナ・マハルシは嘆き悲しむ探求者を前にして、目をうるませることもあったようですし、母親が亡くなったときには泣いたとも言われていたと思います。

KWさんからの返信

ご回答ありがとうございます。
自分は、別にいつ死んでもいいと思っているので、その結果、死んでも構わないですが、仕事に欲があるという感じではなく、普通に暮らせなくなった時の起こる何らかの苦痛を避けるために働くという感じです。
死の恐怖というよりかは、死に至る時の起こるかもしれない激痛とかの恐怖はあります。自分で避けられる無用な苦痛は、基本避けたいと思っています。言葉足らずで、すいません。

自我と意思を分けるのがちょっとわからないのですが自我がなければ意思もないと思うのですが…とことんやるのはもう経験しているので、何かしら不満が残るのは、わかります。
なるほど、結果に期待する事がないのですね。世界に対して死んでいるの意味がわかりました。ありがとうございます!

回答

KWさん
こんにちは。

身体的な苦痛への恐怖はありますよね。
でも、探求が終わればそういった恐怖も消えてしまうかもしれません。

もちろん、目の前の身の危険を避けるという反応は当然あるんですが、起こるか起こらないか分からない将来への不安は無くなると思います。

覚者といっても、身体的な苦痛を避けられるわけじゃないですよね。
ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジはガンで亡くなっていますし、イエス・キリストは槍で突かれていますし、ブッダはキノコにあたったと言われています。

でも、ラマナ・マハルシも、ニサルガダッタ・マハラジも、イエス・キリストも、ブッダも、将来のことを気にしたりはしていなかったはずです。

将来を気にするということは、未来へのイメージにリアリティを感じているということなんです。
覚者というのは目が覚めた人なのであって、起こるか起こらないか分からない将来へのイメージを現実と錯覚してリアリティを感じることはないんです。

もちろん、将来へのイメージを参考に、何かしらの行動をしたりはするんですが、漠然とした不安を感じるということはなくなってしまうのではないかと思います。

> 自我と意思を分けるのがちょっとわからないのですが
> 自我がなければ意思もないと思うのですが…

自我と意志を分けるのは、そこに勘違いが起こりやすいからなんです。
例えば、ラマナ・マハルシは「自我とは警察官のフリをして泥棒を捕まえようとする泥棒のことである」と言ったりします。

ここで使われている自我というのは、思考を観察しようとする観察者のことですね。
瞑想をしようとするその人は警察官のフリをした泥棒なんです。

これはなかなか自覚をすることが難しいと思います。
警察官のフリをした人は絶対にこのことに気がつきたくなんかはないからです。

僕も当然勘違いしていましたし、おそらくKWさんも勘違いしているのではないかと思います。

自我がなければ意志も無いと思うかもしれませんが、そこには「瞑想しなければならない」とか「沈黙を保たなければならない」という意志がいたりはしないでしょうか?
瞑想をしていて、思考がなにも無いときに「私は存在しない」と思うその人は存在しているんです。

警察官のフリをした人は自分を特別扱いします。
「自分がいなければこの体は動くことができないじゃないか!」と思ったりするんです。

ラマナ・マハルシが重荷というのは、そういった思い込みのことでもあって、「あなたは警察官のフリをした泥棒なんですよ」と言っているようなものでもあるんです。

探求の初期においては、瞑想することが推奨されますし、沈黙を保つことが推奨されます。
でも、その延長線上に真我実現があるわけじゃないんです。
途中で折り返します。

この体を動かしているのは自我(思考)なのであり、観察者たる意志が主導権を握っているわけではないということに気がつくことになります。
意志というのは自由意志の感覚をともなった思考のひとつでしかないということに気がついてしまいます。
むしろ、ハートを覆い隠しているのはその意志であり、邪魔でさえあるんです。

そのことに気がついてしまったなら意志は消えるしかないんです。
意志が現れる場所であるハートにとどまるしかないんです。

もちろん、意志というのは実体があるわけじゃないので、意志は現れたり消えたりします。
でも、基本的には消えている(ハートにとどまっている)ほうが解放的なのであって、体のことは自我に任せておけばいいと思うようになるんです。

とはいえ、そのことに気がつくまでは、体のことは自我に任せておけばいいと思えるようになるまでは、瞑想を続ける必要はあるかもしれません。

(関連記事:ラマナ・マハルシの名言【眠りのない眠り】