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苦しみ

ひとりでいる時の苦しみ、他者と関わる苦しみ

苦しみは、大きく2種類に分けることができるかもしれません。ひとつは、内面的な苦しみです。例えば、過去を思い出しての苦しみや、将来を悲観しての苦しみなどです。「自分はなんてダメな人間なんだ……」と悲観するのは内面的な苦しみでしょう。内面的な苦しみというのは、ひとりでいる時にも苦しむことができる苦しみとも言えます。

ふたつめは、外部との関わりのある苦しみです。他者と関わることによって引き起こされる苦しみとも言えます。例えば、苦手な人と会うと苦しい思いをするというようなものです。「会社に行きたくない……」というのもこちらに属するんじゃないかと思います。

僕は「苦しみは避けない方がいい(なぜなら飽きてしまうから)」とよく言うのですが、その苦しみというのは、ひとりでいる時に感じる方です。むしろ、他者と関わる苦しみの方は、避けられるなら、避けたほうがいいんじゃないかとも思います。

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包丁を持った人は避けたほうがいい

もし、路上に包丁を持った人が歩いているのなら、避けたほうがいいのは明らかですよね。少なくとも、近づかないほうがいいのではないかと思います。むやみに近づいたのなら、その包丁で刺されてしまう可能性だってあるからです。それは、包丁ではなく、拳銃であったりしてもそうですね。また、明らかに怒声を放ってる人がいたとしてもそうなんじゃないかと思います。

「そんなの当たり前じゃん」って思うかもしれません。でも、それが、ちょっと苦手な知人とかになると、話が変わってくるんじゃないかと思います。ちょっと苦手な知人ぐらいであれば、むしろ避けるのではなく、我慢してでも相手に合わせた方がいいと考える人は少なくないんじゃないでしょうか? 特に、同じ組織に属している場合、そう考える人は少なくないんじゃないかと思います。好もうと好まざると、関わらざるを得ないからです。人によっては苦手意識を取り除こうと努力するかもしれないし、我慢に徹する人もいるかもしれません。はたまた、その人に対して攻撃的になってしまう人もいるかもしれません。

僕が「苦しみは避けない方がいい(なぜなら飽きてしまうから)」というのは、苦手な人であっても避けないほうがいいというわけじゃないんです。むしろ、避けられるのであれば、苦手な人は、避けたほうがいいかもしれません。

人は他者を理解することはできない

人は、基本的に、他者を理解するということができません。この理解は重要です。努力すれば、他人を理解することができると思っている限り、他者と関わることによる苦しみは起こり続けるのではないかと思います。

少し極端ですが、世の中から戦争が無くならないのは、それが理由とも言えます。「話し合えば分かる」と言いながら、その同じ人が、戦争を始めるということがあるんじゃないかと思います。「相手が話し合いに応じなかったからだ」とか「相手が譲歩しなかったからだ」とか理由をつけてです。別にそれがいけないと言いたい訳じゃないんです。そうではなく、「話し合えば分かる」という言葉が、そもそも、詭弁なんじゃないかということです。その言葉は、表面的には平和的な雰囲気を漂わせますが、その裏には、相手をコントロールしたいという欲求が隠れています。

相手を放っておけばいいんじゃないでしょうか? もしくは、相手を避ければいいんじゃないでしょうか? 無理に他者と関わろうとすることは、「話し合えば分かる」という言葉を信じるようなものかもしれません。その裏には、コントロール欲求が隠れていたりもします。

この意識が認識できるのは、この5感覚、思考、イメージ、感情だけです

人が他者を理解できないのには理由があります。それは単純です。人は自分の感情を知ることはできますが、他人の感情を知ることはできないからです。「いやいや、相手が怒っているかどうかは分かるでしょ」と思うかもしれません。でも、それは、相手の表情や動きを見て、そう推測しているだけなんじゃないでしょうか? 怒りというのは、感情を感じる部分で感じると思います。相手の怒りを、それと同じように感じることはできるでしょうか? もしかすると、「私は、相手の感情を、自分のものであるかのように感じることができる」という人もいるかもしれません。でも、それは錯覚である可能性が高いんじゃないでしょうか?

そして、人は、相手が頭の中で何を考えているのかを知ることができません。人は、嘘を言ったりすることがあります。頭の中で考えていることと、実際に口にする言葉がズレていたりすることがあります。自分が嘘を言う側であれば、そのズレに気がつくことができると思います。自分が頭の中で何を考えているのか分かるからです。でも、相手が嘘を言っているのかどうかは、外側から見ている分には分からないんじゃないかと思います。相手が頭の中で何を考えているのかが分からないからです。

もしかすると、「私は、相手が何を考えているか分かる」という人もいるかもしれません。確かにそういう能力を持つ人もいるようです。でも、その精度は決して高くないように思います。例えるなら、その精度は、新聞の大見出しは読めるけど、小さな文字は読めない、という程度なんじゃないでしょうか。それでもすごいことなので、そういった人と会うとビックリするかもしれません。でも、よくよく検証してみると、小さい文字は読めていないんだなと分かったりします。もし、「私は、相手が何を考えているか分かる」という人と出会ったなら、その精度を検証してみるといいと思います。感情を検証することは難しいですが、思考であれば、その精度を検証することができます。

というように、人が他者を理解しようとすることは、基本的には難しいです。例えるなら、電子顕微鏡を使わずに、ウイルスを観察しようとするようなものかもしれません。電子顕微鏡を使うことなく、ウイルスを観察することは不可能でしょう。肉眼ではウイルスを見ることはできません。ウイルスという存在が電子顕微鏡によって発見される前は、「何かがそこにあるんじゃないか?」と推測することができるだけだったんじゃないかと思います。他者を推測しようとすることも、同じようなものかもしれません。その点、この自分であれば、電子顕微鏡を覗き込むかのように、感情も直接知ることができますし、何を考えて、何をイメージしているのか? そしてまた、5感覚が何を感じているかもよく分かります。

まずは、自分自身を理解するべき

他者を知ることは難しいです。なので人は、まずは自分自身を理解するべきなんじゃないかと思います。ひとりでいる時に感じる苦しみには、何らかのイメージが伴うことが多いのではないかと思います。例えば、数日前に起こった出来事とか、未来への漠然とした不安なイメージとかです。場合によっては、その原因がよく分からないということもあるかもしれません。でも、少なくとも、苦しみという感情がここにあることには気がついているわけです。人は自分自身のことであれば、その感情、思考、イメージ、5感覚などを知ることができます。そして、ひとりであるなら、その状況を他者に邪魔されることなくじっくりと観察することができます。

とはいえ、「組織に属しているなら、他者と関わらざるを得ないんですけど?」と思う人もいるかもしれません。確かにそうです。でも、人は一日中、他者と関わっているわけじゃないですよね。仕事が終わって、家に帰れば、ひとりになれる時間もあるはずです。まずは、そこから始めてみてもいいんじゃないでしょうか。実のところ、人は無自覚に、ひとりの時間を避けようとしていたりもします。根本的なところでは、人は退屈を恐れていますし、抑え込んできた苦しみと向き合うことを恐れています。

でも、ひとりでいるときに感じる苦しみには終わりがあります。最終的には飽きてしまいます。例えば、昔の出来事を思い出して、苦しい思いをするかもしれません。でも、その昔の出来事というのは、現実でしょうか? それとも、それは単なる記憶でしょうか? 単なる記憶が、感情に影響を与えているんでしょうか? 記憶と感情の関係性を観察するなら、次第に、現実であるかのように感じていたその記憶が、単なる記憶であるという認識に変わっていくことに気がつくかもしれません。過去の記憶や、未来へのイメージに苦しむことがあるのは、その記憶やイメージが、現実であるかのように見えているからです。

それは錯覚なんです。よく観察していると、それは単なる記憶やイメージだということに気がついてしまいます。「時が苦しみを癒やしてくれる」と言われることがありますが、それは、時間をかけて、現実のように見えていた記憶が、単なる記憶に見えるようになったということなんです。誰しもがそういった経験をしたことがあるんじゃないでしょうか? 人は、同じ映画を何回も繰り返して観ることができないように、苦しみの記憶やイメージも、何回も繰り返していると、飽きてしまって観ることができなくなってしまいます。つまりは、苦しみは消えます。

(関連記事:苦しみに飽きるための感じ方

もちろん、ひとりでいる時の苦しみが消えたとしても、現実は変わりません。組織の中で、苦手な人と関わらざるを得ないかもしれません。でも、まずは自分自身を理解するところから始めるのがいいのではないかと思います。他者との関わりは、次の瞬間には、記憶へと変わっていくからです。

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