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真我探求

「私は在る」という感覚は〝浄化具〟である

探求の世界では、「私は在る」という言葉が結構良く使われます。そのことを理解することが、真理を悟ることであるかのように扱われることが多いのではないかと思います。なにしろ、『聖書』にも登場する言葉です。「私は在る」とはどういうことなのか? 疑問に思う人も多いと思います。でも、実際のところ、「私は在る」ということは、あまりにも当たり前の感覚です。すべての人に覚えのある感覚のはずなんです。ところが、「私は在る」という言葉が特別視されてしまうあまり、「私は在る」という感覚も特別なものであるかのようにイメージしてしまう人も少なくないと思います。なにしろ、僕もそうでした。「これが『私は在る』という感覚であるはずがない」と思ってしまうんですね。

でも、実際のところ、「私は在る」という感覚は馴染みのあるものです。「私は在る」という感覚は、古典では〝浄化具〟と呼ばれることがあります。もし、「私は在る」ということがゴールなのだとしたら、そういった表現にはならないでしょう。「私は在る」ということを知ることは、重要なことではありますが、それで探求が終わるものでもないんです。

私は在る、けど、だから何?

僕は、「私は在る」ということを知った時、「な~んだ、こんなことか……」と思いました。確かに、そこにはある種の気づきがあるのですが、すごいことに気がついてしまったという感じではありません。むしろ、「だから何?」とすら思えました。

ラマナ・マハルシの言う「沈黙」とはこのことかとも思えました。それは、まさしく沈黙です。言葉もイメージも現れておらず、ただ、そのことに気がついている状態です。瞑想を習慣にしている人であれば、よく知っている状態だと思います。でも、それを「私は在る」ということなんだと認識する時には、ある種の飛躍みたいなものがあります。突如とした気づきです。アハ体験みたいなものです。ある種の飛躍がないことには、それが「私は在る」ということだとは思えないのではないかと思います。あまりにも当たり前すぎるからです。

すべての人が、「私は在る」という感覚を知っています。ただ、認識がズレているんです。例えば、すべての人は空気を吸って生きています。でも、普段から空気を重要なものとして認識している人は少ないのではないかと思います。あまりにも当たり前すぎて、空気の存在に気がついていないんじゃないでしょうか? 「私は在る」という感覚もそれに近いものがあります。むしろ、空気よりもさらに身近なものです。この「私は在る」という感覚を取り除くことは不可能です。呼吸を止めたって、私は在ります。でも、「『私は在る』という感覚は未知の素晴らしいものなのだろう」と認識しているうちは、「私は在る」ことに気がつかず、未知の何かを追い求めてしまいます。灯台下暗しです。

古典では「私は在る」という感覚は〝浄化具〟と呼ばれます

バガヴァット・ギーターなどの古典では、〝知識〟という言葉がでてきます。現代においても〝知識〟という言葉は使われますが、古典では、その意味合いがだいぶ変わってきます。現代においては〝知識〟というと、〝記憶〟に近い意味合いで使われることが多いのではないかと思います。記憶無しには知識も無いと思うでしょう。でも、古典では〝知識〟というのは記憶とは関係がありません。古典では、「私は在る」ことを〝知識〟と言います。言ってみれば、「私は在る」と〝知識〟は同意語です。そして、バガヴァット・ギーターにはこう書かれています。

仮にあなたが、すべての悪人のうちで最も悪人であるとしても、あなたは知識の舟により、すべての罪を渡るであろう。(4・36) あたかも燃火が薪を灰にするように、知識の火はすべての行為(業)を灰にするのである。(4・37) というのは、知識に等しい浄化具はこの世にないから。〔行為の〕ヨーガにより成就した人は、やがて自ら、自己のうちにそれ(知識)を見出す。(4・38) 信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の寂静に達する。(4・39)

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「知識に等しい浄化具はこの世にない」と書かれています。つまりは、「私は在る」に等しい〝浄化具〟はこの世には存在していないということです。〝浄化〟というと、浄化する主体と、浄化される対象があると思われることが多いと思います。例えば、パワースポットに行けば〝浄化〟されるとかですね。パワースポットが浄化する主体なのであって、この身体が浄化される対象でしょう。確かに、そう信じるのであれば、それは効果があるようにも感じられるかもしれません。

でも、その関係性はこの世に属するものです。この世に属するものは、常に移り変わっていきます。極端なことを言えば、今、パワースポットと呼ばれる場所だって、地球が太陽に飲み込まれてしまえば存在しないでしょう。この世においては、浄化する主体だって変化の対象です。

一体、何が浄化されるのか?

「私は在る」は〝浄化具〟と呼ばれますが、一体、何が浄化されるんでしょうか? ともすれば、「私は在る」ということを知ることは、探求のゴールだと思われることも少なくありません。「『私は在る』、それで探求は終わりなんだ」と思う人も少なくないかもしれません。もちろん、そのことに疑問を感じなければ、探求はそこで終わるかもしれません。でも、なぜ、バガヴァット・ギーターでは、「私は在る」ということが〝浄化具〟と呼ばれるのか、その理由は分からないでしょう。

「私は在る」ということに気がついた時、人は、「私は在る」という感覚を、この身体に属するものだと思ったり、意識に属するものだと思ったりします。人は、この世界を相対的なものとして認識しており、「私は在る」という感覚も、その相対性の中の何かとして認識します。もし、「私は在る」という感覚を、身体に属するものと認識するならば、「『私は在る』、けど、この身体が死んでしまえば『私は在る』とは言えないよね?」という疑問を抱くかもしれません。また、「私は在る」という感覚が意識に属していると認識するならば、「一体、この意識はどこまで続いているのだろうか?(宇宙に果てなんてあるのか?)」と疑問に思うかもしれません。

実のところ、「私は在る」ことによって浄化されるのは、その勘違いです。「私は在る」という感覚を、この世界の中の相対的な何かと認識していること自体が錯覚なんです。

〝私〟と、今までの〝認識〟が浄化されます

「私は在る」ということに気がついたとしても、それは表面的な理解になりがちです。「だから何?」って思う人は少なくないのではないかと思います。今まで積み上げてきた根本的な認識はほとんど変わりません。「私は在る」という感覚が〝浄化具〟と呼ばれるのは、「私は在る」ことによって、その根本的な認識が段々と解体されていくからです。

「私は在る」ことは簡単なことでもあり、難しいことでもあります。「これが『私は在る』ということか……」と気づいたからといって、「私は在る」ことにとどまれる人は少ないと思います。というのも、〝私〟にとって「私は在る」ということは退屈なことでもあるからです。人は、心地よいと思う方向に流れていきます。もし、「私は在る」ということが退屈に感じるのであれば、人は、「私は在る」ことから離れていきます。それは、真理の探求においても変わりません。なので、〝私〟は、「〝私〟は『私は在る』ということを知っている」というポジションに落ち着こうとすることが多いのではないかと思います。

でも、その〝私〟は実在しているわけじゃありません。退屈という感覚だって実在しているわけじゃありません。「私は在る」ことによって、その錯覚は浄化されていきます。真理の探求では〝修行〟という概念があります。瞑想したり、ヨガをしたりとかですね。「修行の必要はない」と言われることもあります。でも、少なくとも、「私は在る」ことが退屈ではなくなるまでは、修行の必要はあるのではないかと僕は思っています。でなければ、「私は在る」ことはできないでしょう。結果的に、〝私〟は浄化されません。

〝私〟というのは記憶の集合体みたいなものです。人は、記憶喪失になった自分を、〝私〟と認識することができるでしょうか? 多くの人は、〝私〟という実体があると思っています。それを〝魂〟と呼ぶ人もいるでしょう。でも、実際のところは、〝私〟はラベルみたいなものです。それは本の背表紙みたいなものです。本の存在意義は、背表紙を作り出すことでしょうか? 背表紙というのは、紙が集積して厚みをもつことによって作り出された副産物みたいなものです。もし、紙そのものが無ければ、背表紙もありません。

「私は在る」ことによって浄化が進むなら、〝私〟は本の背表紙のようなものでしかないということに気がつくかもしれません。記憶があるがゆえに、〝私〟が存在しているように感じられているんです。そして、さらに浄化が進むなら、そもそも、〝記憶〟にも実体が無いということに気がつくことになるかもしれません。人は、漠然と〝記憶〟という枠を想像していますが、「これが私の〝記憶〟のすべてです」といって差し出せる人はいるでしょうか? スマホの中の写真のように、自分の記憶のすべてを閲覧できるという人はいないでしょう。そもそも、〝記憶〟という実体はないからです。言ってみれば、〝記憶〟だって、〝私〟と同じく、存在しているように感じられる背表紙みたいなものなんです。

「私は在る」ことによって、そこまで浄化が進んでしまえば、なぜ、バガヴァット・ギーターでは、「知識に等しい浄化具はこの世にない」と言われるのかが分かってきます。そもそも、〝この世〟というのは実在しないんです。それは、〝記憶〟を元に作り出された背表紙みたいなものです。

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作成者: 山家直生

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