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真我探求

真我と自我はどう違うのか?

今回は、真我と自我の違いについてお話したいと思います。

自我とは何かということは、多くの人が知っていると思います。

「自我っていうのは、つまりは、この私のことでしょ?」って思うんじゃないかと思います。

他人を指差して、「この人が私の自我だよ」って言う人はいないと思います。

自我とは何かというのは、それぐらい明白な感覚です。

でも、真我とは何かということになると、検討がつかなくなります。

真我とは宇宙意識のことだと言われることもあります。

そのことを信じるならば、人は、目の前の世界を指差して「これが真我だよ」と言うようになります。

でも、本当にそうなんでしょうか?

実のところ、真我と自我はまったく別のものというわけでもありません。

「私は存在する」という感覚は、真我も自我も共通です。

自分自身を指差す先が真我です。

自我は記憶でできている

自我というのは、記憶でできています。

生まれたばかりの赤ちゃんには、自我は無いように感じられます。

記憶が無いからです。

でも、成長して3歳ぐらいになると、自我が芽生え始めますよね。

それはつまりは、記憶が蓄積されることによって自我が芽生えるということです。

自我というのは、記憶の産物です。

(関連記事:自我は「記憶」を利用する

でも、多くの人はそうは思わないんじゃないかと思います。

「自分自身は単なる記憶という存在である」と自覚している人はどれだけいるでしょうか?

多くの人は、むしろ、自分は記憶を参照する側の存在であると思っているんじゃないでしょうか?

つまりは、自我と記憶は別物であると考えているんじゃないでしょうか?

そう勘違いするのは、ある意味では当然とも言えるんです。

なんといっても、世界中のほぼすべての人がそう勘違いします。

でも、そう勘違いすることができるのは、ここに真我があるからなんです。

真我というのは、未知の何かではなくて、自我が芽生えるよりも前から、記憶が蓄積される前から、ここに在るものです。

その真我が、記憶に覆われ、自我に覆われていきます。

そして、人は物心つくころには、真我とは何かを忘れてしまいます。

でも、自我という存在の核には真我があります。

それゆえに、自我は、自分は単なる記憶という存在ではないと勘違いすることができるんです。

(関連記事:そもそも、自我ってどういうものなのか?【エゴとは?自我とは?】

真我は記憶を超えている

実際のところは、「真我」+「記憶」によって「自我」がシミュレーションされているようなものです。

真我とは何かということを探求する時、多くの人は知識を求めます。

今の自分は何も知らないがゆえに、真我とは何かを知ることができないんだと考えます。

つまりは、「自我」+「記憶」によって「真我」が現れると考えるんです。

真我とは宇宙意識だと考えるなら、宇宙とは何かということを知りたくなるでしょう。

宇宙には限りがありません。

生きているうちに、宇宙のすべてを知るということは不可能です。

そしてまた、宇宙のすべてを覚えておくなんてこともできないでしょう。

人は、昨日食べたものもすぐに忘れてしまう生き物です。

人は、自分が知っていることしか知りません。

そしてまた、自分が知っていることが、正確である保証なんてどこにもないんです。

(関連記事:なにが正しいのか、本当のところは確認できない

誰しもが、記憶の覚え間違いを経験したことがあると思います。

例えば、500年ぐらい前までは、天動説が信じられていましたが、今では、地動説を信じる人の方が多いでしょう。

であるならば、2500年前のヴェーダの時代の宇宙と、現代における宇宙という言葉の概念はだいぶ違うものなんじゃないでしょうか?

そしてまた、現代の地動説が正しいということを証明することなんてできないんです。

「科学者がそれを証明しているじゃないか」と思うかもしれませんが、それはあくまでも記憶です。

科学者がそれを証明したんだという記憶があるだけなんです。

自我は、記憶を超えた理解をすることができません。

でも、真我は記憶を超えています。

気がついているすべてが真我か?

今ここの、気がついているすべてが真我であると言われることもあります。

確かにそうなのですが、それは、プロジェクターによって映し出される映像を、「プロジェクター」と呼ぶようなものです。

プロジェクターとは何かを明確に知っている人は、そうは言いません。

プロジェクター本体を指差して、「これがプロジェクターだ」と言うはずです。

そしてまた、プロジェクターによって映し出される映像を「プロジェクターと別のものでもない」と言うはずです。

意識によって気がつかれる、5感覚、感情、思考、イメージといったものは、瞬間のものであって、それはすぐに記憶に変わります。

言ってみれば、今、気がついているすべては、すべて記憶の材料になります。

なので、今、この瞬間を重要視するということは、記憶を重要視しているということと、あまり変わりません。

記憶を超えるということは、5感覚、感情、思考、イメージといったものに意図的に意識を向けることなくとどまるということです。

「それは真我とは関係なく、無意味な行為なんじゃないの?」と思う人もいるかもしれません。

でも、そう思うことさえ、記憶に依存しています。

記憶を超えるということは、自我にとっては恐ろしいものです。

虚無感の中に、突き落とされるような感覚があるかもしれません。

でも、そもそも、自我というものは、真我と記憶によってシミュレーションされているものです。

その虚無感すら、シミュレーションされたものかもしれません。

(関連記事:「虚無(絶対無)」を唯一の「有」と見抜く

作成者: 山家直生

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