今回は、もし、僕が意図的にハートの感覚を作り上げるならどうするかというお話をしたいと思います。というより、これは、僕が探求を始める前の体験談です。僕は探求の過程で、意図的にハートの感覚を作り上げるということはしてきませんでした。それは、探求を始める前に、意図的にハートの感覚を作り上げるということを十分に実践してきたからでしょう。その行為の行き着く先をすでに知っていたんです。
「ハートの感覚」という言葉が意味するものとは?
僕は、「ハートの感覚」と良く言うのですが、それが何を意味するのかということを、言葉で正確に表現することはできません。強いて言うなら、仕事から解放された感覚とか、小学生の夏休み初日のような感覚、とか表現することが多いと思います。そして、それは持続的なものだと言っています。でも、結局のところ、「ハートの感覚」というのは、その言葉を聞く、受取り手の解釈に依存します。
おおざっぱに解釈するなら、ハートの感覚というのは、「心臓のあたりで、感情を感じる場所で、心地よく感じられる感覚」と言うこともできると思います。例えば、天気の良い日に、外に出て散歩をして、良い気分になっている時、その感覚を「ハートの感覚」と呼ぶこともできるかもしれません。
その他にも、例えば、好きなアーティストのライブに行って、高揚感を感じる時、それを「ハートの感覚」と呼ぶこともできるかもしれません。それは確かに、「心臓のあたりで、感情を感じる場所で、心地よく感じられる感覚」だからです。なので、基本的には、ポジティブに感じられる感情であれば、人は、そのすべてを、「ハートの感覚」と感じることが可能です。
理想的な未来をイメージする
僕は探求を始める前、NLPなどの自己啓発的なことを実践している時期がありました。NLPというのは、Neuro Linguistic Programing(神経言語プログラミング)の略で、簡単に言えば、理想的な未来を実現させるための、脳科学的、心理学的な技術です。
その具体的なやり方の1つに、理想的な未来を思い描いて、そのイメージにリアリティを感じていくというものがあります。リアリティを感じるというのがミソで、リアリティの高いイメージをすると、まるでそれがすでに実現されたかのように感じられたりします。そして、それに伴って、理想的な未来が実現したかのような高揚感が感じられたりします。
その高揚感というのは、ともすれば、ハートの感覚と少し似ています。というよりも、「これがハートの感覚なのだ」といとも簡単に錯覚することができるはずです。僕は、探求を始める前からハートの感覚を知っていました。「なぜ、自分は根拠もなく解放感を感じていることがあるんだろうか?」と不思議に思っていました(当時は、ハートという言葉も知りませんでしたが)。それでも、それは安定的なものでもなく、そのハートの感覚が失われたように感じることもありました(結局のところ、それは探求が終わるまで続きますが)。その因果関係を良く理解していなかったんです。
なので、理想的な未来をイメージして、高揚感を感じるということと、根拠もなく解放感を感じるということの区別が、当時の僕はあまりできませんでした。どちらにしろ、良い気分であることには変わりはなく、次第に僕は、現状を変えたかったということもあり、理想的な未来を思い描いて、高揚感を感じるということにのめり込んでいくことになりました。
高揚感を感じる音楽を聴く
僕は、理想的な未来を思い描く他にも、高揚感を感じる音楽を聴き続けるということも実践してきました。NLPでは、人は視覚タイプと、聴覚タイプと、触覚タイプの3つに分けられると言われています。人によって、反応が強い感覚が違うということですね。僕はおそらく、聴覚と触覚が強いタイプです。なので、散歩をしている間とか、移動中は、高揚感を感じる曲を聴き続けるということをしていました。
そして、その高揚感に合わせて、まるで地平線から透明な龍のようなものがとぐろを巻いて空を覆うようなイメージをしたりもしていました。そうすることで、その高揚感がより強くなるように感じていたからです。当時の僕は、それが素晴らしいことなのだと感じていました。もし、当時の僕が、空白JPを読んだとしても、「苦しみと退屈を避けないこと」ということの意味を理解できないのではないかと思います。むしろ、「意志を強く持って、高揚感を作り上げることのほうが重要じゃない?」と思うのではないかと思います。
(関連記事:苦しみと退屈を避けないこと)
僕には、どこか過集中的な性格があり、のめり込むとそれを徹底的にやるタイプです。なので、理想的な未来を思い描いて、高揚感を感じる曲を聴き続けて、透明な龍が空を覆うようなイメージをするということを、徹底的にやり続けました。その結果どうなったのかといえば、約1年後、理想的な未来のイメージは現実のものになりつつありました。でも、それと同時に、僕の集中力も終わりつつありました。「ハートの感覚」を保つことが難しくなってきていたんです。
結局のところ、飽きることは避けられない
ハートの感覚の中、僕は、それが永続的に続くと思っていました。ハートの感覚を、コントロールできるように感じていたんです。実際のところ、少なくともその時は、コントロールできているように感じられるんです。なので、そう錯覚するのも無理はありません。でも、その集中力は、そう長くは続かないんです。具体的なところで言えば、例えば、同じ曲を聴き続けていると、せいぜい数ヶ月で飽きてしまいます。飽きてしまった曲を聴き続けることは、むしろ、苦痛に感じられるものです。なので、僕は、高揚感が感じられる曲を探し続けなければなりませんでした。それはどんな曲でもいいというわけでもなく、それなりの労力がかかります。
そして、不思議なことに、理想的な未来というのは、それが実現された時には、すでにそのことに飽きつつあるんです。そういった意味で、「理想に向かって行動している時が一番楽しい」と言われることがあるのは、その通りだと思います。理想の実現は、行動の終わりなのであり、人は本当のところは、そのことを求めているわけじゃなかったりします。
なので、僕はハートの感覚を持続させるために、新たな理想を思い描く必要がありました。でも、僕は、上手にその未来を思い描くことができませんでした。僕にとって、そういった未来は必要なく、現状維持で良かったわけです。現状維持という目標を前に、僕は、ハートの感覚を維持することはできませんでした。そうして、僕は理想的な未来を実現したにも関わらず、どこか不満を感じるようになりました。無理やりにでも、新たな理想を思い描こうとしたこともありますが、めんどくさいという思いの方が強く現れたりして、イライラするようにもなりました。
僕の真理の探求は、そのような過程を経て始まりました。この後の過程は、『空白JPアーカイブ2021+』の特別記事「僕にとって最後の執着となったもの」に書いています。
ハートの感覚を作り上げる方法には多様性がある
僕の場合には、理想的な未来を思い描くとか、音楽を聴いて透明な龍をイメージする(今思えば瞑想の一種とも言えますね)という方法でしたが、ハートの感覚を作り上げる方法は多種多様です。
例えば、チャクラに意識を向ける、意図的に呼吸をコントロールしてみる、目の前に霊的な何かをイメージしてみる、空間そのものを意識してみる、身体の気に意識を向けてコントロールしてみるとか、内面的なやり方でも色々あります。
その他にも、他人と会うことによってハートの感覚を作り上げるという方法もあります。例えば、宗教家の方は、言葉や身体的な操作を使って、他人にハートの感覚を感じさせる才能があることがほとんどなのではないかと思います。政治家、講演家、スピリチュアルリーダーの方々もそういった才能を持ち合わせているのではないかと思います。そういった才能が強ければ強いほど、多くの人が集まってくるでしょう。
もちろん、サッカー、テニス、バスケ、野球、ゴルフ、登山などのスポーツもハートの感覚を作り上げる方法ですし、ダンス、絵画、音楽、文学などの芸術だってそうだと言えます。映画を観るのだってそうですね。ビジネスにのめり込むのだってそうです。言ってみれば、人間社会のほとんどのものは、ハートの感覚を作り上げるためのものだとも言えるんです。そして、それらが多種多様化していくのは、多様化させる必要性があるというよりも、結局のところ、人はあらゆるものに飽きてしまうからでしょう。
僕は、この世界に多様性があることは素晴らしいことだと思いますし、それを楽しむのがいいと思います。でも、多様性というのは、飽きるということに対する、根本的な解決にはならないんです。そして、不思議なことに、根本的な解決方法は、その多様性の中に入れてもらえない傾向があります。〝何もしない〟ことは、退屈なことなのであって、ハートの感覚を作り出すこととは正反対のことのように思われているからです。
でも、もし、ハートの感覚を作り出すことに意図的な行為が必要なのであるならば、それが持続的になることはあり得ないでしょう。それは例えるならば、川を逆流しようとすることに似ています。集中力とエネルギーが持続する限り、川の逆流を楽しむことはできるかもしれませんが、いつかは限界がきます。飽きたり、その才能がなかったりもします。その時、川を逆流しようとすることは苦しみに変わり、そしてまた、川に押し流されてしまうことは、コントロールを失うことを意味し、恐ろしく感じられるわけです。
でも、それが勘違いだったとしたらどうでしょうか? ハートの感覚は意図的に作り出す必要はなく、むしろ、意図的にそうしようとするからこそ、それが苦しみだったり、退屈に変わるのだとしたら?
最後に、『スッタニパータ』からブッダのこの言葉を引用して終わりにしたいと思います。
他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。(762)
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