ラマナ・マハルシは、「あなたは生まれたのですか?」と言うことがあります。この言葉、ちょっと究極的ですよね。そんなことを言われたなら、何も言い返せないわけです。「当然、生まれたと思っているけれども、それは勘違いだということなんだよね?」とか思うわけです。確かに、人は本質的には生まれてはいません。この世界は観照対象なのであり、その中に生まれたと感じるのは錯覚なんです。
でも、そのことに納得できる人はいるでしょうか? この錯覚はあまりにも現実的です。「私は母親から生まれたのであって、そのことを否定することなんてできない」と思うんじゃないかと思います。
明らかにこの体は生まれてるよね?
確かに、この体は生まれていると思います。母親がその証人でしょう。証人すら要らないかもしれません。この体は、明らかに、この世界の中に生まれているように感じられます。「この体が生まれたからこそ、私は存在している」と思うんじゃないかと思います。確かに、その通りです。世界中のほぼすべての人が、そのことに同意してくれると思います。
ただ、あなたというのは、この体なんでしょうか? 赤ちゃんとして生まれた瞬間から、「私はこの体だ……」と認識していたでしょうか? 人は、自分自身のことを「私」とか「俺」とかと呼びます。一人称で呼びます。この体を、自分自身だと認識しているからです。
でも、3歳ぐらいの小さな子どもは一人称じゃなかったりします。例えば、「タカシくん、眠くなってきたオ」とか、自分自身に対して三人称を使うことがあります。その体が、普段「タカシくん」と呼ばれているからですね。3歳ぐらいの小さな子どもにとっては、その体は、他人みたいなものだったりするんです。
体自身は、自分のことを「私」とも「タカシくん」とも呼びません。赤ちゃんは、そんなことは言わないわけです。でも、人は成長するにしたがって、自分自身のことを「タカシくん」と呼んだり、「僕」とかと呼ぶようになっていきます。それは、人の中に、だんだんと自我が芽生えてくるからなんじゃないでしょうか?
この自我はいつ生まれたのか?
人は、自我という存在を理解しています。でも、その自我が、具体的にいつ生まれたのかを言える人はいないと思います。ただ、なんとなく、気がついたら生まれていたという感じなんじゃないでしょうか?
「私はこの世界に生まれた」と主張するのは、この自我です。確かに、この体は、母親から生まれてきたのだと思います。そして、この体は、この世界に属しているのでしょう。でも、この自我はどうなんでしょうか? この自我は、この世界に属しているんでしょうか? 自我というのは、眼には見えないと思います。「私は、あなたの自我を見ることができる」と言える人はいないでしょう。自我というのは、あくまでも概念的な存在だからです。体の内面には、自我という存在があるのだろうとイメージすることができるだけです。
なので、この自我がいつ生まれたのかということは、ハッキリとは分からないわけです。この体の誕生日は記録されます。でも、この自我の誕生日は記録されません。いつ生まれたのかよく分からないからです。でも、人は、自我の存在をヒシヒシと感じています。いつ誕生したかは分からないけれども、この自我が、この世界に属しているということは確かなことだと感じているんじゃないでしょうか。
自我が生まれたという錯覚
多くの人が、自我という言葉を理解しています。でも、自我とは何かということを具体的に調べてみようとすると、どこか空を掴もうとするような感覚が拭えなかったりします。そもそも、自我には実体が無いからです。
例えば、「生まれるって一体どういうことだ?」と考えたとします。自我というのは、その思考と、どんな関係性になっているんでしょうか? その思考そのものが自我でしょうか? だとするならば、自我というのは、現れては消えていく存在ということになります。おそらく、多くの人はそうは思わないのではないかと思います。自我というのは〝思考する主体〟なんだと思うのではないかと思います。
でも、その〝思考する主体〟というのは一体どこにあるんでしょうか? 脳でしょうか? でも、脳から発生する思考というのは、暴走することもありますよね? 自我が脳であれば、思考をコントロールすることだってできるはずです。でも実際のところは、思考と自我は、対立したりすることもあります。自我は、「私はそんなふうに考えるべきではない!」と思ったりすることもあります。であるなら、自我とは、脳によって作り出されるひとつの思考でしかないんじゃないでしょうか?
実際のところ、自我という実体は無いんです。脳があり、思考があります。人は、そのことに気がついています。そこに、自我という実体は無いんです。自我は生まれていません。でも、多くの人は、その現象の中に、自我が存在していると感じているんです。それは例えるなら、映画を観ながら、自分自身がその映画の中に登場しているんじゃないかと感じていることに似ています。感情移入したからって、その映画の中に生まれることはできませんよね? あくまでも人は、その映画を観照することができるだけです。
あなたは一体誰なのか?
ラマナ・マハルシが「あなたは生まれたのですか?」と言うのは、「あなたは、この映画の観照者なんじゃないですか?」ということでもあります。この映画とは、この世界のことです。
「私は、この世界の中に生まれた」という認識が強い場合、このことはなかなか理解できないかもしれません。例えば、映画の中の登場人物は、「私は、この世界の中に生まれた」と認識しているかもしれません。でも、実際のところは、その登場人物は、単なる映像でしかないわけです。映画という世界そのものが、単なる映像です。実体がありません。なので、 映画の中の登場人物が、外から、その映画を観照することは不可能です。
でも、人の場合にはそれが可能です。というよりも、人は常に、外から(内から)この世界を観照しています。ただ、そこには映画のスクリーンのような境目がありません。あまりにも気づきと世界が一体になっています。なので、人は、この世界の中に生まれたと錯覚しています。そして、この世界の中に、感情移入しているんです。
多くの人は、感情は、体に属しているものだと認識していると思います。でも、本当にそうでしょうか? 感情は、自我と同じく眼で見ることはできません。なので、感情にも実体は無いと思うかもしれません。でも、感情というのは明らかに〝ここ〟で感じられるものですよね。
その〝ここ〟は、この世界に属するものなんでしょうか? 例えば、人は映画を観て感動することがあります。それは〝ここ〟で感じられます。映画を視聴するのは、眼と耳です。でも、その映画に対して反応するのは、眼でも耳でもなく〝ここ〟なんです。ちょっと不思議ではないでしょうか? そしてまた、眼と耳は〝ここ〟の存在を認識することができません。〝ここ〟を見れるでしょうか? 聞けるでしょうか? それは、鼻も舌も皮膚も同じです。脳もそうです。脳は、5感覚と思考やイメージを統制しているだけです。〝ここ〟は脳によってイメージされているんじゃないかと思うかもしれません。でも〝ここ〟以外の場所に、感情をイメージすることはできるでしょうか? 脳にそんな能力はありません。
そう考えると〝ここ〟とは一体何なんでしょうか? 5感覚にも脳にも認識されないにも関わらず、人は〝ここ〟の存在を認識しているわけです。もしかすると、〝ここ〟を認識しているのは〝ここ〟自身なんじゃないでしょうか? そして、それはあなた自身なんじゃないでしょうか?
映画の中の登場人物は、映画の〝外〟の存在を認識することができません。でも、映画の観照者は、映画にも自分自身にも気がつくことができます。であるなら、眼、耳、鼻、舌、皮膚という5感覚は、映画の中の登場人物のようなものであって、それを観照しているのは〝ここ〟なんじゃないでしょうか?
そのことに腑が落ちてしまえば、「この体はこの世界の中に生まれた」という認識も崩壊していきます。〝ここ〟が認識しているのはあくまでもこの5感覚、思考やイメージです。体が存在するという認識は、記憶によって作り出された二次的なものだということに気がついてしまうかもしれません。
あなたは一体誰でしょう? あなたはこの世界に生まれたんでしょうか?
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