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Q&A 悟りと真理について

探求の進め方についてのご相談【Q&A】

今回は、FMさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。

FMさん、ありがとうございます。

FMさんからの質問

はじめまして、FMと申します。
ご助言を頂きたく、ご連絡しました。

悟りを求めて、ここ数ヶ月、とにかく思考と同一化しないことを心がけています。
具体的には、思考の内容をスマホのメモアプリに書き出したり、頭の中で「そう思ってるのは誰か? 私。私とは誰か?」とラマナの真似事のようなことをしています。

思考の内容がポジティブだろうがネガティブだろうが、とにかく思考に囚われそうになったら、上記のいずれかをやっています。
実際、そうすることで思考と同一化せずに流すことができており、思考に振り回されることが減りました。

以前は座禅をして思考を観察することもやっていましたが、どうも自分には向いていなかったようで長続きしませんでした。
そういった経緯もあり、上記の方法は効果があるのが嬉しくて習慣となりました。

ただ、ふと、「これを続けることで悟りに到れるのだろうか」という疑問が出てきました。
この方法を続けていけば、思考に悩まされることはさらに減ると思います。
ただ、仮に思考に振り回されなくなったとして、そのあとどうすればいいのかが分かりません。
また、上記の方法は効果がありますが、続けて意味があるのかという不安も少しあります。

この2つ疑問について、何かしらご助言いただけますと幸甚です。
よろしくお願いいたします。

回答

FMさん
こんにちは。

ご質問ありがとうございます。

ただ、仮に思考に振り回されなくなったとして、そのあとどうすればいいのかが分かりません。
また、上記の方法は効果がありますが、続けて意味があるのかという不安も少しあります。
この2つ疑問について、何かしらご助言いただけますと幸甚です。

まずはひとつめについてです。

効果についてですが、ある程度までは続ける意味はあるのではないかと思います。
ただ、悟りはその延長線上にあるわけではないんです。

思考に振り回されなくなるための方法はいくつかあると思います。
坐禅もそうですし、思考をメモしたり「私は誰か?」と問うこともそのひとつかもしれません。
他にも、マントラやヨガなどの方法もあると思います。

ともすれば、それらの方法はすべて悟りに続いていると思うかもしれません。
でも、そういうわけではないんです。

FMさんは、坐禅よりも思考をメモするほうが自分に向いていると感じていると思います。
でも、それは向き不向きというよりも、強度の違いなのではないかと思います。

例えば、重量挙げ。
一般人がいきなり100kgもの重量を挙げることはできませんよね。
挙げれなければどうするのかというと、当然、重りの量を減らしていくわけです。

まずは、5kgから試してみたりしてもいいわけです。
5kgじゃあ軽すぎるので、20kgぐらいが丁度いいかなと思う人もいるかもしれません。
それこそ、個人差があります。

思考に振り回されなくなるための方法にも、少し似たところがあるんです。
何もしない方法ほど、高重量になります。

坐禅はその意味ではわりと高重量の方なのではないかと思います。
一方、体を動かすことができるヨガは、低重量の方かもしれません。

マントラを唱えるということは中重量かもしれません。
思考をメモするということは、マントラよりも少し重いかもしれません。

どの方法であろうが、それが適切な重さであれば、思考に振り回されることは少なくなっていくと思います。

ただ、その状態は意志の力に依存した状態であるということは見落とされがちです。
意志の力を使って、重量を調節するからこそ、思考に振り回されずに済んでいるということが見落とされがちなんです。

そして、その意志こそが、思考の親玉みたいなものなんです。
つまりは、意志とは思考そのものです。

このことは、ふたつめの疑問に繋がっていきます。

ただ、仮に思考に振り回されなくなったとして、そのあとどうすればいいのかが分かりません。

これは意志とは何かという解釈次第なんです。

仮に、意志とは意識に属するものであると思うなら、思考に振り回されなくなったのなら、もうするべきことはないと感じるかもしれません。
でも、意志とは思考であるなら、次は意志という思考に振り回されなくなる必要があるかもしれません。

ここは真理の探求におけるターニングポイントです。
このポイントについて語った言葉は結構あります。

「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」
「自我(意志)とは、警察官のフリをして泥棒をつかまえようとする泥棒のようなものである」

イエス・キリストとラマナ・マハルシの言葉です。

思考をメモするためには、意志として思考を観察する必要があると思います。
その意志は、「自分は観察者なのであって、観察対象の思考とは違う」と思うのではないかと思います。

もちろん、ある段階まではそれでいいんです。
むしろ、そうせざるを得ないと思います。

ただ、観察対象である思考が起こらないことが増えてくると、意志の正体が見破られやすくなるんです。

例えば、漫画を読んでいて、その内容にツッコミを入れるということはないでしょうか?
「いやいや、その展開はあり得ないだろ〜」とか。

別に不自然なところは無いと思います。

でも、その漫画に何も描かれていないとしたらどうでしょうか?
すべてのページが真っ白です。
「何も描かれていないじゃないか!」とツッコミを入れるかもしれません。

でも、そのセリフが、漫画の中に吹き出しとして突如として現れたらどうでしょうか?
真っ白なページだと思っていたら、突如として吹き出しが現れて、「何も描かれていないじゃないか!」という文字が現れます。

意志の正体というのは、このようにして見破られたりします。

ここで言う漫画とは思考のことで、突如として現れる吹き出しは意志のことです。
意志とは漫画の中に現れるものであり、それは思考と同じようなものなんです。

思考が渦巻いているうちは、それは目立ちませんが、思考が起こらないことが増えてくると、意志の吹き出しが目立つようになってきます。
そして、どこかの段階で唐突にそのことに気がついてしまうことになります。

このことに気がついてしまったのなら、意志として黙らざるを得ません。
思考に振り回されなくなるための方法は色々ありますが、最終的にはそうしようとすること自体をやめる必要があるかもしれません。

なにしろ、自分自身が思考なのであり、沈黙を妨げているからです。

坐禅をしているなら、坐禅をやめるかもしれません。
思考をメモしているなら、思考をメモすることをやめるかもしれません。
マントラをしているなら、マントラをやめるかもしれません。
ヨガをしているなら、ヨガをやめるかもしれません。

思考に振り回されなくなった後には、そういった方向に向かっていくのではないかと思います。

(関連記事:瞑想にゴール(目標・目的)はあるんでしょうか?