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仏教(ゴータマ・ブッダ) 瞑想

十牛図はマインドフルネスの過程を表しているのか?

禅の十牛図は、マインドフルネスの過程を表している図であると言われることがあるようです。

牛を探そうとする姿が、マインドフルネスであるように見えるのかもしれません。

自分の行動に気づきながら、日常生活を送ろうとするマインドフルネスの姿勢と重なるのかもしれません。

確かに、十牛図はマインドフルネスの過程を表しているようにも思えます。

でも、それは半分だけ正しいです。

十牛図がマインドフルネスの過程を表しているように思えるのは、人牛一体となる第6図「騎牛帰家」までです。

第7図「忘牛存人」以降は、マインドフルネスは関係ありません。

むしろ、第7図「忘牛存人」以降は、マインドフルネスであろうとすることを手放す過程を表しています。

(関連記事:禅の十牛図をわかりやすく解説【悟りに至る段階】

十牛図はむしろ、マインドレスネスに至る過程を表しています

十牛図というのは、マインドフルネスの過程を表しているのではなく、むしろ、マインドレスネスに至る過程を表しているものです。

これは、矛盾する話のように思えるかもしれません。

禅では、まずはマインドフルネスであることが教えられるかもしれません。

坐禅を組むだけではなく、日常生活の中でも気づきを保つことが推奨されるかもしれません。

もちろん、それは難しいことです。

でも、マインドフルネスであろうとする努力を続けるならば、やがては、日常生活の中でも常にマインドフルネスであることができるようになると思うかもしれません。

確かに、段々とそうなっていきます。

でも、日常生活の中で、常にマインドフルネスであることが悟りではないんです。

心理学では、マインドフルネスである状態をフローと呼ぶかもしれません。

でも、フローであることが悟りではないんです。

フローというのは、集中力が高まった状態です。

プロスポーツ選手のとても集中力が高まった状態をフロー状態と呼んだりもします。

十牛図で言えば、第6図「騎牛帰家」の状態です。

騎牛帰家

もし、この状態が悟りなのであれば、十牛図ではなく、六牛図であるべきなんじゃないでしょうか?

でも、十牛図にはこの先があります。

それは、マインドフルネスであることが重要なわけではなく、むしろ、マインドレスネスでいられることが禅の目的だからです。

(関連記事:「マインドフルネス」と「マインドレスネス」

牛に乗るまでは、マインドフルネスであることを目指します

もし、マインドレスネスでいられることが禅の目的なのであれば、最初からマインドレスネスであることを教えればいいようなものです。

でも、それはそう簡単には行かないんです。

例えば、渋谷のスクランブル交差点の中でマインドレスネスでいられる人はいないでしょう。

人通りが多いですし、なにより、交差点の中に居続けてたら車に轢かれてしまいます。

静かにマインドレスネスでいたいなら、渋谷のスクランブル交差点ではなくて、他の静かな場所を探しますよね。

場所を移動できるなら、そういった選択肢があります。

でも、それが頭の中の話になるとどうでしょうか?

多くの人の頭の中は、渋谷のスクランブル交差点みたいになっているんじゃないでしょうか?

多くの思考が行き交っているんじゃないでしょうか?

場所を移動できるのなら良いのですが、あいにく、人はそこから移動することはできません。

できることは、その場所(頭の中)を静かにすることだけなんです。

そのために、まずはマインドフルネスである必要があるんです。

頭の中を静かにする必要があります。

その過程が、第1図「尋牛」から第6図「騎牛帰家」までに描かれています。

牛に乗ったなら、今度はマインドレスネスであることを目指します

牛に乗ることができるようになるということは、思考が勝手に暴れまわることが少なくなっているということでもあります。

渋谷のスクランブル交差点みたいに、多くの思考が行き交っている場合には、静かにしていることなんて不可能です。

でも、牛に乗れるぐらいにマインドフルネスでいられるならば、静かに黙っていることもできるようになります。

ただ、上手にマインドフルネスな状態でいられるようになると、ちょっとした逆説が起こるようになってきます。

頭の中を静かな状態に保てるのは、マインドフルネスであろうという意志があるからなのですが、頭の中がシーンと静かになってくると、今度は反対に、マインドフルネスであろうという意志が、静けさの中にさざ波を起こし始めます。

マインドフルネスであろうとする意志によって、他の思考は抑えることができたりするのですが、自身のその意志という存在は抑えることができません。

それが、本当の静けさを妨げているような感覚が現れてきたりします。

これは、真理の探求における大きなターニングポイントです。

このことに気がついたのなら、そして、意志としてマインドフルネスであろうと気をつけていなくとも、頭の中がある程度は静かになってきているのであれば、マインドフルネスであろうとする意志を手放せばいいんです。

手綱と鞭を手放してしまえばいいんです。

それを表したのが第7図「忘牛存人」です。

忘牛存人

マインドフルネスであることにこだわっている限り、第7図「忘牛存人」以降の図の意味は分からないでしょう。

ここからは、マインドフルネスではなく、マインドレスネスを目指すことになるからです。

マインド(意志)と気づき(意識)は別のものなんです。

(関連記事:「意志」と「意識」の違いとは?

作成者: 山家直生

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