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「自分を愛しなさい」自愛について【Q&A】

今回は、Sさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。

Sさん、ありがとうございます。

Sさんからの質問

お久しぶりです。前回は質問にお答えくださり、ありがとうございました。

(関連記事:悟りの方向性の違いについて【Q&A】

また疑問が湧いてきましたので質問させてください。

スピリチュアルや自己啓発でよく、「自分を愛しなさい」「自分を大切に」と言われていますが、そもそも自己というものがないなら、この教えも無意味なように思えてきます。

自分を嫌って自暴自棄になったり、自分や人を傷つけるのは良くないと思うので、自分嫌いよりは自分を好きで満足して穏やかに過ごしている方がよいとは思います。

ただ、あまりに「自分が自分を一番愛して」「自分最高〜」「嫌な情報を見たり聞いたり、嫌な人と触れ合うのは自分が可哀そう」とか言っているのを聞くと、何だか疲れてきます。

自分にも他人にもこだわらない、もっと透明な境地があるんじゃないかなぁと思えてきます。

体の本能として、快、不快に従う。とか、そういう話なら自然に聞けるのですが。

山家さんはご自身の存在に対して、どのような認識をお持ちですか?

回答

Sさん
こんにちは。

お久しぶりです。

これは実は結構難しい問題だったりします。

「自分を愛しなさい」「自分を大切に」というのはごもっともだと思います。

ただ、自分とは何なのかという認識が人それぞれなので、こういった言葉はとても表面的なものになりがちです。

例えば、自分を嫌いだとすると、そこには嫌う側の自分と嫌われる側の自分の2つの自分があることになると思います。
「自分を愛しなさい」という言葉は、どちらの自分に対しての言葉なのかを明確にしていないんです。
もしくは、そのどちらでもないということも明確にしていないと思います。

嫌う側の自分を愛せばいいのか?
それとも、嫌われる側の自分を愛せばいいのか?
はたまた、他に自分という存在があるのか?

どう解釈するのかは人それぞれです。

スピリチュアルや自己啓発では、嫌う側の自分を愛そうとすることが多いのではないかと思います。
嫌う側の自分を愛そうとすることは、嫌われる側の自分を変えようとすることでもあったりします。

自分を好きになれるように変えていこうということですね。
ポジティブ思考で自分を変えていこうとするので、そのポジティブ思考に違和感を感じる人にとっては疲れてしまうかもしれません。

でも、実際のところは、自分を変えようとすることは嫌われる側の自分をさらに嫌うということでもあります。
なのでポジティブ思考でごまかせているうちはいいのですが、結果的にはさらに自分を嫌いになってしまうことも多いかもしれません。

一方、嫌われる側の自分を愛そうとすることは結構難しいです。

例えば、自分が自分を一番愛していなかろうが、自分が最高でなかろうが、そんな自分を愛するということですから。
「自分を愛しなさい」という本人が、実はそれができていなかったりもするんです。

大抵の場合には、そのことに気づいてもいないのではないかと思います。

本当に自分を愛するなら「自分を愛しなさい」とはなかなか言えなくなってしまうのではないかと思います。
「自分を愛さなければならない」と思う自己を存在させておく必要もないからです。

嫌われる側の自分というのは、嫌う側の自分がいるからこそ成り立ちますよね。
その嫌う側の自分が存在していないことが「愛」なのであって、愛するということはむしろ「愛」を覆い隠してしまうかもしれません。

Sさんからの返信

お返事ありがとうございます。

スピリチュアルや自己啓発では、嫌う側の自分を愛そうとすることが多いのではないかと思います。
嫌う側の自分を愛そうとすることは、嫌われる側の自分を変えようとすることでもあったりします。

成長過程で親や周りから否定されたり、傷ついた経験から自分はダメなやつだ。という認識で自己否定を抱えている時、それを克服しようとしたり、無気力だったり、破滅的だったりと人それぞれのあり方があると思います。 

ポジティブシンキング、見方を変えたりする教えも確かにあります。そういう教えは無理を感じて疲れますし、長続きしないと思います。

わたしが見聞きしたことのあるスピリチュアルや自己啓発で自分を愛するというのは、ありのままの自分、欠点もそのまま受け入れ、愛するという風に伝えられているものが多いように思います。

ただ、その受容的な教えの中にいても、自己否定がただ逆転(反転)しただけなんじゃないか?と思える人々がいるんです。

例えば、

・一般社会に馴染めない自分は魂の純度が高い。

・大勢の人々が疑いなく受け入れているワクチン接種に、違和感を感じる自分は波動が低いのかしら?(←皮肉として言っている。本当は自分の方が波動が高いと思っている)

という風に。

劣等感が転じて優越感になっているというか。。

自分自身に「愛しているよ」と話しかける。とか、自分が嫌な気持ちになる人や情報に触れないとか、そんなに過剰に自分を大事にしなきゃいけないのかな?とも思います。

本当に自分を愛するなら「自分を愛しなさい」とはなかなか言えなくなってしまうのではないかと思います。
「自分を愛さなければならない」と思う自己を存在させておく必要もないからです。

あれこれ考える自己がいなくなれば、自然に愛の状態でいられるという事でしょうか?

回答

Sさん
こんにちは。

ただ、その受容的な教えの中にいても、自己否定がただ逆転(反転)しただけなんじゃないか?と思える人々がいるんです。

もちろん、そうなってしまうと思います。

結局のところ、多くの人は心地よい感情を得たいと思っているのではないかと思います。
それはポジティブであれ、無気力であれ、破滅的であれ、同じなんです。

自分を愛するということを実践すれば、心地よい感情が得られるのではないかと期待してしまう人がほとんどなのではないかと思います。

ありのままの自分を受け入れるとしても、その結果、苦しむことになるのは嫌なんです。
なので、巧妙に、心地よい感情が得られるように自分の価値観を変えていこうとしてしまったりするんです。

例えば、

・一般社会に馴染めない自分は魂の純度が高い。

・大勢の人々が疑いなく受け入れているワクチン接種に、違和感を感じる自分は波動が低いのかしら?(←皮肉として言っている。本当は自分の方が波動が高いと思っている)

という風に。

こういったことは、まさしくそうだと思います。
嫌われる側を変えることができないなら、嫌う側を変えようとするんです。

言ってみれば、ありのままの自分が素晴らしい存在であるとするために、その前提条件を変えてしまおうとするんですね。
それは条件付きでありのままの自分を愛そうとすることであって、ありのままの自分を無条件で愛するということとはやっぱり違うんです。

無条件でありのままの自分を愛する人は少ないと思います。
それは苦しいことですから。

あれこれ考える自己がいなくなれば、自然に愛の状態でいられるという事でしょうか?

あれこれ考える自己というのはそもそも実体がないので、それが根本的に消えるということもないんです。
それは現れたり消えたりします。

「愛の状態」という言葉は素晴らしいイメージを引き起こすかもしれませんが、それは間違いなく多くの人にとっては退屈な状態です。
きっと、Sさんにとっても退屈に感じられるんじゃないかと思います。

でも、退屈や苦しみをはじめ、あらゆる感情は一時的ものなんです。
嬉しさだって、怒りだって、悲しさだって、楽しさだって、ずっとは続きませんよね。

ありのままの自分を受け入れることは苦しみを伴うかもしれませんが、それも一時的なものなんです。
もちろん、それがどれくらい長く持続するのかは人それぞれですが。

でも、苦しむことに飽きてしまえば、その苦しみが再び現れるということは基本的には無いんです。
飽きてしまったことを楽しむのは難しいですよね。

僕が空白JPで提案しているのは「苦しみと退屈は一時的なものだということを確かめてみてはどうでしょうか?」ということなんです。
あれこれ考える自己というイメージよりもよほど具体的なのではないかと思います。

愛の状態は、あらゆる感情が無い状態のことです。
それは無感情であるよう思えるかもしれませんが、そこには解放感があるんです。

なので、「自分を愛しなさい」と言われるなら、僕は退屈を愛することになります。
でも、多くの人にとってはそれは自分を愛することのようには思えないかもしれません。

Sさんからの返信

続けてお返事ありがとうございます。

結局のところ、多くの人は心地よい感情を得たいと思っているのではないかと思います。
それはポジティブであれ、無気力であれ、破滅的であれ、同じなんです。

嫌だと思っている無気力や破滅的な感情も、実のところ心地よく感じているんですね。

馴れ親しんでいるという感じでしょうか?

それも中途半端にせず、味わい尽くせば飽きてしまうんでしょうか。

退屈も苦しみも、紛らわさずその中に浸りきると過ぎ去っていく。。

感情は味わいつくせば消えると聞いた事があり、たぶん同じ事をおっしゃってると思うのですが、やり方としてはその感情が起きた時の体の感じを味わい続ける。という事でしょうか?

体感覚に没頭するような。。

ブログでも書いてらっしゃると思いますが、見落としているかもしれませんので、何かコツがあれば教えてください。

回答

Sさん
こんにちは。

嫌だと思っている無気力や破滅的な感情も、実のところ心地よく感じているんですね。
馴れ親しんでいるという感じでしょうか?

心地よく感じているというか、無気力や破滅的な感情は嫌だから心地よく感じられるようになりたいという感じでしょうか。
ポジティブな感情だって、現状に満足できていない(心地よく無い)という裏返しでもあるのではないかと思います。

それぞれ普段から慣れ親しんでいる感情は違うとしても、向かいたい方向性は同じということですね。
でも、まさか普遍的な心地よさが退屈の中にあると思う人は少ないかもしれません。

感情は味わいつくせば消えると聞いた事があり、たぶん同じ事をおっしゃってると思うのですが、やり方としてはその感情が起きた時の体の感じを味わい続ける。という事でしょうか?

これは難しいんですが簡単でもあります。
ただ、苦しんでいる、退屈している、という感情に気がついているだけでいいんです。

やり方も何もなく、気づくという働きはすべての人が持ち合わせている機能でもあります。

でも、ほとんどの人は苦しいとか退屈というのは嫌なので、気づく対象を別の何かにずらそうとしてしまうんですね。
それは例えば、体の感じに意識を向けるということも含まれるんです。

瞑想とかでは何かに意識を向けることが教えられることが多いので、感情を味わうということも似たように感じられるかもしれません。
でも、実のところ真逆なんです。

感情を味わうためには特別何かをする必要はないんです。

例えば、楽しいという感情を感じている時に、特別何かに意識を向けるということはしませんよね?
楽しさを味わっている時に、「体の感じに意識を向けなきゃ」とか思わないはずです。
むしろ、それは楽しさに水を差してしまうかもしれません。

なので、苦しみや退屈がやってきたなら、同じようにしていればいいんです。

作成者: 山家直生

空白JPアーカイブ2020+」「空白JPアーカイブ2021+」紙書籍&電子書籍(Kindle)も出版しています。

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このブログに書かれていることは、基本的には、なぜ、苦しみと退屈を避けないほうがいいのかということの説明のためにあります。

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