今回は、HSさんから頂いた質問メールを公開したいと思います。
HSさん、ありがとうございます。
HSさんからの質問
自我が海の泡で、海が実在(神・創造主?)であるとしたら、泡が弾けて泡の一滴が海に吸収されるとき、個が神という全体そのものになる事になると思いますが、その時、自分という存在が全体になる事(戻る事?)にどのような意味があるのでしょうか?
海に戻る(神と一体化)事が目的であるのなら、泡(人・自我)を誕生させる必要はないのでは?という疑問があります。
多くの自我人類が悟った時(真我探求を終わらせた時)、その先に何があるのでしょうか?
個人(自我)がなくなった人類は個としての認識が無い状態で何を成すのでしょうか?
回答
HSさん
こんにちは。
ご質問ありがとうございます。
泡と海の例え話は良くでてくると思います。
ただ、この例え話の場合、海とは自分の認識を超えたものだという勘違いが起こりがちなんじゃないかと思います。
そうじゃないんです。
今この瞬間だって、すべての人は海そのものです。
海に戻るとか、神と一体化するという問題は実在していないんです。
ただ、泡が起こっては弾けていくということが連続的に起こっているために、泡に意識が集中してしまっているんです。
その結果、自分は泡だと勘違いしています。
泡というのは、ものすごく強固な膜で覆われているわけじゃないんです。
いとも簡単に泡は弾けています。
泡というのは、思考やイメージ(意志も含む)です。
思考やイメージは起こっては消えていきますよね。
常にここにとどまっていられるような思考やイメージというのは存在しないと思います。
にも関わらず、多くの人は「私は泡としてここに存在している」と思っています。
それは勘違いなんです。
海自身がそう勘違いしているのであれば、その泡が弾けるはずがないんです。
海が弾けるということはありませんよね?
なので、海として「この泡を弾けさせよう」とする試みは、ことごとく失敗します。
どんなに瞑想しようが、マントラを唱えようが、苦行をしてみようが、聖典を読んでみようが、それが成功することはありません。
泡が弾けるならば、この体に限定されていた認識が、宇宙レベルに飛躍するなんてことは無いんです。
海の外に海があるわけがありません。
ただ求められるのは、無知が取り除かれることだけなんです。
自分は泡なんだという勘違いを取り除くだけです。
その方法は「私はここに存在している(私は在る)」という状態に、錯覚が消えるまでとどまり続けることだけです。
自我が海の泡で、海が実在(神・創造主?)であるとしたら、泡が弾けて泡の一滴が海に吸収されるとき、個が神という全体そのものになる事になると思いますが、その時、自分という存在が全体になる事(戻る事?)にどのような意味があるのでしょうか?
悟りそのものには何か意味があるということはないんです。
ただ、錯覚が消えるだけです。
海に戻る(神と一体化)事が目的であるのなら、泡(人・自我)を誕生させる必要はないのでは?という疑問があります。
実際のところ、自我は誕生してはいないんです。
泡とは単なる思考やイメージであり、海自身が、自分自身をその泡だと勘違いしてしまっただけなんです。
それが、自我や意志と呼ばれます。
多くの自我人類が悟った時(真我探求を終わらせた時)、その先に何があるのでしょうか? 個人(自我)がなくなった人類は個としての認識が無い状態で何を成すのでしょうか?
海があり、波があり、泡が起こっては弾けていくということは続いていきます。
悟りが起ころうが、人の個性は無くなりません。
なので、多くの人が悟ろうが表面的には何も変わらないし、その先に何かがある必要はないんです。
悟ると個としての認識が無くなると思うのは、自我の勘違いです。
消えるのは、あくまでも自我の錯覚だけなんです。
(関連記事:真我と自我はどう違うのか?)