真理の探求において、「師(グル)」というのは必要なんでしょうか?
グルというと、なんか宗教っぽいですが、言ってみれば「先生」とか「教師」ということですね。
僕も、以前、このことに頭を悩ませていたことがありました。
「師は必要か?」ということは、真理についての本の中でも、よく、取り上げられているテーマです。
「師は必要でしょうか?」
覚者に対して、こういった質問がされることはよくあります。
それに対する覚者の答えは、「必要」ということもあったり、「不要」ということもあります。
探求者からすれば、「一体、どっちなんだ!?」って思いますよね。
実際のところ、師というのは必要なんでしょうか?
必須じゃありません。
結論から言ってしまえば、必須というわけじゃありません。
目に見える、生きた師がいなくても、真理は悟ることができます。
真理というのは、師によって隠されているわけじゃありません。
真理というのは、あまりにもオープンな存在です。
あまりにもオープンすぎるがゆえに、道案内できる師がいたほうが、見つけやすいのは事実だと思います。
でも、だからといって、師が必須というわけじゃないんです。
実際のところ、僕には、目に見える、生きた師がいません。
一時期は探したこともあるのですが、見つけることはできませんでした。
この記事を読んでいる人の中には、「まさしく、今、師を探している」という人もいるかもしれません。
もし、その動機が、「師がいなければ、真理を悟れないのでは?」というものであるなら、安心してください。
必須というわけではないんです。
実際のところ、師がいない覚者というのも、少なくはないはずです。
例えば、ラマナ・マハルシ、クリシュナムルティには、生きた師がいません。
(関連記事:ラマナ・マハルシの伝記【書籍の解説】)
ゴータマ・ブッダも、2人の師についたようですが、それでは満足することができずに、最終的には、ひとりで、真理を悟るに至りました。
別に、真理は、隠されているというわけではなく、常にここに在るものです。
師というのは、あくまでも、その道なき道を、道案内できるだけです。
現代においては、生きた師の必要性は薄れてるかも。
僕は、現代においては、生きた師の必要性は薄れてきているのではないかとも思います。
というのも、ありがたいことに、多くの覚者の本が、日本語訳されて出版されているからです。
例えば、「ラマナ・マハルシ」、「ニサルガダッタ・マハラジ」、「ラメッシ・バルセカール」、「プンジャジ」、「ガンガジ」、「トニー・パーソンズ」、「ルパート・スパイラ」、「アジャシャンティ」、「OSHO」といった方々の本が、僕の本棚には並んでいます。
あまり、傾向が偏らないように、「パラマハンサ・ヨガナンダ」、「ラーマ・クリシュナ」、「サイババ」といった方々の本も読んできています。
もちろん、その他の方々の本も、本屋に行けばたくさんありますよね。
本屋に行かずとも、アマゾンでポチッと購入することもできます。
僕も、ポチポチと購入してきました。
僕は、こういった本で育ったようなものです。
なので、僕には、生きた師はいないのですが、「師は誰か?」と聞かれるなら、おそらく「ラマナ・マハルシ」と答えます。
本を読んで、写真を見て、頭の中で作り上げた、イメージとしてのラマナ・マハルシですが、僕の師です。
(関連記事:ラマナ・マハルシと、ゴータマ・ブッダ)
こういった、近代の覚者の本の良いところは、その信ぴょう性です。
例えば、「ラマナ・マハルシとの対話」という本は、ラマナ・マハルシ本人が、その原稿をチェックしていたようです。
これは、かなり信ぴょう性が高いですよね。
これが、2500年前のブッダについての本になると、本当に、ブッダがそんなことを言ったのかどうかの判断が、難しくなります。
僕は今、西暦700年ごろに書かれた、シャンカラ著の「ウパデーシャ・サーハスリー」という本を読んでいます。
(関連記事:シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」【書籍の解説】)
一応、この本は、シャンカラ本人が書いた作品だということになっているようですが、本当のところは分かりません。
また、活版印刷が登場していなかった時代には、こういった本に触れることができたのは、ごく一部の人たちだけだったのではないかと思います。
本がまだ、希少だった時代です。
じゃあ、探求者は、どうやって真理に触れるのかというと、師を見つけるしかないわけです。
でも、現代においては、覚者と探求者の対話の内容すらも、書籍化されて、アマゾンでポチっと購入できます。
覚者自身がその内容をチェックした、何年間にもわたる対話を、自宅の部屋でじっくりと読むことができるんです。
ムージのように、YouTubeで動画を配信している覚者もいます。
昔では、考えられなかったことなんじゃないでしょうか。
師がいないことのメリット。
僕は、師がいないことにはメリットもあると思っています。
それは、良くも悪くも孤独になれるということです。
生きた師がいない場合、おそらく、特定のコミュニティに属することもないと思います。
真理についての情報は、本から仕入れて、後は、それについて考えたり、瞑想をしたりします。
孤独の良いところは、そこに、同調圧力がないというところです。
人って、何人か集まると、そこには必ずといってもいいほど、同調圧力というものが発生すると思います。
なにかしらの、共通認識みたいなものがつくられるんです。
そういった、共通認識というものは、コミュニティを一定に保つということに関しては良く働くと思います。
でも、その反対に、認識の変化というのは起こりにくくなります。
真理の探求なんて、認識の変化の連続です。
一方では、共通認識を保ちながら、一方では、認識を変化させ続けるなんていう器用なことができる人は少ないのではないでしょうか?
そして、この同調圧力というのは、師との間でも発生するものです。
もちろん、師による同調圧力が、あなたを真理に導いていくなら良いと思います。
でも、そうではないこともあるはずです。
その点、孤独であれば、師による同調圧力というものもないんです。
そして、結局のところ、真理というのは、「沈黙」にとどまることによって理解されるものです。
生きた師の言葉、本に書かれていること、そのすべては、「なぜ、黙らなければならないのか?」ということの解説です。
このブログも、それを目的に書かれています。
もし、孤独であるならば、沈黙はすぐそこにあるんじゃないでしょうか?
ただし、サットグルを見つけることは必須です。
生きた師を見つけることは、必須というわけではありません。
でも、本当の師、サットグルを見つけることは必須です。
生きた師ですら、サットグルに師事します。
「じゃあ、そのサットグルを見つけることは、生きた師を見つけることよりも難しいのでは。。」
と思うかもしれません。
でも、そうでもないんです。
例えば、こんな質疑応答があります。
「サットグルを見つけるためにも、生きた師が必要なのではないでしょうか?」
それに対して、ラマナ・マハルシはこう答えています。
「生きた師が、サットグルはあなたの内にいると言っているのです。」
サットグルは、常にここに在ります。
あなたは、今、このブログを読んでいると思いますが、今、この瞬間にだって、そこにはサットグルがいます。
ただ、サットグルは、最初のうちは、仮面をかぶって現れることが多いです。
苦しみという仮面。
満たされていないという仮面。
分離感という仮面。
なにかが欠けているという仮面。
退屈という仮面。
あなたが、それを避けるならば、サットグルは仮面を外すことはありません。
でも、もし、その仮面を外させたいと思うのであれば、ジッと、その姿を観察すればいいんです。
その仮面は、いつまで存在し続けることができるでしょうか?