ラマナ・マハルシの本を読んでいると、「私ー私」という言葉がでてきたりします。
僕は、この言葉が何を意味しているのか理解できない時期がありました。
「なんで「私」という言葉が2つも登場するんだ?」とか「なんでそれがハイフンで繋がれているんだ?」とか疑問に思っていました。
「私は在る」という言葉とも違うように感じていました。
なんと言っても、「私」が2つ登場しますから。
でも、実際のところは「私ー私」と「私は在る」という言葉はほぼ同じ意味です。
ただ、「私ー私」という言葉のほうがより具体的です。
お話します。
「私ー私」は休息している意識のことじゃありません
「私ー私」という言葉については、ラメッシ・バルセカールの「誰がかまうもんか!?」の中でも触れられています。
こんな問答があります。
質問者:私は、この「私ー私」と「私は在る」に関して悩んでいます。
ラメッシ・バルセカール:それらは、まったく問題ではありません。なぜなら、それは別々のものではないからです。それは二つのものではないんですよ。休息している意識が、「私ー私」です。それが活動すると、「私は在る」なのです。ですから、「私ー私」は、実際にあなたに関わりがある観念ではないのです。それは観念にすぎません。あなたに実際に関わりがあるのは、「私は在る」のほうです。
ラメッシ・バルセカールは、意識を「活動している意識」と「休息している意識」の2つに分けます。
気づきがある状態と、気づきが無い状態の2つですね。
そして、「私ー私」は気づきの無い状態の意識だと言います。
でも、それは違うんじゃないかと思います。
ラマナ・マハルシが、わざわざ、気づきが無い状態について「私ー私」という表現を使うわけがないんです。
ラマナ・マハルシはシンプルに「熟睡中」とか「夢のない眠り」という言葉を使います。
「熟睡中、あなたは存在しているんでしょうか? それとも存在していないんでしょうか?」と言ったりします。
ラマナ・マハルシが言う「私ー私」という言葉は、休息している意識のことではないんです。
「私ー私」は「私は在る」をさらに具体的にした言葉です
「私ー私」という言葉は、「私は在る」をさらに具体的にした言葉です。
象形文字の雰囲気に近いものがあります。
「私ー私」という言葉は、文字通りに「私」と「私」の関係性のことを指しているんです。
「なぜ「私」が2つでてくるんだ? それは二元的じゃないか!」って思うかもしれません。
生きている限り、二元的であることは避けられません。
むしろ、そうであって当然です。
本当の非二元論というのは、熟睡中の状態と、起きているときの状態は2つではないということです。
熟睡中であろうと、宇宙が消滅していようと、起きている時であろうと、その根底には「私」が存在しているということです。
なので、ラメッシ・バルセカールの「「私ー私」は、実際にあなたに関わりがある観念ではないのです」という言葉には、少し違和感を感じるものがあります。
ラマナ・マハルシであれば、「熟睡中であろうと、宇宙が消滅していようと、あなたは存在しています」と言うでしょう。
あなたは、「私は在る」という言葉をどう理解しているでしょうか?
「私は在る」を別の言葉で表現すると、「観照者としてとどまる」とも言えるかもしれません。
観察者として観察しようとすることなく、気づいている状態にとどまるということですね。
純粋な意識としてとどまるとも言えるかもしれません。
意識として、思考が無い静けさ、沈黙に気づいている状態とも言えると思います。
僕も、そういった状態を「私は在る」と表現したりもします。
でも、「私は在る」という状態には、別の形態もあります。
もし、あなたがハートとは何かを理解しているのであれば、「私は在る」というのは、意識としてハートに気がついている状態になるでしょう。
本当の意味での「私は在る」というのは、こっちの方です。
意識としてハートに気がついている状態です。
意識としての「私」がハートとしての「私」に気づいている状態が「私ー私」です
ラマナ・マハルシの言う「私ー私」というのは、意識としての「私」が、ハートとしての「私」に気がついている状態のことを指します。
ハートに気がついていない状態を含む「私は在る」という言葉よりも、より具体的なんじゃないかと思います。
「ラマナ・マハルシとの対話」から「私ー私」についての問答を引用してみます。
質問者:想念が突然止まり、「私ー私」が突然湧き上がって、それは続いています。それは感じることの中にあり、知的なものではありません。これでよいのでしょうか?
ラマナ・マハルシ:もちろん、それでよいのです。「私ー私」が湧き上がるのを感じるには、想念や理性が消え去らなければなりません。感じることが主な要因であり、理性ではないのです。
質問者:何よりも、それは頭の中ではなく胸の右側で感じられるのです。
ラマナ・マハルシ:そうあってしかるべきです。なぜなら、ハートはそこにあるからです。
ハートが胸の右側で感じられるというのは、必ずしもそうではないかもしれません。
少なくとも、僕の場合には、胸の中心で感じられます。
まんま、感情を感じる部分です。
また、こんな問答もあります。
質問者:シャンカラーチャーリャの「ヴィヴェーカ・チューダマニ」は、「私ー私」意識はハートの中で永遠に輝きながらも、誰もそれに気づいていないと述べています。
ラマナ・マハルシ:そうです。目覚め、夢見、夢のない眠り、どの状態であろうと、そしてそれを意識しようとしまいと、例外なくすべての人がそれを持っているのです。
質問者:あなたの言われる究極の意識「私ー私」が現れるセンターに達するにはどうすればよいのでしょうか? ただ単に「私は誰か?」と問えばいいのでしょうか?
ラマナ・マハルシ:そうです。それがあなたをそこへ連れて行くでしょう。あなたはそれを静かな心で行わなければなりません。心の静寂が不可欠なのです。
質問者:そのセンター、ハートに達したとき、意識はどのように現れるのでしょうか、私はそれを認識するでしょうか?
ラマナ・マハルシ:もちろんです。それはすべての想念から解放された純粋な意識として認識されます。それは純粋で完全なあなた自身の真我の覚醒です。というよりむしろ存在の覚醒なのです。それが純粋であるとき、見誤ることはありません。
質問者:「私ー私」意識は真我の実現なのでしょうか?
ラマナ・マハルシ:それは真我実現の前兆です。それが不変のサハジャ(自然な状態)となったとき、それが真我実現、解脱なのです。
必ずしも「私は誰か?」と問う必要もないと思います。
心が静寂になりさえすれば、どんな方法でも良いと思います。
また、「私ー私」という感覚は未知の何かではなく、多くの人はすでに知っている感覚です。
特別な何かだとイメージするなら、反対に「私ー私」を勘違いする可能性もあります。
「私ー私」という状態でありながら、そこから立ち去ってしまう人も少なくはないんじゃないかと思います。
僕の経験でも、「私ー私」にとどまることが真我探求なんだということを確信するまでは、多少の行ったり来たりがありました。
「私ー私」というのは、ある意味ではそれぐらい当たり前の感覚です。
当たり前の心地よい感覚とでも言えばいいでしょうか?
「「私ー私」というのは、もっと、すごい状態なのでは?」と勘違いする余地は大いにあります。
でも、最終的には、常にここに在ると言えるような感覚というのは、「私ー私」以外にはないと理解することになります。
「私ー私」というのは、決してあなたと無関係な状態ではなく、生きている限りは、それがあなたという存在のベースです。
そして、熟睡中、死後、「私ー私」は「私」になります。
一時的な存在である「私」が消えることになります。
その一時的な「私」というのは、意識とハート、どちらでしょうか?
関連記事:ラマナ・マハルシの「私は誰か?(Who am I?)」【書籍の解説】
関連記事:「私は在る」をインスタントに悟る方法