今回は、TAさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。
TAさん、ありがとうございます。
TAさんからの質問
はじめまして
私には幼少期より、この世界で自分とはなぜ自分だけなのかということが不思議だという思いがあります。
隣りにいる友人にも中には自分と全く同じ自分がいるかもしれない、ほんとは自分の分身みたいなものではないかと考えたりしていました。還暦を迎えた今日でもそのように考えてしまうことがあります。
なぜこんな奇妙なことを考えてしまうのか理由はわからないです。
そしてその意識のことを自我と呼ぶべきか深層意識と呼ぶべきかもハッキリしません。
私は輪廻転生や魂などを信じてはいないのですが、例えばこんなこともあるのではと。
例えば明日自分が死ぬとします。
そして、その何日後かあるいは数年後、あるいは何百年後かに、突然今と同じ自分という意識が蘇るのではないかと。
それを輪廻転生と言うんじゃないの?って言われるかもしれないですが、決してそういうことではありません。
前の人生とは接点も無く記憶も無く、肉体も違う、生まれてきた環境も違う。
見た目も性質も全くの別人ではあるけれども、その中の意識は過去にいた自分。
ただ、そのことには決して気づくことはない。
生まれ変わりと言うよりも、新しい意識としてこの世界に蘇る。再びこの世界の景色を見る。人と接しながら再び人生を歩む、ということです。
おそらく100年前にはこの世界にいなかった自分がこの世界に生まれて今こうしてメッセージを書いています。
エゴなのか自我なのかなんと呼んでいいのかはわかりませんが、この世界に生まれ意識が芽生えたということは、再びこの世界に意識が芽生えることもあり得るのではないか?
もしかすると生まれ前の過去に別の人生を歩んだ自分という意識が複数あったかもしれないのではないかと考えてしまうのです。
魂が存在するのであれば解決しやすいテーマだとは思うのですが、前述したとおり私は魂は存在していないと考えています。
私のただの思いつき、空想かもしれませんが、ご教示頂けましたら幸いです。
回答
TAさん
こんにちは。
メッセージありがとうございます。
魂は存在しないと思うけど、この意識はまるで輪廻するかのように再び現れるのではないか、と考えるのは大いにあり得ると思います。
僕自身、もし、他の人にも自分と同じように意識があるのであれば、その意識は同一のものだろうと思っています。
こういったことは色々と想像することができると思います。
でも、なかなか確信が持てないですよね。
その理由は、やはり意識とは何なのかということを理解することが難しいからなのではないかと思います。
> そしてその意識のことを自我と呼ぶべきか深層意識と呼ぶべきかもハッキリしません。
まさしく、ここが焦点になるのではないかと思います。
ここに意識があるという感覚は明らかなのですが、いざ、それを特定しようとすると難しいと思います。
自我が意識であるようにも感じられます。
でも、そもそも自我という言葉もかなり曖昧なものですよね。
「我思う故に我あり」
デカルトの言葉ですが、我が思わないときにも(黙っているときにも)ここには意識があるように感じられるのではないかと思います。
TAさんはそれを認識しているのではないかと思います。
それは深層意識であるように感じるかもしれません。
でも、深層意識の中身を確認することはできないと思います。
深層意識という言葉は単なるラベルです。
無自覚な行為や考えが発生したり、存在する感覚を感じるのは、深層意識という存在があるからであろうと仮定しているだけだったりします。
集合意識や無意識などの言葉もあると思います。
それらもやはりラベルです。
科学的には、意識というのは脳の働きによって発生しているのではないかと予測されていたりしますよね。
もしそうなのだとすれば、体が死んでしまえば、その意識は消滅することになります。
同じ意識が再び発生するなんていうことはないと思います。
なので、TAさんは少なくとも、意識は脳の働きによって発生しているわけではないと感じているのではないかと思います。
意識というのは、脳はもとより、体にも属さないものと認識しているのではないかと思います。
なので、魂も存在しないと考えるかもしれません。
僕も魂は存在しないと考えています。
魂は存在しないけど、意識は存在していると考えています。
この体が死んだ100年後に、またこの意識が顕在化する可能性もあるかもしれないと考えています。
それは、TAさんの考えと同じだと思うかもしれません。
ただ、根本的に違う部分があるんです。
この意識と、この世界の関係性です。
TAさんは、おそらく、この世界の中に、この意識が属してると考えているのではないかと思います。
自分の死後も、この空間と時間は継続するし、自分が生まれる前から、この空間と時間は継続してきたと考えるのではないかと思います。
そして、その時空に合わせて、意識がまるで輪廻するかのように現れるのではないかと考えるかもしれません。
言ってみれば、この空間と時間を、ある意味では絶対的なものだと認識しているのではないかと思います。
でも、僕はこの空間と時間を絶対的なものだと認識していません。
この体が死んで、仮に、この意識が再び顕在化するとき、そこがこの空間と時間の延長線上である確信は持てないわけです。
まるで輪廻するかのように現れるのは、世界の方だと思っているからです。
この意識の中に、世界が属していると考えています。
もちろん、こういったことは言葉では証明することができません。
ただ、ひとつ手がかりになるのは「この感情はこの世界に属しているのか?」という問いかもしれません。
意識というのは漠然としていて、なかなかその正体を突き止めることはできないと思います。
でも、感情というのはハッキリと認識することができますよね。
感情というのは、この体に属するものだと思われていますが、科学的には証明されていないと思います。
科学では素粒子のような極微小なものも観察できるようになりましたが、感情が何でできているのかを知ることができていません。
そもそも、体を解剖しようが、MRIで体をスキャンしようが、感情を可視化することができません。
科学的には、感情というのはまるで存在していないかのようなんです。
実際のところ、感情というのは、この世界に属していないんです。
感情がこの世界この体に属しているかのように感じられるのは、ここに意識があるからです。
この意識だけが、この感情を認識することができます。
であるなら、この意識もこの世界に属するものではないんじゃないでしょうか?
もちろん、こういったことも言葉では証明できません。
ただ、感情がこの世界に属していないということは、意識とは何かを理解するための手がかりになるのではないかと僕は思っています。