人は、程度の差こそあれ、自分自身を客観的に俯瞰するということをしたりします。例えば、カメラを向けられるとなんとなく意識してしまうのは、カメラの視点から見た自分がどんな感じなのか気になってしまうからでしょう。人は、カメラがなくとも、仮想的な視点を作り出し、自分自身を俯瞰して観ることがあります。
こういった働きは、空間認知能力とも関係しているかもしれません。僕は、子どもの頃、空間認知能力が高いという自覚がありました(大人になって衰えましたが)。知らない道を通る時も、なんとなく、「この道はこの道と繋がっているのだろうな」ということを予測することができました。まるで、ジオラマを俯瞰して見るかのように、自分がいる場所を俯瞰して見ていたんです。
こういった能力は、女性よりも男性の方が高い傾向はあるかもしれません。でも、程度の差こそあれ、誰しもがこういった感覚を持ち合わせていると思います。そして、ともすれば、人はその感覚を、意識なのだと思ったりすることもあるんじゃないでしょうか。
それが意識であって、観照者なのではないか?
自分自身を客観的に俯瞰して観ている存在。「それを観照者と呼ぶのではないか?」と思う人は少なくないと思います。なんとなく、そんな気もするからです。なにしろ、自分自身を俯瞰して観ている存在です。それは、この身体ではないんです。この眼球は、眼の前のものしか見ることができません。この眼球が空中に浮かび上がって、自分を俯瞰して見るだなんてことはないわけです。そんなことが可能なのはマンガの世界だけです。
でも人は、自分自身を空中から俯瞰して観ているような感覚を感じたりします。「霊的な眼がそこにあるからだよ」と言われたなら、信じる人もいるかもしれません。確かにそこには視覚的な何かがあり、それを観ている霊的な眼がそこにあるように感じられたりします。そして、それを意識と言ったり、観照者と言ったりすることもできるかもしれません。
それが観ているのは、この自分ではなく、単なるイメージです
誰しもが、客観的に自分を俯瞰して観ている存在に気がついています。でも、その〝自分〟というのは、本当にこの自分なんでしょうか? さきほども言った通り、この眼球が空中に浮かび上がるということは無いわけです。この眼球が、自分自身を外側から俯瞰して見るということはあり得ません。僕は、子どもの頃、空間認識に自信がありましたが、それでも、もちろん予測が外れることだってあるわけです。「あれ? この道はあの道に繋がっていると思ったんだけどな〜」ということも当然あるわけです。
であるなら、自分を俯瞰して観ている存在は、一体何を観ていたんでしょうか? 人は、その視覚的な感覚を現実だと認識するのですが、実際のところは、それは現実とはズレていることがあるんです。というより、完全に一致することは無いでしょう。であるなら、自分自身を客観的に俯瞰して観ているという感覚自体が、勘違いなんじゃないでしょうか? その〝自分〟というのは、現実のこの自分なのではなく、単なる〝自分〟というイメージなんじゃないでしょうか?
俯瞰しているのではなく、〝俯瞰したイメージ〟がそこにある
実際のところは、自分自身を俯瞰している存在がそこに在るわけではなく、〝俯瞰したイメージ〟がそこにあるんです。でも、まるで騙し絵のように、人はそこに俯瞰している存在があるかのように錯覚します。例えば、壁に本物そっくりに見える精巧な虎の絵とかが描かれていると、そこを通りかかった人はビックリしたりします。本当にそこに虎がいるんじゃないかと勘違いするんですね。それと同じようなことが、この気づきの中で起こるんです。特に、自分自身をイメージしてみようとすると、それは起こりやすいのではないかと思います。
例えば、目の前に真っ赤なリンゴをイメージしてみてください。あなたは、そのリンゴに観照されていると感じるでしょうか? むしろ、あなたが、そのリンゴを観照していると思うんじゃないかと思います。でも、今度はリンゴの変わりに、自分自身を観ている視点をイメージしてみてください。眼球は自分自身を見ることはできないのですが、頭の中で、自分自身を正面から観た視点をイメージすることはできるはずです。あなたは、その視点に観照されているでしょうか? それとも、あなたが、その視点を観照しているんでしょうか? この場合、自分がその視点に観照されていると錯覚することがあるんじゃないかと思います。でも、本質的には、その視点はリンゴのイメージと変わりません。観照されていると感じるのは錯覚なんです。
一体、誰がその〝俯瞰したイメージ〟を意識しているのか?
現代の科学は、意識とは何かということを明確にしていません。脳によって意識が作り出されているんじゃないかと推測されているようですが、よく分からないようです。探求の世界では、空間が意識であるかのように語られることがありますが、科学はそれを肯定はしていません。そもそも、意識が相対的なものか絶対的なものかもよく分かっていないんです。もし、空間が意識なのであれば、意識は相対的な性質も持ち合わせていることになります。それこそ、空間によって、この自分が観照されるということもあり得るはずです。でも、自分がそう意識しない限り、空間によって自分が観照されるということはありません。そして、そう感じたとしてもそれは錯覚なんです。
であるなら、意識、観照者というのは一体何なんでしょうか? 意識がここに在るという感覚は明らかにも関わらず、いざ、探そうとすると、それを特定することができないというのが意識です。現代の科学は素粒子の存在を確認できているにも関わらず、意識とは何かが分からないんです。
人は、ともすれば、自分自身を俯瞰して観ている存在を、意識だと感じたりします。でも、実際のところは、それは単なるイメージです。そうではなく、そのイメージに気がついているのは一体誰なんでしょうか? この眼球でしょうか? この眼球は、物質的なものしか見ることができません。カメラと同じです。目の前に真っ赤なリンゴをイメージしてみても、カメラはそのリンゴを写すことはできません。でも、人はそのイメージを見ることができます。
もしかすると、脳がそのイメージを作り出し、そして同時に見ていると思うかもしれません。確かにそう想像することができます。でも、脳自体は物質的なものです。脳は、パソコンで言えばCPUとHDDが組み合わさったもののように考えられています。HDDの中には、0と1の組み合わせによるデジタルデータが詰まっています。でも、パソコンには、自身に気づいているという自己意識は無いわけです。AI(人工知能)の技術が進めば、ある時点で唐突にパソコンは自己意識を獲得するんじゃないかと予測されていたりします。でも、そう考えることは、自分を俯瞰して観ている存在は意識なんじゃないかと錯覚していることに似ています。0と1の組み合わせが、意識の有る無しに影響を及ぼすでしょうか? 脳はそのようにして意識を獲得しているんでしょうか?
もし、意識が物質的な存在に左右されるものなのであれば、すでに現代の科学が、意識の正体を突き止めているはずです。意識とは物質的なものではなく、それは探そうとしても見つからないものです。にも関わらず、それはここに在ります。
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